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「ラブライブ!スーパースター!!」肯定論:完結編 〜私を叶え"続ける"物語〜

はじめに

この記事は、今まで書いてきた「ラブライブ!スーパースター!!」肯定論のラストに当たるものです。

これまで積み重ねてきた記事の続きではありますが、記事の内容自体は独立したものになっているので、この記事から読んでいただいても、すごく嬉しいです。

これまでの記事では、「ラブライブ!スーパースター!!」のTVアニメ2期の全12話の感想と自分なりの解説を長々と行ってきました。前回で、その試みは一旦は終了しました。ですから、この記事では範囲を広げて、他作品の「ラブライブシリーズ」や、キャストやライブ展開などを含めたプロジェクト全体を扱った内容になります。

この記事で最も扱いたいことは、自分が「ラブライブ!スーパースター!!」のどこに可能性を感じて、これからの展開に何を期待しているのかということです。

自分個人の思い入れが強く、いつものように客観性をやや欠いた文章になっているとは思います。書いていた時期も見出しごとにバラバラなので、その時の気持ちによって文章の温度もかなり異なっており、分かりにくいものになっているかもしれません。

それでもこうして未熟者の考えを公開するのは、こういう変わった感想が少しは世の中にあった方が、面白みがあると思っているからです。


これまで見ていただいた方は改めてよろしくお願いします。
はじめて目にしていただいた方もよろしくお願いします。



(これまでの記事)



「ラブライブシリーズ」とは何か

メタフィクション

まずは「ラブライブシリーズ」全体について考えたことを書きたいです。

「ラブライブシリーズ」はメタフィクションであると思っています。
2次元のTVアニメで繰り広げられる展開が、そのまま3次元のライブ活動に繋がっていることは、それだけでも十分にメタフィクションだと自分は考えています。

「ラブライブシリーズ」はTVアニメだけを楽しむ作品ではありません。はじめから3次元での展開を見越してTVアニメの内容が作られています。ゼロから始まって栄光を掴むμ's、先駆者がいる中で自分たちの輝きを見つけるAqoursを見れば、それがTVアニメの中の話ではなく現実のライブ活動ともリンクしていることは、多くの人が考えている通りだと思います。

では、なぜこんな方法を取るのか。
ストレートに表現するならば、プロジェクトの要請として、商業的な成功を収めるためにも、TVアニメを見た視聴者をライブの観客として誘導しなければいけないからです。


「ラブライブシリーズ」がメタフィクションの手法を取る際、よく見られるのが、キャラクターがカメラ目線で視聴者に語りかけるシーンです。

例えば、『ラブライブ!』では2期の最後に『Happy maker!』のライブシーンがが終わった後、穂乃果がまだ続きがあるとカメラ目線で語る場面であったり、『虹ヶ咲』の2期で侑がベランダで心の声で「次はあなたの番」とつぶやく場面のことです。

これらが、作中世界の誰かに宛てたメッセージを超えて、TVを見ている視聴者に向けた言葉であることは明白です。

2次元のアニメのキャラクターを使用した、3次元のライブを行うために最も良い方法は、作品内のフィクションを現実と地続きにする、メタフィクションにすることである。そう考えたならば、キャラクターが「あなたも夢を追いかけることができるよ」と語りかけることはそれを意識させる、効果的な方法です。


ここで、自分が言いたいのは、作品の演出としてのメッセージ性とはまた別の話であることです。

確かにキャラクターが作品のメッセージ性を視聴者に直接語りかけることは、見ている人に強い印象を残すことができます。しかし、なぜそんな方法を取るかといえば、そのメッセージ性を届けたいからだけではないです。

物事の順序を考えるならば、「ラブライブシリーズ」がメタフィクションの方法を取っているのは、これらのプロジェクトが3次元のライブを前提としてアイドルアニメだからというのが大きな理由です。

作品のメッセージ性を最大限に届けるだけでなく、視聴者に自分がライブの観客になれる可能性があることを意識させる必要があります。

もちろん、現実のライブに誘導させるということをあからさまにやっている、とまでは言うつもりはありません。ただ、「ラブライブシリーズ」のアニメがどういう世界観の元で成り立っているのかを思い出すと、その効果は意外にも高いのではないかと思います。


世界観

「ラブライブシリーズ」が繰り広げる世界は、通常の日常アニメの世界観を基本としています。それをまずは確認したいです。

よく指摘されるのが、「ラブライブシリーズ」の世界は同世代の男性が画面から完全に排除されて、女性だけが画面の中に存在する世界であることです。「ラブライブシリーズ」はアイドルアニメであるので、異性が交流する可能性を排除して、安心して視聴者に夢を見せたいからこのような世界観にしたと、考えることはできます。

ただ、アイドルアニメだから、絶対に異性を登場させてはいけないという常識は「ラブライブシリーズ」以前にはありませんでした。その他の作品では、マネージャーであったり、同年代アイドルであったりと、結構ナチュラルに若い男性が登場します。

つまり、異性が排除された世界観は「ラブライブシリーズ」だけの特殊な空間ではなく、多くの作品で繰り広げられてきた、美少女たちの関係性とその交流を中心に描いた日常アニメの延長線上にあると考えるのが妥当だと思います。

そして「ラブライブシリーズ」の特徴とは、4コマ漫画を多くの原作に持つ従来の日常アニメのフォーマットに、オリジナルでかつアイドルアニメの要素を持ち込んだ点にあります。


「ラブライブシリーズ」以前のアイドルを扱った作品とは、言ってしまえば業界ものです。「華やかながらも厳しい芸能界に、世間知らずの少女が飛び込み、もがきながら成長する」といったものが従来のアイドルアニメの王道展開です。
(今は逆にトレンドが一周して、アイドルを扱った『推しの子』では、芸能界の裏側を描く業界ものとして人気を得ています。)

そこでは当然、若い男性は同じ所属事務所のアイドルグループであったり、担当プロデューサーといった形を取って、物語の中で当たり前のように登場します。

しかし、「ラブライブシリーズ」は業界ものには区分されません。なぜなら、彼女たちはプロではないアマチュアのスクールアイドルだからです。

この設定によって、業界もの特有の汚い裏の世界を見せないことに成功しただけでなく、異性すらも完全に排除した日常アニメの形式を採用することができたのです。


では、異性を排除した少女たちだけの楽園とも言える世界の中で、視聴者は何を目的にアニメを見るのでしょうか。

ほとんど場合、視聴者がまず期待するのは少女たちの交流そのものです。つまり、視聴者はアニメの中で描かれたキャラクターと彼女たちの関係性を主に消費します。(ここでの関係性とは、「誰々のカップリングは尊い」といった言葉で表現されるもののことです。)

また、アニメファンは与えられた世界観を楽しみながらも、自分たちが考えた二次創作を熱心に行います。世界観やキャラクターを楽しむには、必ずしも公式作品である必要はないからです。そこにはキャラクターを消費したいという欲求があります。

しかし、中にはそれだけでは満足しない人も出てきます。

アニメというのは言ってしまえば2次元からなる一枚一枚の絵です。
実体といったものはなくて、それらに触れることは基本的にはできません。

はじめは、アニメ内のキャラクターに関心を持って、ちょっとした表現から様々な妄想を膨らませて楽しむことはできても、いずれは3次元のもの、生のものを求めたくなります。


一昔前なら、演じたアニメのキャラクーを入り口として、声優に関心を持つことになるのが一般的な流れでした。

ただ、時代は変わり、声優に関心を持つだけで終わるのではなく、現実のイベントに参加するという体験ができるようになりました。そのイベントの一つが3次元のライブ体験です。

「ラブライブシリーズ」のようなアニメに熱中すればするほど、それらの欲求は大きくなるのではないでしょうか。

「日常アニメの世界観におけるキャラクターを好きになること」と「2次元のキャラクターの姿を3次元の声優に重ねること」は、似たような行為なのではないかと自分は思います。それは、決まった形式が最も重要なのではなく、自分が信じられる世界かどうかが一番大事だということです。


日常アニメのキャラクター消費を、現実のライブ体験へ。
これが「ラブライブシリーズ」がこれまで行ってきたことであり、2次元の消費を3次元のライブ体験に繋げる手法として、メタフィクションを効果的に用いてきました。

このメタフィクション構造を支えるために、現実のライブでキャストに要求されることは、できるだけ同じ格好、振り付け、声でパフォーマンスをすることです。

作品の垣根を曖昧にして、キャラクターのことが好きになったアニメ視聴者を、そのままライブの観客にすることが、現実のライブに実際に足を運んでもらうための最も手っ取り早い方法であるということです。


「夢を叶える」というテーマ

では、2次元と3次元を繋げる体験としてのメタフィクションを提供するのならば、どのような物語とテーマを用意すれば良いのでしょうか。

それは「夢を叶える」ことをテーマにすることです。

メタフィクションにも様々な形があると思いますが、キャラクターが世界の外にいる視聴者に語りかける時に、そこにはある種のメッセージ性が必要になると思います。

キャラクターへの感情移入を通して、視聴者にキャラクターの言葉を信じてもらうことです。視聴者の心に届かなければ、どんなメッセージも意味がなくなるからです。

広く一般の、特に若い視聴者に受け入れられるために、「夢」を物語のテーマとして扱うことが、今の時代において求心力が高いということです。


そして、「ラブライブシリーズ」のアニメの特徴として、異性がいない日常アニメの世界観を持っていることとは他に、スポ根アニメの要素が入っていることも大事だと思います。

最初のアニメである『ラブライブ!』の時から、部活ものが流行っていたという時代背景もありますが、努力する姿をメインにしたスポ根要素はあまり見られなかったと思います。

「ラブライブシリーズ」では、時代が古いと思われていたスポ根要素を多用して、大会で優勝したり夢や目標が叶う瞬間を描いてきました。

このスポ根要素がキャラクターの信用度を上げる結果になったと思います。応援したい気持ちにさせるために、努力している姿を見せることは効果的です。


つまり、初めにアニメ内のキャラクターが「夢」を叶えるために努力する姿を描き、それを見ている人に共感させて、最後にはアニメの外側にいるこちらに語りかける(もちろんこの場合は、見ている人を応援したり励ます要素が強いです)。

この流れによって、2次元のキャラクターに憧れを抱き、だんだんと応援したい気持ちになってきます。

アニメの中に入ることはできないので、キャストが行う現実のライブに出向くことが、その欲求を解決する手段のひとつです。


「ラブライブシリーズ」のアニメは、視聴者が自分のことを、現実のライブの観客だと気づかせる役割を果たしていると言えます。

そのために用いられたのが、日常アニメ風のキャラクター消費であり、夢を叶える部活物語だったと思います。

「ラブライブシリーズ」の特徴とは、アイドルアニメにこれらの要素を取り入れ、日常アニメの世界観の中に王道のスポ根アニメを展開したことです。

美少女が部活動に出会い、大会を勝ち上がるストーリー展開事体は以前からありましたが、現実のライブを前提としたアイドルアニメでそれを行ったことは決して小さくない意味があったと思います。


・・・
とまぁ、よくもここまで他人事のように物を書いてきましたが、これらは全て自分のことです。

ここで出てくる「視聴者」とか「観客」とか「見ている人」は全て自分に当てはまることです。

自分も最初は、ライブやキャストさんのことに強い興味を持っていたわけではありません。ですが、アニメを好きになるにつれて段々と興味を持つようになりました。

Liella!のことを知ったきっかけは『スーパースター』のTVアニメを見たことです。

自然と自分は、かのんちゃんのことを画面で追いかけるようになりました。

「かのんちゃん、今日もおもしろかったな」
「どんな人が声を担当しているのだろう」
「えっ、一般公募の新人さん!?」

といった具合で、伊達さゆりさんのことを知り、Liella!のことに興味を持つようになったのです。

つまり、まずアニメ内のキャラクターのことが好きになって、その感情を元にしてにLiella!のことを見るようになったということです。

ですから、自分がLiella!を追いかけている時の気持ちが、この文章のベースになっています。

(あれ?もしかして自分のことを書いてた?と気付いたのは、つい最近になってからです・・・)



他作品が描いたこと

では、次になぜ自分が「ラブライブシリーズ」の中でも『スーパースター』のアニメが好きなのかについて、考えたことを書き残したいです。

しかし、その前に『スーパースター』以外の作品が描いてきたことを整理したいです。他作品のことを一旦考えることで、そことの比較を通して、『スーパースター』の持つ魅力を発見することにつながると思うからです。

そして、ここで一番自分が扱いたいことは、アニメ内の物語がどのような終わり方を迎えたかという点になります。


『ラブライブ!』

それでは最初に初代『ラブライブ!』についてからです。

この作品はただの一プロジェクトに止まらずに、その後の続編作品まで展開を決定させるほどの絶大な人気を集めました。

なんと言っても一番の特徴は、「ファンと共に作品を作り上げること」「2次元と3次元の相乗効果」の2点です。これらの要素は後続作品に引き継がれることになります。

これらのことから、自分は「ラブライブシリーズ」のことをメタフィクションであると考えています。それは前に述べた通りです。

そして、2次元のアニメ内の物語展開と3次元の展開を一致させることで、この構造を強化させています。

『ラブライブ!』がファンに見せた物語。
それは「ゼロからスタートした彼女たちと、一緒に成長しながら、夢を叶えること」です。

1stシングル「僕らのLIVE 君とのLIFE」の初動は約400枚です。
この状況とアニメで描かれる廃校の危機はリンクしています。

1期の物語を通して廃校の危機は去り、2期ではラブライブ優勝を成し遂げます。そして完結編となる劇場版が公開されて、プロジェクトに一区切りがつきます。

アニメが先であるか現実の活動が先であるかは重要ではなくて、これらは両者混在となって、一つの物語を提供してきたと思います。


人気作品として、これからも物語を続ける選択肢もあったと思いますが、『ラブライブ!』は明確に終わりを劇場版で描きました。

どんな終わり方だったのか。
それは「μ'sの存在は永遠になる」というものです。

最後のライブシーンが、現在形ではなく過去形の語られるシーンであったことが、物語の中でμ'sが伝説の存在になったということを示しています。

それが劇場版で描かれたテーマであり、これは現実の展開にも即しています。ファイナルライブには「Forever」という言葉が実際に使われています。

なぜ、人気のまま終わってしまうのか。
現実的に理由を考えれば、プロジェクト自体が6年以上の長期的な展開をそもそも想定しておらず、人気のまま終わらざるを得なかったからということが考えられます。

そのため、μ'sは解散したのではなく「永遠」になり、みんなの心に残り続けるという終わり方を選んだ、ということかもしれません。

ですが、それとは別に、ここには物語的な要因もあったのではないかと思います。


『ラブライブ!』の基本的な世界観は日常アニメです。

そして日常アニメの世界観は、異性を排除した女性だけの空間であり、基本的には時間の流れは停滞し、いわゆる成長とは無縁の世界です。

しかし、成長が考えづらい世界観の中でも、『ラブライブ!』はアイドル要素とスポ根要素を融合させることで、その閉じられた世界の中でも努力や成長を描くことに成功しました。

つまり、それがスクールアイドルです。
アイドルでありながらも、学校を拠点として活動する存在のことです。

スクールアイドルという存在は『ラブライブ!』の世界観において肝であり、これを物語から外すとそもそも世界観が成立しないのです。

だからこそ、μ'sがスクールアイドルに最後までこだわった理由は、「ラブライブシリーズ」という特別な世界観を守るためであったと言えます。

そのために、彼女たちはスクールアイドルの姿のまま、この世界から旅立つ必要があったのです。

そうすることで「ラブライブシリーズ」の世界を次の世代に託すことができるのです。

『サンシャイン』の1期第7話では、Aqoursが音乃木坂を訪れる場面があります。そこで、μ'sは回想として語られるだけで未来の姿は登場しません。

μ'sのメンバーは他人から語られることしかできない伝説のような存在となり、スクールアイドル以外の姿をもう見せることはできないのです。


『サンシャイン』

後続の『サンシャイン』でも、TVアニメの展開と現実の状況はリンクさせています。

その一つは「μ'sという大きな存在・壁がある」ということです。

1期の中盤まではμ'sという存在を乗り越えて、いかにAqoursらしさを確立することに焦点が当てられます。

そして、『サンシャイン』の物語の特徴として、廃校は結局止められないというものがあります。これも『ラブライブ!』ではスクールアイドル活動を通して廃校を止めたこととは対照的です。

『サンシャイン』の物語全体を通して、いかにμ'sと差別化を図るか、そして『ラブライブ!』が作り上げたスクールアイドルという存在をどう解釈するかが問われています。

これはこれからの後続作品でも常に問われます。
「スクールアイドルとは何なのか」ということです。何をすればスクールアイドルであり、逆にスクールアイドルではないとはどういう状態なのかということです。

『サンシャイン』では廃校を阻止できませんでした。しかし、だからといってスクールアイドルとしての価値がなくなるわけではありません。最終的にはスクールアイドルとして過ごしてきた時間が大切であるということにAqoursは気づきます。

スクールアイドルとは活動の結果ではなく、その過程こそが大切であるということです。

『サンシャイン』の劇場版では、μ'sと違ってAqoursは6人になっても存続することになります。これもμ'sがアニメ内の展開が終わると同時に、プロジェクトに一区切りつけたこととは対照的です。実際に現実のAqoursは劇場版後でも活動を継続させています。

ですが、μ'sと共通する終わり方をAqoursも最後は迎えます。
それは、Aqoursもその存在が伝説化するということです。

劇場版の最後は砂浜の場面であり、Aqoursに憧れる少女たちの声で物語は閉じられます。確かにAqoursは存続しましたが、その存在はμ'sと同様に他人から語られる存在までになったのです。

『ラブライブ!』がそうであったように、『サンシャイン』においてもスクールアイドルとしてのAqoursが伝説として最後に残ったということです。

スクールアイドルとしての存在は『サンシャイン』でも守られたのです。


『虹ヶ咲』

『虹ヶ咲』については、アニメのシリーズが未だ継続中であり、どのような結末を迎えるのか分かっていないので、現時点で言える範囲のことを書き残します。

まず『虹ヶ咲』は前2作とは立ち位置が異なります。今までにあったTVアニメの展開と現実の展開がリンクすることは少なく、アニメでは独立した世界を見せていきます。

そして『虹ヶ咲』の特徴はソロのグループアイドルであること、そしてラブライブの大会に出場することが目的ではないことです。

そのことで、『虹ヶ咲』においてはスポ根要素はあまり見られません。その代わりに、文化祭やフェスの開催をすることがメインの流れとなります。

主に描かれるのはメンバーそれぞれがスクールアイドルに向き合う姿であり、そんな一人一人を侑が応援することが物語の基本になっています。

今までの「ラブライブシリーズ」からは大きな変更点がありますが、それでも『虹ヶ咲』は「ラブライブ」です。

それは、『虹ヶ咲』という物語が、夢を追いかける人を応援することがテーマになっているからです。

いわば『ラブライブ!』や『サンシャイン』の物語を見ていて感じる気持ちそのものを、物語に組み込んで反映させています。

『虹ヶ咲』では2次元と3次元の相乗効果としてのメタフィクションではなく、侑という存在がファンそのものであるという、メタフィクションを展開していきます。

侑はスクールアイドルにときめきを感じ、全力で応援するようになります。それはスクールアイドルが大好きでなければできないことです。

つまり『虹ヶ咲』において、スクールアイドルという存在は、侑に応援されることによって維持され守られているのです。

応援される人がいるからこそ、スクールアイドルは存在できるということです。そして、スクールアイドルが輝く姿を見ることで、侑も自分の夢を追いかけることができます。

つまり、『虹ヶ咲』とはアイドルとファンの強固な相互関係を描いた作品であると現時点では言えます。

どのような結末を迎えるのかは分かりませんが、これまでの『虹ヶ咲』で見られたようなスクールアイドルの世界観は今後の展開でも守られていくのではないでしょうか。

(虹ヶ咲の物語はまだ終わっていませんから、自分の考えもまた変わるかもしれません・・・)


『ラブライブ!スーパースター!!』に期待すること

『スーパースター』の特徴

さて、やっとここに来て『スーパースター』の話をします。
長すぎ・・・。

「ラブライブシリーズ」を3作振り返ってきましたが、その中で共通する点があります。

それは、「スクールアイドル」=「夢」であるという考えです。
μ'sもAqoursも虹ヶ咲同好会も、アニメ内の中で何をやっていたのかと一言で言えば、スクールアイドルになることで夢を叶えるということです。大会で優勝したり、フェスを成功させるといったことです。

これらの作品では、スクールアイドルは物語の中において絶対的なものになっています。なぜならスクールアイドルとは叶えるべき夢になっているからです。夢を否定することは、「ラブライブシリーズ」の世界では最も許されないことでしょう。

対して『スーパースター』の物語はどうでしょうか。

これまでの過去の記事でそれとなく自分が示してきたように『スーパースター』においては、スクールアイドルは必ずしも絶対的なものとしては描かれていません。

例えば、マルガレーテはスクールアイドルのことを公然とくだらないとまで発言します。(マルガレーテはスクールアイドルのことを明確に否定した初めてのキャラクターだと思います。)

そしてかのんも2期では、スクールアイドルであることよりも留学することを最後に決断します。

今までのシリーズと比べて、スクールアイドルに対するキャラクターの距離感はかなり異なることが分かります。当然、これはスクールアイドルのことを否定したいからではありません。

この物語が他作品と決定的に異なる点は、
「私の夢」=「スクールアイドル」にしていないことです。


1期の段階で、既にそのことは示されていました。

1期の物語は、「私の夢(私を叶える物語)」を「スクールアイドル(みんなで叶える物語)」の中で叶える物語です。

かのん:「歌でみんなを笑顔にすること」「世界に歌を響かせる」
可可:「スクールアイドルを始めたい」
千砂都:「かのんちゃんの横に立てる人になりたい」
すみれ:「真ん中(センター)で輝きたい」
恋:「母の残した学校を街で一番の高校にしたい」

可可を除けば、「私の夢」を叶える手段としての「スクールアイドル」という図式はすでに存在していました。

かのんはこの時点では、また歌えることに満足していたので、「スクールアイドル」というだけで十分なはずでした。

しかし、東京大会での敗北から、2期ではラブライブの優勝を目指すことになります。

つまり、2期になって『スーパースター』は初めて「スクールアイドル」=「夢」であることが物語の中で意識されます。

(2期の物語が具体的にどういうものだったのかについては、過去の記事で散々書いたので、ここでは省略します)


かのんは、Liella!を決勝に導きますが、大きな問題を抱えてしまいます。

それは「世界に歌を響かせる」という夢がLiella!の中では叶わないという問題です。つまり、「私の夢」=「スクールアイドル」ではないということです。

2期の最後で、かのんは留学を決意しますが、結局実現することはありませんでした。留学先からの誘いのはずなのに、急に中止となるのは不思議な話です。

リアルタイムで見た時は、ご都合主義な展開だと感じました。
3期に話を繋げたいだけではないかと。

しかし、いつしか、自分はこう考えるようになりました。
かのんに降りかかった災難はある種の必然だったのではないかと。

どういうことなのかと言いますと、
これはラブライブ世界おける「スクールアイドルの理」なのです。

つまり、一度スクールアイドルになった少女は二度とスクールアイドル以外の存在になることはできないのです。

μ'sとAqoursが「永遠」にみんなの心の中で生き続けるスクールアイドルとなったように、かのんもまたスクールアイドルとしての宿命を抱えているのだと自分は考えています。

「ラブライブシリーズ」はスクールアイドルを中心とした特殊な世界観で成り立っていることは既に書いた通りです。その世界を守るためには、スクールアイドルという存在を外すことはできないのです。

かのんが留学できなかった理由は、留学をするとスクールアイドルではなくなってしまうからです。


「キャラクター」=「キャスト」

まだ話の途中ですが、少し横道にそれて「キャラクター」を演じる「キャスト」のことについて書きたいです。

『スーパースター』はどういう物語なのか。
それは「私を叶える物語」です。
そして、「"あなた"の私を叶える物語」です。

ですから、一般公募オーディションによって、少女たちの「ラブライブシリーズ」に参加する夢を叶えることで、それを直接的に実現させています。

これがプロジェクトの要であることは間違いないでしょう。
いわゆる2次元と3次元の相乗効果だと思います。

ですが、2次元と3次元のリンクは、これ以外にもあると思っています。


それは、キャラクターと同様に、Liella!のキャストもスクールアイドルとして活動することが最終的な「私の夢」ではないということです。

例えば、伊達さゆりさんは本当は歌手になりたいのではないかと、失礼ながらも想像しています。彼女の歌に対する想いはかなり強いように見えます。

かのんと同じように歌うことが好きだったけど、最初から歌手になるのではなく「ラブライブ」のキャストになる道を選んだのではないかと思います。

『スーパースター』のアニメが興味深いのは、このことを間接的に描いていることだと思います。だからこそ、スクールアイドルが私の夢とは重ならないことであったり、マルガレーテのように違う目的があってスクールアイドルを始めるといったシーンがあるのだと思います。

物語の中でスクールアイドルを絶対的に描いていない理由の一つは、現実のアイドルが必ずしもそうであるとは限らないからです。つまり、アイドル活動とは夢を叶える手段であり、夢に近づく登竜門的な位置付けにあるという現実です。

このプロジェクトのキャッチコピーは「私を叶える物語」ですが、それは必ずしもLiella!に参加することだけを指しているわけではないと考えています。

むしろ、Liella!の活動を通して、本当に叶えたい「私の夢」に近づくということが、このプロジェクトの真の意義なのではないかと思います。

彼女は、いずれ歌うことをメインに活動したいという目標があるのかもしれません。

かのんと同じように、スクールアイドルになったことで歌える機会を持てるようになりましたが、澁谷かのんではない自分の名義の曲をいつか出すといったことが、伊達さゆりさんの「私の夢」なのではないかと、勝手ながら自分は想像しています。

これは、他の1期生のキャスト4人にも実は言えるのではないかと思っています。Liella!のプロジェクトに参加することで、それぞれの「私の夢」を叶えようとしているということです。

逆に、2期生のキャスト4人はキャラクターと同じように、Liella!に加入するということ、「ラブライブ」に参加することが「私の夢」なのではないでしょうか。

このプロジェクトに参加する動機の違いが、1期生と2期生の違いとなっているのではないかと、考えてしまいます。


「キャラクター」=「キャスト」であることを当てはめすぎるのは、返って当人達に失礼なことだとも感じています。

ですが『スーパースター』の物語が、このような側面を批評的に描いている可能性があることを、ただ指摘してみたかっただけです。


「ラブライブ」を乗り越えろ!

話を戻したいと思います。

今までの「ラブライブシリーズ」の結末とは、グループの伝説化でありキャラクターの神格化です。可可が言うレジェンドスクールアイドルです。

しかしその結果、キャラクターをスクールアイドルの世界に永遠に閉じ込めることになってしまうのではないか。自分は最近そう思うようになりました。

μ'sは9人のままでスクールアイドルを辞めることで、スクールアイドルの絶対性を守りました。そして、劇場版では穂乃果の幽霊としての女性シンガーを出すことが、穂乃果の未来の姿を描かないで済む方法であったと思います。

Aqoursにおいても、一旦は3年生が卒業した後の6人のAqoursを最後に描いて見せても、そこまでが限界であり、最終的には9人のライブシーンを描くことで、μ'sと同じくAqoursのことを伝説にするという形式からは離れていません。

「ラブライブシリーズ」の世界や物語では、スクールアイドル達はそれ以外の姿を描くことはできない、描いてはいけないことは製作側も自覚的だったのではないでしょうか。

かのんはスクールアイドルのままでは、「私の夢」を叶えることはできませんでした。しかし、スクールアイドル以外になることは「ラブライブ」の世界ではできないのです。

それでも、自分はかのんに望むことがあります。
それは、Liella!として「ラブライブ」を乗り越えろ!です。


最初は「ラブライブ」を壊せ!にしようかなとも思いました。
しかし、考え直しました。そんなことはまず無理だからです。

そもそもLiella!をやめてまで「私の夢」を選んだ結果が、2期の結末です。3期でも同じようなことは繰り返さないと思います。

つまり、かのんは3期でもスクールアイドルになるしかないのです。
だとしたら、かのんは「私の夢」を叶えることはできないのでしょうか。

自分は、かのんに残されている可能性はまだあると思います。
それは「スクールアイドル」として「私の夢」を叶えるという可能性です。

かのんの「私の夢」は「世界に歌を響かせる」です。2期ではスクールアイドルをやめて、留学することがその夢を叶える方法だと思われていました。

だったら、その「世界に歌を響かせる」という夢を、スクールアイドルLiella!として叶えれば良いのです。


Liella!にはその力があるとあると思います。
Liella!は「いろんな人と結ばれること」が、その名前に込められています。

そのことはLiella!に新メンバーが加わることで実践されてきました。
多様なメンバーが集まることで、Liella!は大きくなってきました。

Liella!は常に成長しているのです。
1期のLiella!はかのんに新しいスタートを与えました。
2期のLiella!は9人となってラブライブに優勝することはできましたが、かのんの夢を叶えることはできませんでした。
そして、3期のLiella!はかのんの夢を叶えることができるまで進化すると思います。

Liella!は「私の夢」を叶えるまで、進化し続ける存在だと自分は思います。


「ラブライブ」を乗り越えるということは、「スクールアイドルの理」を乗り越えることだと自分は考えています。

「私の夢」を叶えるためでも、「ラブライブ」の世界ではスクールアイドルをやめるということはできないと思います。
ですが、かのんは2期で行ったようにLiella!を成長させることはできます。
自分の力でLiella!という一つのスクールアイドルを形作ることができます。

だから、かのんは「私の夢」を叶えるまでLiella!を成長させることで、「ラブライブ」の世界を乗り越えてほしいです。

スクールアイドルを否定するのではなく、「私の夢」に近づけること。

その時のスクールアイドルは「私の夢」を阻む固定されたものではなく、未来に開かれた可能性あふれるものになっていると思います。


かのんはスクールアイドルをやめることはできないと書きました。
ですが、「私の夢」を叶えた後は、かのんはスクールアイドルをやめることになると思います。

自分の勝手な想像ですが『スーパースター』の物語とは「夢が終わり、新たな夢が始まるストーリー」だとも思います。

かのんは音楽科の受験に落ちたことで、ひとつの夢が終わりました。
しかし、そのことでLiella!という新しい夢が始まりました。
そして、ラブライブ優勝という夢が叶ったことで、世界に歌を響かせる夢が浮上してきました。

これからの展開はどうなるかは未確定ですが、最後には「私の夢」も叶うことになると思います。その時になって、スクールアイドルとしての、かのんは終わりを迎えることになると思います。

ですが『スーパースター』の物語から考えれば、スクールアイドルの夢が終わることで、次の新しい夢が始まることになると思います。

それは2期の終わり方と似ていますが、違うものになると思います。
2期の段階ではスクールアイドルにまだ未練を残す状態でしたが、「私の夢」が叶ってしまえば本当に未練なく終わってしまうことになると思うからです。

スクールアイドルの夢が終われば、当然「ラブライブ」ですから物語は終わってしまいます。同じ展開を辿るとしたら、Liella!はμ'sやAqoursのようにレジェンドスクールアイドルの仲間入りになると思います。ですが、『スーパースター』は夢が叶うことがゴールにはならないと思います。

夢が終わったとしても、新しい夢が始まるのです。
ですから、『スーパースター』では、Liella!やかのんは伝説として終わるのではなく、新たな一歩を踏み出した姿で終わるのではないかと思います。

そうなった時、かのんはきっとスクールアイドルではなくなっています。
でも、その時が「スクールアイドルの理」から解放された、アイドルとしての少女ではない、成長したかのんが見られるのではないでしょうか。


「私を叶え"続ける"物語」

自分がこれまでの『ラブライブ!スーパースター!!』を見て、好きになった理由をまとめると次の2つです。

「夢が終わっても、新しい夢が始まること」
「私を叶えることから逃げないこと」

それぞれ、1期と2期の物語に分けて考えても良いかもしれませんが、これらは物語全体を通して一貫していると思います。

『ラブライブ!スーパースター!!」は夢のかたちが変わっていく話です。それは、新しい夢が生まれる話でもあります。そして、夢に合わせるようにLiella!のかたちも変化していきます。夢が少しづつ変わっているからこそ、5人のLiella!から9人のLiella!へと新しくなったのだと思います。

その中でも変わらないのは「私の夢」です。
そして、本当に叶えたい夢だからこそ、「私の夢」は簡単には叶わないかもしれません。

でも、その時「夢」が叶わなかったしても、ずっと終わりが続くわけではありません。思うかたちと違っても、新しい「夢」がまた始まるのです。
そうした違うかたちの「夢」を叶えるたびに、いつか叶えたい「私の夢」に近づいていくのだと思います。

つまり『ラブライブ!スーパースター!!』は「続ける」「続いていく」物語なのです。ですから『ラブライブ!スーパースター!!』にとって、スクールアイドルは物語として絶対的に守らなければいけないものではなく、「私の夢」が続いていくためにも、乗り越えるべきものになっていくのです。

2期の最後で、かのんは留学することはできなかったですが、それでも3期ではきっと、新しい夢が始まるはずです。

そして、その夢に合わせた11人のLiella!が見られると思います。

Liella!が変わっていくことで、また一つ夢が叶っていく。
そうした一つ一つの違うかたちの夢を叶えながら、歩んできた道のりのことを「私を叶える物語」と言うのだと、自分は思います。

自分は、『ラブライブ!スーパースター!!』を見て感じた、
「私を叶え"続ける"物語」である点を、最後まで肯定したいです。


応援するということ

「私を叶える物語」であるなら、応援するファン一人一人の「私の夢」も叶えてほしいというメッセージ性がそこには込められていると思います。

こう考えますと、「Liella!に夢を託さずに自分のことに向き合うべきだ」と言われている気がすると、自分はふと思うことがあります。つまり、Liella!を応援することは私にとって無駄なことなのではないかと。

いわゆる、応援する側の「スクールアイドルの理」です。
スクールアイドルを応援する限り、私は叶わないのではないかということです。

ただ、これは少し違うと信じたいです。

自分はLiella!を見たことで、何か自分の中で新しい気持ちが生まれました。
そして、Liella!が好きで真剣に向き合ったことで、自分は変わっていったと思います。(これまで記事を書いたり、動画を投稿したりといった感じです。)

Liella!がどんどんと変化しているように、自分もLiella!と同じぐらい変化したと思います。それは少しづつでも「私を叶える」ことなのではないかと思います。

Liella!に夢を見ているだけではなく、Liella!と一緒に歩んでいるという気持ちがあります。だとしたら、自分はLiella!という星を見ているのではなく、その星の一つなのではないかと思っています。

そうした、応援する一人一人の、たくさんの星が集まる分だけ、Liella!も成長すると思います。キャストと自分たちが相互に成長できる環境が、Liella!にはあります。

ですから、自分にとっての「私を叶える物語」という道の中に、Liella!を応援することがあるのです。

つまり、「私を叶える物語」として自分はLiella!を応援しているのです。






おわりに

最後の記事から半年、2期の放送から一年近く経ってしまい、他の人から見て、どこまで興味関心を引くものになっているのかは分かりません。おそらく、次の展開を楽しんでいる人がほとんどだと思います。

なぜこんなに時間がかかったのか、なぜこのタイミングなのかと言いますと、個人的な環境の変化によって投稿できる状態ではなかったからです。
後は単に公開する自信がなかったからです。
ただこの間、絶えず頭の中にはこの記事を終わらせないといけないという気持ちがありました。

それも今回で終わって、内心ホッとしており、解放感があります。

今回の経験で自分の一番の変化は、ネットで他の人の感想を見なくなったことです。TwitterやYouTubeのコメント欄、まとめサイトなどは好きな作品であればあるほど、見る機会は減っていきました。

実はそれもあって、2023年になってからLiella!のYouTube動画を視聴する機会は一気に減りました。というか、ラブライブだけでなく他作品でも同様に、動画のコメント欄が怖いので、アニメの情報をYouTubeで見ることはなくなりました。

そして、作品名を検索することもできなくなりました。
どんなサジェストが検索画面に出てくるか分からないからです。
それはつまり、自分の情報収集能力はほとんどなくなったということです。
好きな作品であればあるほど、その作品の本編以外のことは、何も知らないという状態になってしまいました。

その結果、3期生の情報も最近まで全く知らなかったです。
公式YouTubeの動画でも、見るのが怖かったからです。

何か大事なものを見落としながら、彼女たちの笑顔を受け止めることは自分にはできませんでした。前に進むのが怖くて、ずっと時間を止めてました。

しかし、それも今回で終わりにするつもりです。
ようやく自分も踏ん切りがつきました。
これからは、これまでの動画を遡ったりして楽しく見ることができそうです。

(なんやかんやで、ライブにも初めて参加しました!)

自分はやっぱり、誰が何と言おうとも、
『ラブライブ!スーパースター!!』を最後まで楽しんでいきたいです。

1期と2期をめぐる自分の旅はこれで終わりですが、
3期以降でどのような場所に辿り着くのか楽しみに待ちたいです。





最後になりますが

駄文をここまで付き合ってくださりありがとうございました。
「ラブライブ!スーパースター!!」に関わる全ての人が、幸せになることを願っています。

おわり


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