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319日目(パンデミックの出口戦略)

我が家のパンデミックも落ち着いてきて、ようやく日常を取り戻せるかに思った。だが、長女は大事をとって学校を休むと言った。次女も今日はお休みだ。

子育ては修行だ

長女はひたすらyoutube。まあ今日は仕方ない。午前中は好きにさせておいた。なので特に手は掛からず。

一方で次女である。やたらと一緒に遊びたがる。ままごと、お医者さん、ボール、消防車、お買い物など、さまざまな遊びのお相手をさせていただいた。

しかも、外出したがらないのでこっちはちょっと息が詰まる。妻がよく言っていた。「子育ては修行だ」と。いまはその意味がよく分かる。ただ居るのがつらい。

「居る」ことと「進む」こと

わたしの仕事、小学校の先生は、とても目まぐるしく日常が過ぎていく。

予定を決めて、遂行する。そのために隙間時間に何をするか、つねに体を動かしながら考え続ける。トイレに行く暇もなく、仕事を片付けていく。

とにかく授業を進める。ただ居るだけではない。

家で子育てすること当然似ていると言えば似ている。子どもの様子をみつつ、家事を行う。とにかく繰り返す。

だから、時間の進み方がとにかく遅い。子どものやりたいことを受けとめるために居る(家事もそうだ)。大人が一人だと淀みが生まれる。そして私は眠くなる。娘に踏まれても眠い。だからつらい。

デイサービスの「居る」と「進む」

家の迎えにはお年寄り用のためのデイサービスがある。毎日車が来て、お年寄りを降ろし、また迎えに来る。

中に入ったことがないので何をしているのはわからないが、お隣に住んでいるおじいさんも通っているらしい。

少し認知症がすすんでいると聞く。だとしたら、おじいさんに日々の記憶が蓄積していく見込みは薄いし、何かが成長していくこともほとんどない。

子育ては、時間が進むのは遅い。だけど、久々に会う人がいると、

「大きくなったね」

「たくさんおしゃべりできるようになったね」

「こんなこともできるの」

と言ってほめてもらえるようになる。だから時間は進んでいると感じられる。

一方、デイサービスのお年寄りに、

「もう、わたしのことはおもいだせないんだね」

「また耳が遠くなったね」

「とうとうおきあがれなくなったね」

と、嬉しそうに言う人はいない。時は進まないどころか戻っている。そこにいるお年寄りはひょっとしたら認知機能の低下によってそのことを感じずにいられるかもしれない。

でも、デイサービスのスタッフはどうだろう。戻っていく時間とともに居るっていったいどんな感じなのだろう。

愚に帰る

時は進み、また戻る。それは自分自身にも言える。私たちは一生のうちに、行って帰ってくる。それは学校に通う子どもや、仕事にいって帰ってくる大人と同じだ。家から出かけて、また家に戻ってくる。

「愚に帰る」という言葉がある。歳をとって分別がなくなる、という意味だ(名古屋弁では、「ぐにきゃーりゃーた」というらしい)。

ということは、子どもは「愚」だ。分別がない。だからこそ少しずつ分別が付くようにしていくのが親や周りの大人の役目だ。

でも、分別が付くようにして、どうしようというのだろう。どうせ、最後は「愚に帰る」のだ。

そう考えると、私たち一人ひとりの生きる意味を、一人一人の中に見出すというのは難しい。答えは私の外側にあるようだ。

私の外側のものは、私ではどうにもできないことが多い。いや、ほとんどのものはどうにかするのは難しい。老いることはその典型だ。

それでも人と関わりたいのだ。やたらと、くっついたり、いっしょに遊ぶことを要求したりする娘たちを見て思う。そして、老いてなお、だれかと居たいのだと思う。

付き合い、過ごすという修行

結局、私ができることは「付き合う」ということだ。そこには、わたしが思い通りにできることはあまりない。

2歳の次女は、絶賛イヤイヤ期(ずっとイヤイヤ期な気がする)。ちょっと待ってと言っても「やだ」、外に行こうと行っても「いかない」、保育園にいこう「いーきーたくなーいー(泣)」だ。それでも、彼女のやりたいことに付き合っていると、少し気持ちが変わったりする(変わらないことも多い)。

そうして、気分良くこちらのしてほしいことを消化したときにはじめてそのよさが分かる。7歳の長女は今日は休みたいのだ。まあこんなご時世だし、休むのは全然かまわないが、こんなご時世ではなくても時々お疲れ休みがあってもいい(たまったプリントを次の日には淡々とこなして、三日分の宿題を終えていた)。

彼女たちは自分で自分のペースをつかむしかない。それは自分の感覚なのだから。

一方で、自分の感覚に付き合ってもらうということは、進むとか戻るとか関係ない。何かを強いたり強いられたりするということが存在しないからだ。

だとしたら、実は、付き合っているということもまた付き合われていることなのかもしれない。一緒に居ることは、一緒に居られることであり、それは一緒に過ごすことだ。過ごすということは何かをするわけではない。ただ、過ぎるのを待っているということだ。

いずれ、彼女たちも歳をとる。その時に、だれかにそばに居てもらった感覚が体に残っているといいなと思う。時が進んでも戻っても、ただ居ることに意味を見出せるのではないか。

というわけで、パンデミックの出口戦略は急がずゆっくり落ち着いてを心掛けようと思う。それを心掛けるのもまた「修行」である。

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