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Cadd9 #29 「枯れることのない大きな木」


十一月の終わりまで、直は樹の家で過ごした。

包帯が巻かれた直の顔を見て、樹は「誰にやられた?」とまっさきにきいた。直はしばらく考え込んでから、自分だ、とこたえた。もちろん、直が自分の手で左目を傷つけたわけではないことは、樹もわかっているはずだった。むしろ、そのひとことで大体のことを悟ったはずだ。それでも樹は、自分の身体が傷つけられたような、とてもつらそうな表情を浮かべていた。



四日目に、ナスノさんが病院に付き添ってくれた。医者は包帯を外してレントゲンを撮り、左目に光を当てたり目の前で指を動かしたりしたが、視界は白くかすんでしまい、光と影をぼんやりと認識することしかできなくなっていた。その日からしばらく眼帯をつけることになった。「感染症を起こしやすくなっているから、こまめに眼帯を取り換え、患部を洗い、常に清潔に保つように」と、医者は短い診察のあいだに三回も繰り返した。


診察のあと、直は病院のトイレで眼帯をはずし、鏡の前に立った。怪我をした直後は、ガラスの破片が頭の後ろまで貫通したような激しい痛みを感じた。だが傷はそれほど深くないらしい。それでも、破片がまぶたを切り裂き、眼球に突き刺さったことはたしかだ。直は自分の左目を鏡越しにまじまじと見つめた。まぶたには縦に傷が走っている。目を開けてみたが、右目の三分の二程度しか開かなかった。傷はまだ治っていなかったが、完治してもおそらくもうこれ以上開くことはできないのだろう。角膜は白く濁り、目を開けているとごみが入ったような痛みを感じる。涙と鼻水が流れた。直はもらったばかりの目薬をさし、ナスノさんと家へ戻った。すると、学校から帰ったばかりの樹が座敷に座って待っていた。

「おかえり。病院、どうだった」

直は眼帯をはずして傷を見せた。

「少しふさがってきたんだな。そっちの目で、俺が見えるか?」

「どっちの目」

「左」

直は右目を手のひらで隠してみた。試すまでもない。樹が着ている学生服が、黒い影のようにぼんやりと浮かび、目の前に佇んでいた。

「見えない」



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そのあとの一週間を、直はひたすら泣きとおして過ごした。今まで泣かなかったぶんの涙が、一気に流れはじめたような感じだった。片目が見えなくなったことも、それが父親の手によって負わされた傷であることも、それ自体はどうでもよかった。それは考えたところで今さらどうしようもないことなのだ。本当にどうでもいい気分だった。ただ何もかもが心の底から悲しかった。

ある日、ナスノさんとふたりで昼食を食べているとき、直が突然涙を流しはじめると、ナスノさんは何も言わずに前掛けの端で涙を拭いてくれた。まるで涙を一粒ずつ集めているかのように、流れ出たそばから拭っていった。

何より救いになったのは、ナスノさんが料理や掃除や畑仕事をさせてくれるということだった。直は毎日ナスノさんに料理を教わりながら炊事場に立ち、庭の草抜きをしたり、畑へ出てそら豆の種をまいたりした。何もしないでいるより、集中できる作業を次から次へと与えられるほうが気が楽だった。そうして一日のほとんどをナスノさんとふたりきりで過ごしたが、あまり多くは話さなかった。

ナスノさんが少し離れたところに立つ。そして、直がそこへやってくるのをゆったりと待つ。その繰り返し。ふたりの関係性はいつもそのようにして成り立っていた。直がてくてくとした歩みで追いつくと、ナスノさんはまたある地点まで離れていく。そしてまた直がついていく。そういう距離が、直とナスノさんの間にはあったのだった。


樹と直は、べつの部屋で寝ていた。樹が自分の部屋を直に貸し、座敷で眠っていたのだった。それなのに、夜中に直が家のどこかで泣いていると、声も上げていないのに樹はなぜか必ず目を覚まして直のそばへやってきた。樹はとなりにしゃがみ、背中をさすり、優しい声で力強く励まし続ける。夜が明けるまで、眠らずにそばにいてくれたこともあった。そして、そんな夜をいくつも過ごした、ある日のことだった。



直が風呂を終え、冷えきった廊下を歩いていると、座敷に座る樹の姿が見えた。樹は布団の上に胡坐をかいて、厚い本を読んでいる。直はその部屋に入り、すみから座布団をひっぱってきて、何も言わずに樹の横に座った。樹は本から顔をあげて直を見た。そのとき、直は眼帯をつけ忘れていることに気づき、濡れた髪を額に垂らして左目を隠した。

「どうして隠すんだ?」

「おかしいから」

「何もおかしくないよ」


本を閉じて傍らに置くと、樹は直の顔を真正面からじっと見た。直はすぐに顔を逸らし、縁側があるほうを向く。


縁側の軒先には、昼間にナスノさんと吊るした干し柿がぶらさがっている。直はそれを見ながらふと、樹と家族になれたらどんなにいいかと思った。そうなれば、このままずっと樹と一緒にいても、誰にも責められないような気がした。


「ねえ、樹」

「なに?」

「明日、家に帰るよ。学校にも行こうと思う」

「そう言うと思った」

「どうして?」

「べつに。そんな気がしただけだよ」

直は干し柿を眺め続けた。ガラス戸の向こうでかすかに揺れる橙色。なぜか妙に懐かしく感じる。今よりずっと小さな頃に、こんな夢を見たことがあるような気がした。

「最近、ずっと父さんに腹が立ってた。でも、それも本当の気持ちじゃないのかもしれない。やっぱり父さんが心配だ。だから、家に帰るよ。ひとりで困っているだろうし」

「そうするといい。俺がお前なら帰らないけど、お前は優しいんだな」

「ちがうよ。優しさじゃない。弱さなんだ。何も許しちゃいないのに、助けようとするなんて」


直は毎日そのことについて考えていた。どれだけ許すまいと思っても、裕二とのつながりを拭い去ることができない自分の弱さ。その弱さとよく似た裕二という存在を、自分の中から消してしまうことができない、結局は何もかもが彼と同類でしかない、自分の弱さ。

「俺はたぶん、ずっと父さんを傷つけるのが怖かったんだ。それは自分を傷つけるのと同じだから。前にも言ったでしょ。俺と父さんにはお互いしかいないって。だから父さんが俺をどんなふうに思っていたとしても、俺は父さんを嫌いになりたくなかったんだ。父さんを恨めば、俺は本当にひとりぼっちになってしまうから」

「直はひとりじゃないよ」

「本当にそう思う?」

「もちろん」

「だったら、どうして一緒にいてくれなかったの?」


直がそう言うと、一瞬、樹の瞳が戸惑いに揺れた。


「俺が怪我したとき、どうして一緒にいてくれなかったんだよ。どこにいたんだよ。俺、樹を探して走ったのに」


自分が間違ったことを言っているとはわかっていた。他人である樹に、そこまで求める権利はないのだ。わかっていても止められなかった。樹は眉間にしわを寄せ、静かに俯く。何かに怯えているようにも見えた。


「俺はいつもそうなんだ」

樹は小さな声で言った。直にはその意味がわからなかった。

樹は顔をあげると、直を見つめた。



「お前のことは、俺が守るよ」

樹の声でひとことそう告げられたとたん、こらえる間もなく両目から涙が溢れた。そして、樹は直を胸に抱き寄せ、温かな腕で全身を包み込んだ。

樹の呼吸を感じていると、直は安心した。深い眠りについているような、穏やかな息づかいをそばで感じる。懐かしい胸の体温も。決して枯れることのない大きな木に頬をあてて、目を閉じているような、とても静かな気持ちになる。


「約束する。俺がお前を守るよ。ずっと味方でいるから。もう泣くな」


樹は身体を離すと、手を伸ばし、直の前髪をかきあげて後ろになでつけた。そのとき、樹からいつもと違うにおいがした。実際に何かのにおいを嗅ぎつけたわけではないのに、樹の身体から、湿った甘い樹液のような香りが漂うのを、肌で感じた。


樹は手のひらで直の右目を覆った。右目は影に覆われ、左目の白くかすんだ視界だけが広がった。やがてそれも暗く翳り、何も見えなくなった。唇に熱く柔らかなものが押し当てられる。それは弱い力で吸いつくと、すぐに離れていった。


覆っていた手のひらをどけて、そっと身体を離したあと、樹は背中を丸めてうつむいた。

ふたりは顔を見ることも、声を発することも、身体を動かすこともできずに、時間が止まったように静止していた。たった今あったことにどんな意味や思いが含まれているのか、直は知らないし、おそらく樹にさえわからなかった。ふたりは言いようのないわずかな罪悪感を胸に抱きながら、ただ互いに目を逸らして座っていること以外、ほかにどうすることもできなかった。


0時の鐘が、重々しい音を鳴らした。



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