私が”作文が得意な子供”だったワケ
小学校や中学校の作文というのは、常に”先生の目”に触れる。”先生の目”から見ていい作品かどうか、”先生の目”から見て利口な作品かどうかを判断されていると私は思っていた。
よく言われる、「作文は読み手のことを考えて書きなさい」というのはまさにそういうことで、私は先生に読まれることを前提として作文を書いていた。
担任の先生だったら、こういうことを書いたら赤線を引いて褒めてくれるんじゃないか。
そんなことを考えながら作文を書く子供だった。
その経験は、実際にもっと広い層の読者を想定して書かなければいけない小説やこのnoteに役に立っているとは思うが、”小学校の作文”としては、”先生の目”を想定して書かなければ良い評価をもらえない作文というのはいかがなものかと思う。
どんな評価をつけるかは先生にもよるし、自由にのびのびと書いて良い評価を与えてくれる先生も存在するだろう。しかし、今Twitter上で議論を巻き起こしている読書感想文については、まさに私が言いたい、”大人が書かせたい作文”のニオイがすごいのである。
作文は得意な私も、読書感想文は得意ではなかった。
読んで判断するのは担任の先生ではない。もっと”こんなことを書いてほしい”が明確なおとなたちだとわかっていた。すると、途端に何を書いていいのかわからなくなるのである。
好きな担任の先生にむけて作文を書くのなら、いくらでも先生が好きそうなことを書くことができた。しかし、顔も見たことがない、”こんなことを書いてほしい”と考えているおとなに向けて書くのは、至難の業だと私は思っていた。
結局、まともに読書感想文でいい評価をもらったことがない。中学校のときにつけられたA〜Cの評価でも、Bにとどまった。Aをもらったのは、学年で3人ほどだったらしい。
年々、読書感想文で読書や作文が嫌いになっていく子供はたくさんいると思う。
昔、たしか読書感想文の優秀作品をまとめた本で、「読書感想文の賞を開催しているのは、こどもの皆さんに本を好きになってほしいから」だと書かれていた覚えがある。
もし本当にそうなのだとしたら、漫画でもなんでもいいから本当に好きな本を選んで、それについて好きなだけ語るという”感想文”の形式をとれば、夏休みに本が好きになる子供はぐっと増えると思う。それだけ子供にとっては、”おとなに要求されていることを汲んで好きでもない課題図書を読んで感想文を書く”という作業は、本を嫌いになる要因でしかないのだ。
私の通う芸術大学の文芸学科では、学科長が開設していた文芸の歴史を扱う授業で、読書感想文を週2回提出するという課題があった。
厳しい添削がなされて返ってくるのかと思いきや、一度も返却されたことはなかったし、一度も内容に触れられたことはなかった。
非常に残念なことに今年ご病気で亡くなられてしまったが、学生が自由でいることを常に認めてくれた学科長であり、もしかすると自分の好きなように解釈し、とにかく量を読みなさいというただそれだけの意味だったのかもしれない。
毎年の夏休みの課題も、ほんとうはそれくらいでいいのかもしれない。
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