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多様性と居場所の哲学②

1 多様性の外側から見た画一性

(1)多様性を考える

多様なるものを語るとき、例えば、目に見えるものを考えてみる。目の前には花がある、人がいる、建物がある、空がある、など。さらに細かく見ていくと、花には花弁があり、おしべがあり、めしべがある。花弁はいくつかに分けることができる。その花弁一つ一つは細かい細胞からできている。細胞は…、というように、無限に差異が生まれる。よって、無限に多様なるものが存在することになる。このように、目に見える世界を分けることで初めて多様性が生まれる。同様に、人という概念に着目してみる。例えば、男、女に分けてみる。男の中でも、異性愛者と同性愛者と両性愛者と異常性癖者に分かれる。異常性癖者の嗜好を考えると、水、動物、金属、など…と、無限に分けることができる。

(2)画一性と多様性

ところで、男は女に、男は一人一人同じような存在であると言われれば反感を持つだろう。たとえば、「男はみんな子どもっぽい」と言われれば、男は腹が立つ。おそらく、俺たち一人一人にも個性があると言いたくなる。同様に、男が「女はみんな嘘つきだ」と言えば、女は当然反論したくなるだろう。私たちは、一人一人違う悩みを抱えているのだ、と。この時、女は男を画一的に見ているし、男も女を画一的に見ている。それに対し、男は男同士、女は女同士を互いに多様と見ている。このように、視点によって画一性を感じるか多様性を感じるかは変わる。また、日本人にとって、アメリカ人、中国人、フランス人というように外国人を細かく分けて考えているので、外国人は多様であると言えるかもしれないが、アメリカ人に対して、アメリカ人だからこういう考え方をするのだという考えが浮かんだとすれば、それはアメリカ人を画一的に見ていることになる(たまに、アメリカ人はみんな同じ顔に見えるという人もいる)。差異が生まれる際にはまとまりが生まれやすい。その意味で、画一性と多様性は表裏一体である。そして、差異とまとまりが生まれる過程は無限に際限なく続く。

(3)画一性と多様性を脱構築する

とはいえ、こうした差異とまとまりは言葉を使ったコミュニケーションを取る際には不可欠である。だから、いったん人間は、自らをとりあえず男と女に分けた(最近は、性の差異をLGBTQと呼ぶことがあるが、少なくとも、法律上は男と女という分類である)。しかし、男と女、どちらがいいか、という問いに正しい答えを出すことはできない。このような対立はいったん留保する他ない。これが「脱構築する」ということである。

物事を「二項対立」、つまり「二つの概念の対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん留保するということです。とにかく我々は物事を対立で捉えざるをえません。善と悪、安心と不安、健康と不健康、本質的なものと非本質的なもの(どうでもいいもの)……などなど。私たちが何か決めるときは、何か二項対立をあてはめ、その「良い」方を選ぼうとするのです。

『現代哲学入門』p.19

(本稿では、脱構築をわかりやすく解説するテキストとして、『現代思想入門』(千葉雅也)を使用する。また、居場所を説明するために、『居るのはつらいよ』(東畑開人)、『へろへろ』(鹿子裕丈)を引用する。さらに、居るための場とは何かを考察するため、『世界はなぜ存在しないのか』(マルクス・ガブリエル)を引用する。)

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