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丁寧に捻くれている/又吉直樹『月と散文』

新刊であがなった『月と散文』を読む。

月、といえば、6月22日に発売される『FF16』の主題歌は米津玄師で、『月をみていた』と言うらしい。なんでも、米津玄師がFF用に書き下ろした楽曲とのこと。

どうでもいいが、私は『FF16』は発売日に購入する予定はない。まず、PS5はないし、PS4もほぼ起動していないため、『FF16』に投じるにはリターンがあまりにも少ない。かつ、『FFⅦリバース』は無論気になるが、この2本のためにPS5は、うーん、なんじゃらほい……という感じである。

で、話を『月と散文』に戻すと、私は又吉直樹さんの小説を読んだことがない。

『火花』が芥川賞を獲り、『劇場』や『人間』などの小説を書いているのは知識として持っているが、私は現代文学の作品をあまり読まないため、また、あまりにも『火花』が売れていたため、私の受け持ちではないと思っていたのだ。
200万部も売れた小説はつまらない、という、私の偏見も入っている。私は、大衆に売れる本が、少なくとも私好みではないことが多いのを識っている。でも、読んだら意外に面白かったりするので、アマノジャッキーな私はまぁ、そういう人間である。

そんなだからか、この本は無論存在すら識らなかったが、先日、書店に行った際に、平積みにされている『月と散文』を見て、どうにも吸い込まれたのだ。


私は、ジャケ買いをするために書店に足を運んでいると行っても過言ではない。ジャケ買いこそ、書店での購入の最大の醍醐味である。
そういう意味で、『月と散文』の表紙は、私に1,760円の出費させるに足る、それだけの引力を有していた。

松本大洋の、とても印象的なイラストがあしらわれた表紙で、一度はそのまま素通りしたが、後日やはり購入してしまった。
よく、本屋での偶然の出会いが〜云々という言葉を耳にする。私はその言葉が嫌いなのだが、なかなかどうして、やっぱり本屋での偶然の出会いはいいものである。

やはり、装丁、というものは、私のようなジャケ買い人間には非常に大きな効力を発揮するものだ。良いお洋服を来た本は迎え入れたくなるものだ。これは、数多のパッケージにも言えることだ。

本、という物質は、書店が姿を消していき、電子書籍に取って代わっていこうとも、抗いがたい魅力がある。
それは装丁であり、手触りであり、所有の感動であり、そして、匂いである。私は、インクと紙の臭いフェチなので、小学生の頃からずっとジャンプ、サンデー、マガジンの匂い、或いは、その他の雑誌、単行本、パンフレット、チラシなどの匂いにひどく惹かれていて、とくにパンフレットの匂い、というものは高級な香水めいて思えたものだ。

映画のパンフレットは特に書籍の中でも特別のもので、あれは指の油がすぐに乗って指紋で汚れるから、丁寧に取り扱っていたものである。昔、ニューヨークで『ダークナイト』を観たときに、受付でパンフレットをください、と言ったら、「そんなものはねーよ。」的に言われて、衝撃を受けたものだ。アメリカにはパンフレット文化はないのだ。

まぁ、とにかく、このことは人にとってはどうでもいいことだが、それは本の体臭であってからして、その存在というものを、身近に感じさせる力をやはり有している。

全然、本の内容に触れてこなかったが、今作はエッセイである。どうやら、又吉直樹さんのWEBのオフィシャルコミュニティサイトに連載されたいたものをまとめたもののようである。


私は、この本を読んで、又吉直樹という作家の個性というものが少しだけ見えてきた気がするが、然し、掴みどころのない文章である。掴みどころがない、といえば、古井由吉の文章などもいつの間にか迷宮に入ったかのように足元が覚束なくて掴みどころがないが、又吉直樹の文章はある種、その場その場で表情を変える獣のようだ。それも、可愛い感じの獣である。

そして、着眼点の妙を楽しませる文章であり、又吉直樹の考えを聞かされる文章である。今作が面白いのは、『人間』である又吉直樹の感性や感情や思い出を聞かされる読み手は、必ずしも、「うんうん、そうだよね。」と頷くだけではすまないところであり、それなのに、共感性も多分に生み出しているところでもある、その個性である。

エッセイであるからか、美しいなぁと思える文章はあまり出てこないが、その分、生の声、というのが反映された文体で、湿り気がある、体温がある。
西村賢太など、執拗に執拗を重ねた文体よりも、よっぽど面倒くさい感じが文章から立ち上っていて、この捻くれつつも誠実な文体は、親近感を読み手に与える。本人の言うように、愚直に屈折しているのである。

そして、玉石混交である。面白い話もあれば、つまらない話もある。それは、シンパシーを、電信をいかに作者と読者の間で接続されたかで、大きく変わる。

何よりも、同時代を生きている人の感覚がある。私の好きな文豪とかは既に故人ばかりのため、あくまでもその思想は過去からの光であり、それはまぁ、夜空の星のようなものであるが、又吉直樹の文章は今まさにすぐそこで散った火花のように(なんちて)、すごく身近に感じる。

私は、今回の本は自分では絶対に買わなかったなぁ〜と思う邂逅だった。なにせ、又吉直樹の本は、自分とは感性が合わない場所に類すると思っていたからであるが、然し、エッセイの中のいくつか、特に、幼い頃に風邪で休んでいた心情など、ああそうそう、あるよね、そう感じるよねっという感覚を掬い上げるのが巧みで、うーん、マンダムと、私は顎を擦ったものである。

本人が作中で書くように、『芸人の書いた小説』として一部の人が作品を貶したように、又吉直樹の作品を読まなかった私は、ひどく無作法だった。
然し、それもこれも、様々な造り手側の、作者の、装丁者の、画家の、編集者の、広報の、書店さんの、様々な交わりのお陰で、本作を手に取ることが出来たので、やはり本屋さんには通い続けなければならないし、色眼鏡は必要ない、ということである。

ちなみに、500部限定の『月と散文』の特装版もあるのだそうで、古書&奇書フェチの私としては、是非とも一度は拝みたいところである。

そういえば、村上春樹の新作も、新潮社のサイトを見たところ、300部限定の特装版が秋に発売されるそうで、価格は100,000円だという。
サイン入りだそうで、完売するだろが、まぁ古書市場に普通に流れるであろうと予想。

すごく読みやすく、夜に読むのにぴったりのエッセイ集なので、ゴールデンウィークの長期休暇にいかがか。

一箇所、人称の誤植らしき箇所があった。僕、私、僕、と乱れていたので、直した方がいいと思う(あえてでなければ)。


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