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多様性と居場所の哲学③

2 『正欲』の脱構築

(1)「すべての欲動は倒錯という結果である」という人間観から、性の画一性と多様性を考える ―フロイトの精神分析より―


 先ほど、男と女という分け方に異議を捉えた。それは性的対象にも対応している。LGBTQの性的対象は少なくとも人間である。ところが、登場人物の桐生夏月は、だれにも理解されない異常性癖の持ち主である。それは多くの人間に身に覚えのあることである。胸や尻、足などに興奮することは私にも覚えがある。SMやくすぐりに対する興奮もその一つだ。登場人物たちもまた、人間ではなく、水の戯れに性的興奮を抱く、異常性癖をもつ。現代でも異常性癖に対する理解度や認知度は低く、物語の中で彼らは、人間という範囲を逸脱したものとして扱われている。

夏月は物心ついたときから、噴出している水の様子に興奮するのだった。原因なんてわからなかった。周りの友人たちが、あの子かっこいいよね、と頬を赤らめるように、夏月は“噴出する水”に身体の一部を熱くしていた。皆が人間の、主に異性に好意を抱くように、夏月もそこに明確なきっかけも理由もなく、水に好意を抱いた。

『正欲』p.151

 これは一体どういうことだろう。わたしはおそらくマジョリティの人間なので、このような感覚は理解できない。理解できないからこそ、世界の外側のものとして扱われる。世界の外側ということはあってはならないものである。世界の内側のもの=世界の中にあってよいもの≒善VS 世界の外側のもの=世界の内側にあってはならないもの≒悪、とみなすことになるだろう。異常性癖者はもちろんのこと、異性愛者は同性愛者の感覚も分からないので歴史的には、同性愛者も悪とみなされることがあった(いまでも無くなったわけではない)。しかし、多様性が認められた世界では、同性愛者は世界の内側=あってよいもの≒善である。
ところが、フロイトは、人間の欲望は、成長過程で欲動として作り変えられるため、かならずしも人間の性的対象は異性というわけではないという。

これはフロイトの言っていることですが、欲動の向かう先は一対一対応ではなく、自由で定まっていません。だからこそ、性的な対象も最初の段階では定まっておらず、異性を欲望するようになるという大多数の傾向は、もともと本能的にあるにはあっても、人間の場合は欲動のレベルでそれを固め直すことになります。本能のレベルに異性愛の大きな傾向があるにしても、欲動が流動的だから、欲動のレベルにおいてたとえば同性愛という別の接続が成立することがありうるのです。性愛のことだけでなく、何か特定のものに強い好みを持ったりとか、そういう自由な配線が欲動の次元で起こるのです。

『現代哲学入門』p.120,121

 人間が他の動物と違う所以である。種を残すということが本能的に宿命づけられている動物と違い、人間は、そのような本能とは関係なく性的関係(異性でも同性でも物でも)を持つことができる。そこから考えると、必ずしも生殖を目的としない性行為を行うのも、ある意味当然である。

本能的・進化論的な大傾向はあるにせよ、欲動の可塑性こそが人間性なのです。欲動において成立する生・性のあり方は、たとえそれが異性愛のようなマジョリティの形式と一致するにしても、すべては欲動としての再形成されたものだから、その意味においてすべてが本能からの逸脱である。つまり、極論的ですが、本能において異性間での生殖が大傾向としてしていされていても、それは欲動のレベルにおいて一種の逸脱として再形成されることによってはじめて正常化されることになるのです。(中略)こういう発想は、正常と異常=逸脱という二項対立を脱構築しているわけです。我々が正常と思っているものも「正常という逸脱」「成長という倒錯」です。本能的傾向と、欲動の可塑性のダブルシステムを考えるというのがここで言いたいことです。

『現代哲学入門』p.121

 動物的な本能は、人間においては加工され、欲動になる。その加工のされ方は、様々だ。一方で、倒錯が起こるという点において、私たちは多様ではなく画一的である。異性愛と同性愛という二項対立は、人間性愛の多様性によって脱構築される。しかし、新たに、人間性愛者と異常性癖者という二項対立が生まれる。しかし、これも、欲動の可塑性により、脱構築される。ただし、人間の外側から見れば、欲動の可塑性は本能と対立している。ここに、人間の普遍性なるものがあるとすれば、「欲動の可塑性」ということになるのだろう。その意味で、動物と人間は区別されうる。『正欲』は、ひとまず、人間性とは何かを突き付けてくる物語であると読むことができる。実際に、このような倒錯は異性愛者の寺井啓喜の中にも見られる。それは、妻である由美との性行為の際に現れる。

由美は昔から、挿入時に、なぜか涙を流す。「痛いとか嫌とかじゃないから。勝手に出てきちゃうだけ」そう言われたところで付き合いたてのころはどうしてもびっくりしていたが、すぐに見慣れた光景になった。啓喜はいつしか、由美に覆いかぶさり、腰を動かしながら、その丸い瞳が濡れていくのを見るのが好きになった。

『正欲』p.91

 由美の涙を見て興奮する啓喜。異性愛者であっても特定の何かに性的興奮を促されることはある(例えば、足フェチ、SM、赤ちゃんプレイなど。このような倒錯をフェチズムと呼ぶ)。このような性質は、全ての人間の内にある。それはちょっとしたことで顔を出したり引っ込んだりする。精神の内部で起こる欲動の可塑は画一的な形で現れるわけではなく、多様な現れ方をするということこそ、画一性を越えた人間の普遍性として考える可能ではないか。そして、その多様な可能性を想像することこそ、人間のみ為せる営みなのではないだろうか。


(フロイトの精神分析には批判も多いが、基本的にはラカンもこの路線を踏襲している。さらに、近年、愛着(アタッチメント)という観点から子どもの育ちを論じる動きも多い。アタッチメント論はフロイトの精神分析の流れのなかにある)

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