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卒業式の朝、甘酸っぱい匂いがした。

酸っぱいっていうのは、カイコウする匂い。
暗室の向こうから、少しだけくぐもった声が聞こえてくる。
映は、フローリングの上に膝を抱えたかたくなな卵みたいな形で、
座ってる。
表情もなにも見えないから、ちいさな溜め息に似た声のかけらも
聞き逃さないようにして耳をこらして傾ける。

オリーブオイルの壜の中でたゆたうようにとろんとした色を、
フローリングにこぼしている。
そんなマジックアワーの夕刻。

部屋の中に差し込む光にふいに気がつく時、いつもなにかそこに
液体をこぼしたみたいに映は感じることがある。
触れてみてもそこは、濡れているわけでもいし、ただ光の帯が
手の甲を透かしてゆくだけだ。

チチが暗室にいるとき。
その作業のときはなぜかいつも膝を抱えたまま暗室にむかって映は
声を放つ。

カイコウってなに? 酸っぱいってなに?

耳を澄ますと息を深く吸い込んだ、チチの声が聞こえる。
現像液っちゅうのは、酸っぱいんや。あ、映ちゃんは舐めたら
あきまへんで、舐めたら死にますさかいな。

扉の向こうのチチを想像する。
現像液の中に、写真になるまえの印画紙をひたひたに浸している
頃に違いないって。

作業の時、息を殺して印画紙の中にたいせつな像をむすぶ時を
見守る緊張感が暗室のこっちまで届いてくる。
部屋全体が溶液の中にしずんでしまったような静謐さに包まれる。
現像液の中で生まれてくる、過去の時間に刻まれた色や形や
見えない呼吸がうっすらと輪郭をもちはじめると、チチは必ず
言った。

カイコウは、ふたたび会えるっていう意味の匂いでな
現像液っちゅうんは、なつかしい匂いがするんやって。
同じ声のトーンではなくて、時折ちいさくかき消されそうになり
ながら。なつかしいって言葉が、映にではなく自分に伝えている
感じの声で、届いてきた。

それが映とチチの最後の会話だった。

映は時折思っていた。現像液をなめすぎたチチは、それが
致死量にまで達してしまって死んでしまったのだと。
死因は、誰もおしえてくれなかったからそう思うことに
していた。

あれは3年前の14歳の夏の終わりかけだった。

空にはマジックアワーがやってきたそんな夏の夕刻。

みんなで花火しようっていって、花火セットを買いに出かけた
母をマンションの屋上で待っている時。

チチがプレモルの2本目のプルトップを引き上げる。

どんどん空の色が色を脱いで青と赤のグラデーションのように
混ざり合った時、ママ遅いねって屋上の空を見上げながらチチは、
言った。

映は風をはらんでうねるように脈打つチチの深緑色のセーターの
背中を見ながら、その声を聞いていた。

チチのその心許ない声を聞いた刹那、屋上に来たときから感じて
いた不安の欠片が、ひとつずつ自分の手の中で確かな輪郭を持っ
た不思議な感覚に包まれながら。
その想いを打ち消すようにチチの背中につぶやいた。

ママってどうしようもない方向音痴だからね、 って言おうと
した映の声にかぶさるようにチチがほらぁ、あの空みてみぃって
指をさした。

首を伸ばして夜になるちょっと前の時間の空を見上げた。

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夜になるすれすれの時間をね、マジックアワーって言うんやで
って。

右耳をふさいでも左耳をふさいでも、マジックっていう言葉の
音の残響が五線譜の上でこぼれてしまった音符みたいに、映の
中に、棲み続けた。

その時の予感めいたふしぎな感じは、数時間後ずれてやって
きて、たしかなものとなった。

花火を買いに出かけた母はそのまま戻ってこなかったから。

でかける直前の会話がよくなかったんだって映は思う。

線香花火ってのは菊の花びらを燃やしたみたいな匂いが、
するんやなって言ったチチ。

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母はあからさまに嫌そうな顔をした。

繊細な香りの違いまでをかぎ分けるそんなチチが母はきらい
みたいだった。

映ちゃん、ママはパパが時々面倒な犬にみえてくるの。

パパの生活はいつもフレームの中にあって、被写体と自分
の時間しかみえてないのよ。ママのことだって、肉眼でみて
くれたことあるの?って疑いたくなるぐらいよ。

そこで話は終わらなかった。映は膝を抱えたまま母の声に
耳をかたむけたくないのに聴いていた。

そのくせ、現実の時間の中では鼻だけ利かせてママのことを
見張ってるみたいに感じて、息が詰まりそうなになることも
あるし。

母の言葉を今も思い出す。

ファインダーも覗かない、鼻の利かない誰かと母はどこかで、
幸せに暮らしているのだろうか。

チチと二人で暮らししていたある朝。

チチの食べかけのパンの耳がギザギザになってお皿の上に
残されていた。

その日いつもは閉まっている暗室の扉が開いていた。

結界のように触れてはいけない場所なのに、足を踏み入れて
みた。

壁と壁にロープが渡されて、何枚もの写真がピンチのような
もので留められている。

見知らぬ国の人たちの写真。見知らぬ国の国旗のような写真。

少しだけ映はそこに近づく。そんな写真に交じって、人物
らしき人達が、写っていたものをみつけた。

よく見ると、自分たちだった。
懐かしい隠岐の島で釣りをした夏休みの写真。

チチと母と映が所在なげに笑ってる。

ふと写真に近づいて映は、その匂いを確かめる。

いつか教えてくれた現像液の酸っぱい匂いがしていた。

大切な時間が印画紙に結ばれているときの匂いが、
そこに満ちていた。

鼻腔が酸っぱい匂いに刺激された時、チチがつぶやいた
カイコウの意味が、ぼんやりと輪郭をもたらす。

邂逅するってふたたび出会えるってことらしい。

あの頃のことを想いだしながら映は、暗室で呟く。

チチ、やっと卒業するんだよわたし。

ほんとうはチチに、写真を撮ってもらいたかったけど。

そうつぶやいた時。

現像液の匂いをクンクンしていた時の匂いがあたりを
くゆらせたような気がした。

チチがまだそこにいる。映はそう思った。

甘酸っぱい現像液の匂いは、チチからの卒業の言葉みたいで。

その時、映はなくした時間をむすぶ犬になった気分だった。

ささやかな 記憶をたどる こんなにもなに?
あのひとと おもうそばから あのひとぶれて




 

いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊