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明治の文体、漱石の…っていつもの津原泰水じゃねーか! 『夢分けの船』の感想

先日購入した津原泰水の『夢分けの船』をようやく読了。

私は読むのが遅いので、1ヶ月近くかけてようやく読んだ。

これが遺作長編となる。明治の文体、それも夏目漱石を特に意識して書かれた今作、執筆中はずっと明治期の文学に埋もれていたと述懐している。

然し、まぁ、読みにくいわけではなく、文学、特に大正期から昭和期のものを嗜んでいる人なら全く読みにくくないし、寧ろ、いつもの津原泰水じゃねーか!となる。
読みにくい、という評価の方は、現代文学やエンタメ小説を読む層だろう。といえ、読んでいればすぐに慣れてくるだろう。

まぁ、内容としては、愛媛から映画音楽を学ぶために上京する青年の話である。

22歳の主人公は昔観たある特集上映のドキュメンタリー映画とその音楽家の演奏に心打たれて、映画音楽家になりたいと思う。彼は父親の仕事を継いでいるが、それを止めて、反対を押し切って、東京に来る。

そして音楽の専門学校に入り、そこが仲介してくれたマンションに住むことになるのだが、彼の部屋には自殺した久世花音なる女性の幽霊が顕れるのだという。
1年間に及ぶ青年の青春期、それを東京という美しい街で描く。

主人公である秋野修文は「よしふみ」だが、シューブンという渾名で呼ばれていて、彼は非常に頑固で偏屈な正確である。四国から東京へと、まぁ、夏目漱石の『坊っちゃん』の逆を行くのでこれは意図的だろう。彼が1番初めに友達になる作中の重要人物の嘉山は、これもまた岡山とう渾名でシューブンは呼ぶのだが(心のなかで)、そういう要素が散りばめられている。

私は、以前からnoteで津原泰水愛を書いてきたが、今作は、良い津原、悪い津原、であるのならば、後者のような気がする。

幻想小説の名手として様々な幻想的な東京を描いてきた津原氏だが、今作もどことなく夢幻の中にいる心地がする。ただ、津原泰水小説の鼻につく点である、会話の小賢しさ、言ってしまえば、作者本人が透ける、漫画的なやりとりが今回では異様に目立っているような気がする。
自然な会話、というものが、津原泰水は書けない。つまりは、セリフ全てに凝っている、ということなのだろうが、それが作為的に見えすぎる。
これが、『バレエ・メカニック』や『ペニス』のようなシュルレアリズムやSF幻想ならば上手いことに機能するのだが、普通の青春小説になると、途端に鼻白んでしまうのだ。

基本的には、『ルピナス探偵団』シリーズ、『幽明志怪』シリーズ、『クロニクル・アラウンド・ザ・クロック』の系譜にある作品だ。それは書き方の問題で。

『たまさか人形堂ものがたり』シリーズは、人形というモチーフがこれまた上手く機能していて、幻想の現代ドラマが成立していた。

然し、『夢分けの船』は、一応は久世花音という幽霊の存在で、幻想とミステリーを青春に組み込ませようとしているのだが、然し、まず、そういう強烈なカリスマキャラクターを作ることに失敗しており、また、津原泰水特有の朧気な人物の描き方が悪い方向に作用しており、中盤の真相の一つもカタルシスには繋がっていない。
キャラクターは多様に登場するが、今回は上手く落とせていない気がするし、処理も下手な気がする。
作中に出てきた要素があまりにも投げっぱなし過ぎるのである。また、感情表現も書き方も生来的に仕草などで察させることを得意としているのだが、それ以前の問題で、しかも、それが今回の文体と相まって、一層分かりづらい。いつもはいい塩梅で作品を向上させた要素がことごとく裏目に出ている。

そもそも、作中のキーパーソンである久世花音のキャラクターがまるで魅力的ではないため、この時点で中盤まで読んでいてやばいなぁと思っていた。
さらに、バンドを結成してそこでの痴情のもつれ、的な話もあるのだが、この主人公って映画音楽の勉強をしたいのか、何がしたいのか、全然わからないなぁとなる。後半、映画音楽に関して最早記述はなくなり、まぁ、ただ主人公の仕事に合致したある種音楽的とも言える装飾を見ることになり、それが彼の未来に繋がったということだろうか。
然し、彼がその道に進もうと感銘を受けた音楽家は作中で登場せず、たまさか言及されるだけで、情報がない人物とはいえ、もっと調べるだろ、普通は、となりノイズになるし、後半はなぜか三味線演奏に衝撃を受けるシーンが出てくるのだが、これも最後には全く繋がらず、津原泰水が執筆時に鑑賞でもしたのだろうか……、と思うことしきり。

主人公は完全に受動型であり、然し、何故かモテる。このあたりもご都合主義で、結局1年間で、東京生活は終焉して、東京から四国愛媛に帰るところで物語は終わる。
冒頭から、主人公の憧れの女性が登場して、東京でも何度か再会するのだが、最後まで何もない。
また、中盤から主人公は目が痛みだし、眼科医にもかかるのだが(ここ、すごく会話も出てくるキャラクターの態度も異様で、まぁ作中でもお化け屋敷と書いていたが、こんな病院ねーだろ、と冷めてしまう。それから、ここで明らかな作中のミス記述がある。前後の文章で矛盾が出ているのだ)、その眼痛も最後まで結局何だったのかわからない。

いや、今書いてきたことは全て、ある程度は推測できるし、書かずともよい場面かもしれないが、一事が万事そうなので、今回の作品は出来が良いとはお世辞にも言えない。

まぁ、おそらくは、1年間のこの夢分けの船での出来事、それは取るに足りない青春で、気づけば儚く終わっている。主人公の片目は色を失い、とあったので、1年間の青春がセピア色に変じていくことを描いているのかもしれない。
大抵の人間の青春はこんなものだ。夢を抱き親の反対を押し切り、大都会へとやってくる。そこで友人や恋人が出来て、彼らと喧嘩したり酒を呑んだり、笑い合って、身体を重ねて、然し、時間はどんどん進んで、気づけば夢は終わって起きなければならない。
だから、汎ゆるここで描かれている事象は、全くのハッピーエンドとは言えない、ナッシングエンドだからこそ、青春物としては刺さる人には刺さるのかもしれない。

モラトリアムの時期を書いた作品、ということだ。

作中、最後に主人公は、電車の中から去っていく東京の夜景の明かりが消えてしまった時、燦然と鳴る音楽を聞き、硝子から久世花音が見つめ返してきた、という感じで物語は終わるのだが、なんとなく、川端康成の『雪国』を思い出す。あれも、火事の現場を見ながら、後ろに倒れ込んだ島村の目に中に天の川が滑り落ちてくるシーンで終わるのだが、なんとなく、そのような感じがした。

個人的には、やはり、あまり良く出来た作品とは思えず、然し、青春の終わりを書いた作品としては、心には残る、そのような小説だった。


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