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愛を教わったあの日の補講

彼の奥さんというか家内というか細君というか妻のことを、彼は「ワイフ」と呼んでいた。

定年ももう近い、あるいはもう過ぎている白髪の男性ベテラン英語教師である。

その教師のことをここではKと呼ぶ。

Kは僕が高校3年生に進級したときに赴任してきた。新人のおじいちゃん先生だ。

新人といってもこれまでのキャリアを聞いたら教育界のトップを走るような人で、すごい人という印象を持っている。だから新人とは言わないのかもしれない。その苦労もあってか、Kは少し痩せていた。

小さな顔の割に大きな黒縁の眼鏡をかけている。もう何年も着ているであろうウールのクラシカルなスーツを毎日召す。着丈、肩幅ともに大きくサイズがあっていないが、それが所以かどことなく可愛らしさがある。例えるなら、インテリアのコンセプトに合わないレトロな家具みたいな、そんな可愛さだ。

彼が初めて僕たちの授業をしたときの第一声は英語だった。それから永遠と英語で独り話す。遂にはそのまま授業が終わる。

当時の僕らの英語学習形態なんて、大学受験対策のために文法とか単語とかを永遠と聞かされるようなものであったから、彼の授業は異質だった。

「彼、実は日本人ではなくて、日本語を話せないから仕方なく英語のみで授業しているのではないか」と言う友人までいたものだ。普通に日本人だったけど。

しかし、授業後半になれば僕らは集中力が低下して最後には彼の話す英語が右耳から左耳に抜けていく。テンポの良い洋楽の歌詞が聞き取れないのと同じように、そこにリズムだけが残っていく。

そんな状況を見かねたKは、やっと日本語を使い出した。

僕らは安堵した。

それからの授業で、彼がべらぼうに英語のみ話す授業はなくなった。

英語しか話さない先生だったから、授業後の質問も英語でしなくてはならないのかと思っていたが、そんなこともなくなった。

まあ無理矢理一言で言うなれば、ちょっと風変わりなおじいちゃん先生であった。

✳︎

僕にはヨシキとかいうテニス馬鹿の親友がいて、この男がある日Kに目をつけられた。

目をつけられたとはいえ、ヨシキは別に悪さを働かせたわけでも、成績が著しく悪かったわけでもない。

彼はテニス部でこんがり焼けた真っ黒な肌と、トレードマークの赤いスポーツ眼鏡、柔らかく短いくせ毛でクラスの誰よりも異彩を放つ存在だった。

だからなのかはわからないけれど(僕の憶測では)、ヨシキはKのお気に入りになった。まあそこそこ成績悪かったからかもしれないが。

放課後、ヨシキのためにKは特別補習を設けると言って、教室で二人、ヨシキはマンツーマンでKの授業を受けていた。

「だりー」とか「めんどくせえー」とか、ヨシキはKの居ない前では補修のことをネガティブな不平不満を話していたが、僕からすればヨシキはKに気に入られているようでとても羨ましかった。端的に言って、嫉妬した。

だって放課後、Kはヨシキのためだけに時間を使っているのだから、これだけ贅沢なことはない。ミネラルウォーターで味噌汁を作るくらい贅沢である。無論、僕らは先生へ別に受講代とかは払っていないし、Kもサービス残業のような形でヨシキに英語を教えていたのだ。

そこで僕はKに懇願することにした。

5時間目のKの授業の後、職員室へ帰り支度する教卓の辺りに訪れた。

「先生、お話があります。僕もヨシキと一緒に補修、加わらせてください。」

「おー、サイトウ、ウェルカムだよ。彼も一人で寂しいだろうからちょうど良かったよ。」

彼はEmコードみたいなクールな笑みを浮かべて答えてくれた。


それから、毎週、ヨシキとKの補修に僕は加わることになった。

Kの教え方は分かりやすかった。霧が風で吹き抜けるような教え方だった。そのおかげもあって文法もなかなかに理解してきた。

教室にいる生徒は親友のヨシキだけだし、変なプライドとかは全て捨てて、自分が分からないところは包み隠さずに聞くこともできる。

三人で問題を通じて、答えまでのプロセスを対話するというのが基本的な流れで、休憩なしのぶっ通しだ。一度の補修で1時間か2時間くらいはやったと思う。

だけど、ある日Kは、
「今日は30分しかできないんだ、許してくれ。」と補修が始まる前にそう言った。

それにこう付け加えた。

「実は今日ワイフとの結婚記念日でね。申し訳ないが34分のバスに乗りたいんだ。」

僕らにその要求を断るなんて選択肢は無かったし、なんせ急に微笑ましくなって、「おめでとうございます」と自然に湧き上がった感情そのままに祝福した。

歳を取ってもワイフを大切にする所がなんとも胸熱である。

いや、もしかしたらKは最近結婚したばかりで、それも30歳年下の若い女性と結婚したのかもしれないが、そんなことは考えなかった。

仮にそうであったとしても、結婚してワイフとの時間を何十年と共有したとしても、Kのワイフへの「愛」が僕らに伝わってきたし、併せて結婚記念日でも補修してくれる僕たちへの「愛」も伝わってきた。

補修が終わった後、「Have a nice day.」とKは綻びた顔で僕らに別れを告げ、走りにくそうなツイードのスーツでバス停へと弾むようにひた走りした。


「人を愛することができる人ってなんか素敵だな。」

そんな話をヨシキとその日の帰り道で何やら話した。ワイフに尻敷かれているだけなのかもしれないが、それはそれで愛なのかもしれない。そんなことも話したっけな。

何はともあれ、Kみたいに一生かけて愛せる人を見つけることは簡単にできることではない。いや見つけられる自信もない。しかし見つからなかったとしても、Kが僕たちを愛してくれたように、人を愛する人生というのは甚だ魅力的なものである。

そんなことを学んだ青春高校時代の1ページ。
Kは英語の文法や単語よりももっともっと大切なことを教えてくれたような気がする。

今思えば、あの日の補修は特別講義だった。


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