生まれてきたことに意味などない
人間は幸せになるために生まれてきたんだって、人は私に微笑みました。
でも、理解できませんでした。受け入れられませんでした。無理して、呑み込むことも。
生まれてきたことに、意味なんてないんですから。人は、気づいたらそこにいたに過ぎません。たまたま、私というものが産み落とされただけに過ぎないんです。誰も、自らの意志で卵子を目指し泳いだわけじゃない。精子をそっと抱き締めたわけじゃない。産道を下りてきたわけじゃない。泣いたわけじゃない。生まれてきた意味はともかく、生まれてきた理由なら、明快です。すべては親のため、社会のため、人のため。一言で言えばシステムを、すでに存在している人々を維持するため。満足させるため。ただ、それだけのこと。
それに、生まれてきた以上は痛いから、だからなるべく痛みが少ないであろう方向、いわゆる幸福というものを目指さなければならないだけのことであって、生まれる前から幸福を目指してこの世にやってきたわけではありません。幸せになるために心臓を授かったわけじゃない。心臓を押しつけられたがゆえに、幸せになることを強いられているんです。
しかもその幸福の定義も、やれ勝ち負けだの、やれ上下だの、やれ持っているだのいないだのと、とにかく他者との比較でしか成り立たないものばかり。あまりにも相対的で、数字的で、他人に、恣意に左右されるものばかり。あるいは、この世の底を絶えず流れている、私たちの足をいつだって濡らしている四苦八苦に、気づかぬふりをした結果ゆえのもの。見て見ぬ振りという前提がなければ、幸せというものは成り立ちません。そんな、幸福丸なんていう名の不安定な船に乗り、へりを掴んで身を必死に支えながら、これが幸福だなんて叫ばれても。私にはどうしたって、幸せには見えないんです。見ているだけで酔いそうになって、気持ちが悪くなってくる。辛苦という波は、その奥から迫ってきている喪失という大波は、こんなにも荒々しく、口を開けているというのに。白い唾液を、滴らせては飛び散らせているというのに。
結局、あらゆる意味があとづけであって、生まれてきた意味などないと確信してしまうのが怖いから、そう理解してしまうとすべてが崩れてしまうから、耐えられないから、理由を、存在を正当化せずにはいられないから、だからあれこれ、つけてみているだけなんです。幸せになるため、もそのうちのひとつです。だから逆に、不幸になるために生まれてきたと、そう述べてもいいわけです。それで、楽になれる人は。それで、痛みがやわらぐのなら。なんとかのために生まれてきたというのは、すべて等しく、ごまかしという名の歌の詞です。
私が生まれてきたことに、意味などないんです。意味のないことを、私は肌で学んできました。だから、幸せになるためだよ、なんて言われると、前歯で下唇をいじらずにはいられなくなる。なにそれって、舌を噛まずにはいられなくなる。それは私に、自分をごまかせって、そう言っているのと同じなんですから。私のすべてを、単純な概念へと押し込めって、そう笑っているのと、いっしょなんですから。
私は、ごまかしたくなんてないんです。幸福とはインチキであること、生まれてきたことに意味なんてないこと、生きている限りは痛いってこと。偽りなんて、思い込みなんて、ごまかしなんてお酒をいくら飲んだって、酔えないんですから。
だったら。どうせ苦しくて戻すくらいなら。私は、シラフで吐きたいんです。
(了)
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