多様性と居場所の哲学③
2 『正欲』の脱構築
(1)「すべての欲動は倒錯という結果である」という人間観から、性の画一性と多様性を考える ―フロイトの精神分析より―
先ほど、男と女という分け方に異議を捉えた。それは性的対象にも対応している。LGBTQの性的対象は少なくとも人間である。ところが、登場人物の桐生夏月は、だれにも理解されない異常性癖の持ち主である。それは多くの人間に身に覚えのあることである。胸や尻、足などに興奮することは私にも覚えがある。SMやくすぐりに対する興奮もその一つだ。登場人物たちもまた、人間ではなく、水の戯れに性的興奮を抱く、異常性癖をもつ。現代でも異常性癖に対する理解度や認知度は低く、物語の中で彼らは、人間という範囲を逸脱したものとして扱われている。
これは一体どういうことだろう。わたしはおそらくマジョリティの人間なので、このような感覚は理解できない。理解できないからこそ、世界の外側のものとして扱われる。世界の外側ということはあってはならないものである。世界の内側のもの=世界の中にあってよいもの≒善VS 世界の外側のもの=世界の内側にあってはならないもの≒悪、とみなすことになるだろう。異常性癖者はもちろんのこと、異性愛者は同性愛者の感覚も分からないので歴史的には、同性愛者も悪とみなされることがあった(いまでも無くなったわけではない)。しかし、多様性が認められた世界では、同性愛者は世界の内側=あってよいもの≒善である。
ところが、フロイトは、人間の欲望は、成長過程で欲動として作り変えられるため、かならずしも人間の性的対象は異性というわけではないという。
人間が他の動物と違う所以である。種を残すということが本能的に宿命づけられている動物と違い、人間は、そのような本能とは関係なく性的関係(異性でも同性でも物でも)を持つことができる。そこから考えると、必ずしも生殖を目的としない性行為を行うのも、ある意味当然である。
動物的な本能は、人間においては加工され、欲動になる。その加工のされ方は、様々だ。一方で、倒錯が起こるという点において、私たちは多様ではなく画一的である。異性愛と同性愛という二項対立は、人間性愛の多様性によって脱構築される。しかし、新たに、人間性愛者と異常性癖者という二項対立が生まれる。しかし、これも、欲動の可塑性により、脱構築される。ただし、人間の外側から見れば、欲動の可塑性は本能と対立している。ここに、人間の普遍性なるものがあるとすれば、「欲動の可塑性」ということになるのだろう。その意味で、動物と人間は区別されうる。『正欲』は、ひとまず、人間性とは何かを突き付けてくる物語であると読むことができる。実際に、このような倒錯は異性愛者の寺井啓喜の中にも見られる。それは、妻である由美との性行為の際に現れる。
由美の涙を見て興奮する啓喜。異性愛者であっても特定の何かに性的興奮を促されることはある(例えば、足フェチ、SM、赤ちゃんプレイなど。このような倒錯をフェチズムと呼ぶ)。このような性質は、全ての人間の内にある。それはちょっとしたことで顔を出したり引っ込んだりする。精神の内部で起こる欲動の可塑は画一的な形で現れるわけではなく、多様な現れ方をするということこそ、画一性を越えた人間の普遍性として考える可能ではないか。そして、その多様な可能性を想像することこそ、人間のみ為せる営みなのではないだろうか。
(フロイトの精神分析には批判も多いが、基本的にはラカンもこの路線を踏襲している。さらに、近年、愛着(アタッチメント)という観点から子どもの育ちを論じる動きも多い。アタッチメント論はフロイトの精神分析の流れのなかにある)
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