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『春と修羅』。未来って明日の朝のことぐらいでちょうどいいって思った。

家の近くにパン屋さんがあるのはある意味

理想だった。

パンだけは、いきつけのお店で買いたかった。

紙の袋からフランスパンなんかをはみださせて、

歩いたり自転車で通りを駆け抜けたかった。

ミモザの花が店先に咲いている壁の色が緑色の

パン屋さんが出来たのは数年前。

カウベルを鳴らしてそのパン屋さんに入る。

今日はいつもと違うパンを買った。

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瞬く間に売り切れてしまう紅茶のパン。

スライスしている時。

カッターを当てた途端辺りをたゆたうように

アールグレイの香りが漂ってきた。

マスクをしていても香りが漂っているのが

わかった。

あしたの朝はまちがいない。

ちょっとはずかしいけれど、

なんとなくそんな気分を誘う匂いが、通りにまで

はみだしそうな感じで、お店いっっぱいに

広がっていた。

マスクの中でも香りが漂っていることが

わたしの気持ちを上向きにさせてくれた。

オーナーの方とレジで、他愛もない言葉を

交わして、その店を出る。

扉を開ける時、カウベルがやさしく鳴った。

道すがら、パン屋さんの赤い袋がゆれるたび

その袋の中でパンが香るせいか、

いつか起こった出来事がぜんぶ通り過ぎて

ゆくような感じがした。

ちょっと柄にもなく『失われた時を求めて』みたいだけど。


通り過ぎてゆく記憶の中に立ち止まらずに

いられるぐらいにじぶんはどこか遠い所まで

来てしまったんだなって思った。

それはわるい意味じゃなくて。

いつまでもあのつらかった元の場所からは

今は遠くにいるんだなってっていう安堵感に

似ていた。

そしておかしなことだけど、

パンはみらいをつれてきてくれる って言葉が

浮かんできた。

みらいって遠い未来のことじゃなくて、少なくとも

まだ見ぬあしたの朝のじかんを待ってくれている

それがパンなんだなって。

家に戻ってから、パンのことが書いてある雑誌を

めくっていたら

宮沢賢治の『春と修羅』に出会う。

小麦粉とわづかの食塩からつくられた
イーハトーブ県の
この白く素朴なパンケーキのうまいことよ
はたけのひまな日あの百姓が
じぶんでいちいち焼いたのだ。

すごく楽しいこと、すごく悲しいこと。

歳を重ねたせいか、このふたつはいつもいつも

あることじゃないことを知った。

昔はもっと立ち止まっていたのだ。

楽しいことはともかく、悲しい時には。

日々はなんでもない日と、ささやかで楽しい

ことがあった日と、ちいさくて悲しいことが

ある日が織りなすようにできている。

そうパン生地の中に練り込まれたみたいに。

紅茶のパンは、なんだかあなどれないなって

思った。

あの香りのせいか記憶まで一緒に連れてくる。

昨日とか、もっともっと遠いきのうだとかが

まるでじぶんとはとても薄い関わり合いしか

なかったかのように、不意にあらわれては

きえて、今ここに生きていることの幸せを

伝えてくれた。

それはまるで小さい頃、焦がれていた湖に

浮かぶ浮島のようだった。

そしてあの宮沢賢治の詩を想いだす。

なかなかできないことだけど。

この春からはちゃんと、時間をかけて食事を

味わいたいと思った。

そしてわたしは母と二人暮らしなので、時々は

もっとていねいに手間暇かけた食事を母のため、

そして自分のために作りたいと思った。

いにしえの 彼方でゆれる はるとしゅら
くちびるが 知らないうたを こぼしたままで

(ピアノは微熱を纏い 透明な夜は踊る 彼方の目は空を仰ぎ酩酊
黒い太陽を映す・・・ピアノは微熱を纏う downy LYRICS)






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