8月をすごく僕と14歳の僕を並べた後に。映画を見て感じる夏の始まり。
東京は相変わらずマスクの日々です。
これから書き綴られていく文章は、もう戻らない時間をどうやって過ごしていたかを映画のおかげて感じつつも明日を見つめ直そうとした自分の出来事です。
まぁ大事な人たちと心が通っているだけマシで、少しだけ息苦しく繊維で遮られているコミュニケーション。
だけど、世間が息苦しいのは別に今に始まったことではなくて、そう簡単には世の中変わらないぞと思いながらも好きな人たちに囲まれながら過ごしてるわけで。
最近っていうとあれだけ通った寄席から、少しだけ夜の過ごし方を表現を浴びることにシフトチェンジ。落語も表現だけど、言葉からビジュアルに。
なんでかと言うと、それはまた少しずつ本を読む時間が増えていったから。
文字を入れたい時、僕は誰かの経験を自分に置き換えて知りたいと考えている。
反対に、文字で精一杯になった時、僕は誰かの映し出したいビジュアルを見て、適切な言葉を頭の中から出していきながら気持ちと脳味噌を整理していきたくなる。
そんな性分で生きていて、そんな感覚で育ってきた。
東京、いつも通り。曇り空の中で取り戻そうとしている活気を浴びたくなり、街に出る。
物理的な距離感は保たないとどうやら大人には怒られてしまうらしく、知らない人との接点は、インターネット。
だけど、僕が欲しいのは知っている人との心の距離感。
▼映画
「はちどり」
14歳の頃って人の心は揺れ動く。未熟な中学一年生と、これからの未来へと進もうと少しだけ真面目に未来を考えようとする中学三年生の間の絶妙な人生の空白。
厨二病と言う言葉があるけれど、それだけ僕たちはこの1年の間に見聞きしたことで未来を一回見つめる余裕を持たせてもらえる人生の中での小休止。
だけど僕らはきっとその間にもがいて、何者にも慣れない瞬間に悩みながら、何者になるきっかけをつかもうとする。
だからこそ僕たちはこの一年を、大人になった今、振り返ってかけがえのない時間だったと回想することもあれば、思い出したくないような失敗もあったねと笑うことができる。
僕は14歳のとき、何をしていたのだろう。思い出そうとした。
クラスではいじめが流行っていて、身体の成長というどうしようもない差が才能やセンスとは関係なく力関係を決めてしまう環境の中にいた。
精神的な追い込みはPDCAではないのですよ。と思いながら、時には被害者で、時には加害者で、時には傍観者という、それぞれの罪を経験しながら、
みんながサッカーやバスケットに夢中な昼休みに、サニーデイサービスとコーネリアスのCDを教室の外のベランダで1人聴いていた。渋谷なんて知らないのに。
そこで歌われていることはこれからきっと経験するであろう青春というやつらしいけど、その青春が僕には訪れるのかわからないまま、幼なじみとたわいもない会話の中で、ただ、時間を2枚のCDと過ごしていた。
単に状況に怯えていたのかもしれないし、何もない日々に何かを作ろうとしていたのかもしれないし、何かあるはずの時間に気がつこうとしていたのかもしれないし。
この1年間を改めて見つめ直してみると、その何者でもない時間というのは、自分がもがくために社会が与えてくれた見守られている時間だったのだろうとこの映画を見て思う。
なぜなら、どんなにきつく当たっても、不器用に接されても、誰かが与えてくれた余暇に守られているのは明白だったからだ。
それは恵まれていたのか、そうではないのか、そんなことはわからないけれど、コーネリアスの音楽はカッコ良かった。
「曇天街」
ドンテンタウンと呼ぶこの街は、本当の出来事か、嘘の出来事か、夢なのか、虚構なのかわからないことが起きる。
うまくいかない曲作りのために街に引っ越すシンガーソングライターのソラ。見守ってくれる喫茶店のマスター。
引越し先に残された自分を記録するかのようなカセットテープ。
催眠術を試そうとする中学生。
みんながみんな、自分の置かれた状況と向き合うために今日も曇天街の中できっかけを探していく。
本当の心に気付きたくても気がつくことのできないもどかしさを関わり合いながら共有していくことで、答え探しをする。
そう、人生は答え合わせじゃないんだ。答えを作るのが人生だ。
作られた答えと照らし合わせてそれが幸せかどうかは、きっと死んだ後に思い出して微笑むことができるのか。それだけに過ぎない。
だから、生きているだけでいいのかもしれない。
カセットテープはいつか聴くことができなくなる。だから、僕たちは必死で耳を傾ける。だから、僕たちは必死に何かを残そうとする。
そんな日常の中での心の探し。
そういえば僕は1年前の夏、カセットテープを買い始めたんだった。
「君が世界のはじまり」
学生生活ってなんであんなに他人に興味を示すのか。いや、示しすぎるのか。噂が大好きで、誰かの行動を見るのに躍起になって。
きっと、自分を見つけていく最中の中での判断基準が欲しくてたまらないんだろうと思う。
はちどりではないけれど、仕上がっていない時期で僕らは誰かの傘のしたで暮らす必要がある。そこで助けてくれるのは家族であり、友達であり、街の人であり、知らない誰かだ。
もう戻れない時間。そうやって作り上げた自分がいつか、誰かのための自分になっていく。
でも、そんなことは考えなくていい瞬間が残されている。
気づいていないのは当人だけだ。
気づいてしまったら、きっと君は大人。気がつかないうちは何者にもなれる存在。
幼なじみは親友で最大の敵。クラスメイトは仲間で最大の傍観者。家族は最愛の人で最高に憎い人。
そのいい面も悪い面も知った時に、自分だけの世界ではないことに気づく。
多分、それが「はじまり」なんだろう。
切ないかもしれないけれど、それが「はじまり」なんだろう。
▼美術館
美術館をみることのできる世界は、曇り空に色彩を与えてくれる。
視覚的な情報だけではなく、開かれた場所にアートというなかなかダイレクトに利益につながりにくい存在が並んでいることが愛おしい。
それが多様な世界。社会の余裕。
「トレスコード?」
服について。
人はいつしか、生身の身体を隠すようになった。
人はいつしか、布に覆われた身体で自分の存在を証明したくなった。
人はいつしか、自分の存在の見せ方をその場所のルールに合わせて選ぶようになった。
そこにいつの間にか、ルールが生まれた。
仕事はスーツ。仲間意識は制服。布はこれ。と。
服というのは、ルールの中に存在している自分に安心感を与えるものなのか。
服というのは、ルールの中で自分の考えを証明するためのものなのか。
服というのは、自分の中でルールを作り、心に満足感を与えていくためのものなのか。
僕たちはその選択権を与えられた社会に生きている。
だから、布にお金を使う。
だから、布で人生を賭けて服を作る人がいる。
東京、もう8月。
誰かに求められる「何者」かに慣れれば慣れるほどにつきまとう責任感の中で生きていくことになりつつあるこの頃。
14歳を思い出して浸っているわけではない時間を過ごしつつあるけれど、その時間の余裕がきっと今の基礎にはなっているのではないかなと映画を見ながら感じている自分習慣。
そんな「選ぶこと」について考える時間。選ばれた人しか食べられないパフェに躍起になるよりも、選ぶことのできる文化のなかで人生を選択する。それが僕の7月。
またね。