文章で世界を創るために。塚本邦雄の鎮魂歌
塚本邦雄の掌編小説、『葡萄鎮魂歌』は私の好きな小説の一つである。
今は、河出文庫の『トレドの葵』で読める。
ちょうど、先週が夏至、だったので、まずは収録されてい表題にもなっている『夏至遺文』から。
普通にネタバレもしていく。が、ネタバレなど、塚本邦雄の小説にとっては何ら瑕疵を与えることはない、些末な問題でしかない。
『夏至遺文』は文庫本でわずか2ページほどのものだが、なかなか強烈なインパクトを放っている。遺文、とは、個人が生前に書き残した文章、なのであるが、今作は一人の男性に宛てて書かれた遺文の体裁で綴られている。
一人の男性、その妹と、その妹に慕われていた男性の関係性、が綴られるのだが、まぁ、やはり、そこは塚本邦雄なので、男性は妹ではなく兄を慕うわけで、その眷恋の言葉を、ほのぼのと白い夜桜の下で兄に告げるわけだ。
来年の夏至の真昼、、陽が頭上に輝き、ものみな影が亡せる頃、必ず来ると君はわれわれに約した、とこの男性は兄のもとに来ると約束して、兄は待ちながらこの手紙を書いている、というわけだ。逢魔時のその時に。
まぁ、然し、その約束は果たされないわけだが。
塚本邦雄の小説、つまりは、彼の言うところの、瞬篇小説、これらはすごい技巧が凝らされていて、まぁ、作り込まれている。まさに言葉で城を築き上げているわけだ。
ただ、全く平易な文章ではないため、大抵の人には意味すら理解できず、そこそこ長いものだと、途中で投げられるだろう。気合を入れて読まなければならないのだ。私も、毎回一読目は、は?何だ?終わったぞ?みたいな感じだが、然し、それはスルメのように、ボディブローのように、後から後から効いてくるのだ。
さて、『葡萄鎮魂歌』だが、まぁ、これは、例のごとく同性愛小説だが、然し、題材が面白い。日本人は、普く全てのものに対して、神を視ることが出来る民族で、八百万の神のごとくに、擬人化も盛んである。盛ん、というよりも、常に擬人化しなければ気が済まない宿痾を持つ。
神様には全て性別がある。それと同じように、物にも、性別がある。フランス語、ドイツ語、などに親しい人、或いは、他の言語圏―、そのそれぞれで対象となるものの性別は異なるけれども、今作ではその、物にまつわる性別を描いている。
主人公は見目麗しい美男子で、まぁ、例えば、『吉田修一』が描く、絶世の美男である『国宝』の喜久雄などよりも、余程美しく描かれている。
なんたって、始まりの一行、
『祇園祭の稚児に選ばれて別火の食事を供され、男仕立の肌着を着けたといふ幼時の思い出がそもそも紺田力雄の自慢の種であった。』
と、あるが、これだけで、彼の出自とその神聖さが見事に書かれている。
基本的には祇園祭の稚児に選ばれるのはウルトラ金持ちで、代々の京都の名家の子息、別火とは神事の前に穢れを纏わぬように、日常使いとは別の火、八坂神社から賜る火によって食事を作り、それを食べる、稚児の習わしである。
この小説も文庫にしてわずか7ページ程度である。然し、なぜそれが達成できるかと言うと、そこに描かれているモティーフであったり、言葉遣いであったり、文字の並びであったり、書かれているが顔を出さない知識や品であったり、つまりは、美少年、或いは美青年、乃至は美少女や美女は、文体と言葉の衣装と意匠によって立ち顕れるのであり、それがない小説は、文体は平易で読みやすくても、色気も糞もないわけだ。
で、この美青年力雄は生まれながら異性である女性名詞である物に嫌悪を抱いていて、それらを徹底的に避けるのだ。
例えば、英語を習い出すと、船、海は女だから嫌、犬も牡しか飼わない、然し、バナナは形はあれだから男性であろうと、無条件で大好物である。
トランプの類でも配られたカードにクイーンやハートがある女の匂いがする、とすぐに捨ててしまい、キングやジャックを侍従のように従えるなどのエピソードも可笑しいが、言葉は言霊、これらの男性名詞、女性名詞は面白いもので、例えばお月さまは独逸語では男性名詞だが、仏語では女性名詞である。
なぜそうなるのか、国々ごとの童話や伝承などでどう扱われるのか、そのような起源を手繰り寄せるのも面白い話だし、まぁ、それが実は文章書き本懐なのだが、とにかく、この『葡萄鎮魂歌』では、主人公の力雄は成長して、ラテン・ゲルマン系の言語を覚え始めると、もう草木一本まで調べ尽くさなければならないほどに全ての男性名詞女性名詞を調べる。
友人の血気盛んなハイティーン(いや、これはこういう風に紹介されるのだ……)夏原を伴ってレストランに入ると、牝の肉が入るのを恐れてチキンライスではなく中性のオムライスを頼み、ケチャップの血は不浄であると、スプーンで夏原にその部分だけ食べてもらったりする。
そんな力雄がレストランでデザートに出た葡萄、乳房を聯想するので嫌いだったのだが、店の主人が『泥棒日記』の話をする。なんでやねん。
作中では、さらっとだけ、『泥棒日記』が出てくる。そのエピソードを聞いて力雄は葡萄に大好きになるのだが、まぁ、識らない人は何故?となると思うのだが(作中でも書いていないので)、ジャン・ジュネの『泥棒日記』は、男娼をしていたジュネの自伝的作品で、当該作では、葡萄そのものを、シティハンター的なもっこりとしてズボンに入れておく、的な話が出るが、そのことを識り、力雄は葡萄好きに鞍替えするのだ。
葡萄はおっぱいでもあり、おちんちんでもあったんだね。
力雄は、葡萄といえば眼に色を変えてそれをたらふく食べるようになって、最後には食いすぎで死んでしまう。
これに対して、彼の友人である夏原はその最後に涙を流すが、力雄はこう言う。
『おい夏原、涙を女性名詞だぞ。哭くのはやめてくれ』
鮮やかな終わり方で、私はとても好きである。まぁ、技巧に走っている、というか、日本人の大好きな情緒、人間と人間の関係性、という点には触れていない作品だし、下ネタも多いので万人には進めにくいが。
然し、この力雄のように、ここまで徹底、つまりは、身の回りに置くものや食べるもの着るもの全てを男性名詞の物で固める、とは、実際とても魔術的であり、そこにある思想を識れば、とても美しく偉大にすら思える。偏執狂的ではあるわけだが。
美しい小説、といえば、かいなでの文学者では川端康成が人気があり、私も大好きなのだが、川端康成の小説の美しさは非常に繊細ではあるが、情緒にすぎて、技巧がない。
川端の美しさは、薔薇の花束よりも1本の薔薇、それも花びら一つ、という、そういう、感覚的な、まぁ、新感覚的な情緒の世界である。揺らぎのある世界で、それは確かに美しいのだが、然し、思想はない。いや、あるにはあるのだが、結局、魔界と女のその2つに尽きるので、魔界とはいえ、やはり人間の性に寄り添いすぎなのだ。
さて、葡萄。葡萄、といえば、この短歌が思い出される。
『童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり』
春日井建、ある。
この短歌などを読むと、結局のところ、見ている視点が異なる、ということに尽きるだろうか。こういのは如何に文豪とも書けない。
一行の中に、或いは、掌編小説というものの中に、どれほどの情報を詰め込み、幻想を熟成させるのか。
これは川端康成も同様だが、やはり彼はどこまでも情緒に生きている。
日本人の感性は、短歌、俳句、と、短いものに行きがちである。わずか31音、17音の世界にも、過不足なく、余蘊のないようにと、宇宙を形成するために様々に思考を巡らせるわけだが、まぁ、然し、長編小説、すなわち、売るための小説、売文小説、慰安のための小説とは、それとは相反していて、海外の文学などはその長大さを持ってしてもそこに思想があるため、耐えうるのだが、日本の小説は一部を除いて、特にエンターテインメントの場合、ほぼほぼ思想がないため、長編の文章は薄く、物語、という名前の起承転結、人間と人間の関係性の変化、に頼らざるを得ない。
で、塚本邦雄の場合は、短歌の人だからか、長編小説は書けないのか、それとも、詰め込みすぎだからか、長編小説になれない運命なのか、それは定かではないが、その瞬篇小説には宇宙が形成されている。
塚本邦雄の瞬篇小説の精緻な作り込み、川端康成の掌編小説の感覚の共有ー。
つまりは、世界観である。世界観、というのは、なんとなくの言葉の使い方や、山河や森、海、そこに住む人々、などではなく、作者の持つ知識がどれほどまでに張り巡らされているのか、それをどこまで通暁させているのかーそれが世界観であって、その意味では、塚本邦雄の言葉の神殿は間違いなく一つの世界だと言えるだろうが、然し、そこには毒花が咲き乱れていて、やはり、多くの読者が二の足を踏む。
まぁ、私も全然気が乗らないときは読めない。しんどいので。然し、読んで調べると、色が溢れてくる、そのような小説である。
さて、春日井建のジャン・ジュネ、といえば、
『密猟番の銃をかすめて乳霧に濡れつつ読みたき泥棒日記』
ジャン・ジュネ、サル・ミネオ、ジャン・コクトー、ジェームズ・ディーン、中井英夫、塚本邦雄、そして三島由紀夫。
『少年』や『伊豆の踊子』、『たんぽぽ』で微かに触れたクィア文学だが、川端にはやはり絵空事でしかない。
まぁ、彼の場合は女性名詞に囲まれている、力雄とは正反対の男だから……
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