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読書ノート「岩井克人「欲望の貨幣論」を語る」(著:丸山俊一+NHK「欲望の資本主義」制作班 東洋経済新報社)

1.はじめに

本書はNHKで放送された内容を本にまとめたもののようです。なお本書の主役の岩井克人氏の「貨幣論」はまだ読んでいません。本書についてはちょっと記憶が薄いのですが何かの書評を見て気になっていたので読んでみました。先日読書ノートを書いた「MMT 現代貨幣理論とはなにか」(著:井上智洋 講談社選書メチエ)と対比すると面白いなと感じます。

2.本書の内容について

(1)貨幣はレヴェラーズだ

「貨幣はレヴェラーズだ」というカール・マルクスの言葉をもとに貨幣の持つ社会的両義性が示されます。「レヴェラーズ」とは「平等派」という意味で17世紀イギリスで起きた清教徒革命において法の下の平等を唱えた急進的政治グループのことだそうです。

1万円のおカネがあれは誰でも1万円のモノが買えるという意味で人はおカネの下に平等です。また1万円以内で好きなモノを買えるという意味で自由です。しかし100万円持っている人と比べれば1/100のモノしか買えない点で格差の根源でもあります。

(2)貨幣は貨幣であるから貨幣である

次に昔の金銀の貨幣についてさえも貨幣商品説が否定されます。

金貨や銀貨はほとんどの場合、金銀の含有率が低く抑えられていたのでおカネとしての価値がモノ自体としての価値を上回っているからです。(なお江戸時代の小判も改鋳の度に金の含有率が引き下げられても一両は一両として通用したようです。)

MMTでも国家が鋳造した貨幣は実物貨幣ではなく名目貨幣だとされていたのでこのくらいの話は現代の経済学の常識のようです。

次にMMTが依拠する貨幣法定説も誤りだと主張します。マリア・テレジアの肖像が打刻された銀貨がオーストリア支配地域を遠く離れても流通し、さらにはハプスブルク家滅亡後も流通していた事実を証拠として挙げています。エチオピアでは1970年代まで使われていたとのことです。

日本でも中世には宋銭が流通していました。これは私の感想ですが貨幣法定説を無前提に受け入れる人は現代式の1つの国に1つの中央銀行がある仕組みを無意識に前提にしてしまっている可能性があります。貨幣の歴史を見れば名の通った皇帝やら国の通貨を周辺地域でも使うことは良くあることで、それは貿易のためでもなければ品位が特別に優れているからでもなかったのです。

「貨幣の価値は社会が与える」とマルクスやカール・メンガーも言っていたそうです。この場合の社会とは国家との対比であり下からの承認なのです。

しかしながら社会が価値を与えるのは交換対象物という宿命を負った商品一般に共通の性質です。その意味でマルクスはやはり貨幣は商品だと言っています。

商品といっても素材の金属の価値という意味ではありません。商品の一般交換価値はモノ自体から導き出されるわけではなく社会が決めるものであるという意味において貨幣も貨幣以外の商品も本質は変わらないという意味です。

しかしそれでは貨幣と貨幣以外の商品の区別ができないので貨幣とは何かという問いの答えにはなりません。

例えば100円で缶コーヒーを買うとき自分がコーヒーを飲みたいから買うのです。しかし100円を受け取る方はその100円が他の人に対しても100円として使えると信じているから受け取るのです。自分が、ではなくて他の人が貨幣として受け取ってくれるから貨幣なのです。

「貨幣は貨幣であるから貨幣である」これが岩井氏の出した結論です。自己循環論法によって価値が支えられることこそが商品と異なる貨幣の本質なのです。

MMTではこうした考えを「ババ抜き貨幣論」と呼んでバカにしているようです。しかし岩井氏はむしろ貨幣はそれ自体は価値の低いババだからこそ流通するのだとそれを積極的に肯定するのです。逆に貨幣のモノとしての価値がおカネとしての価値より高かったら貨幣を受け取った人はモノとして使ってしまい貨幣は流通できません。

したがって貨幣が紙幣になったり、さらにはデジタル通貨になったりすることは貨幣の循環論法的性格からみるとむしろ好都合なことだというのです。

デジタル通貨というとビットコインが思い浮かびます。ビットコインは貨幣になれるのか。岩井氏の答えは否です。理由はビットコインが投機の対象となってしまったからです。

投機とは値上がりを期待するわけですからビットコインを買った人は値上がりを待つわけです。これではビットコインはババではなくなってしまいます。所有者がビットコイン自体の価値が高くなることを期待する限り貨幣として流通することができないのです。

デジタル通貨が貨幣になるためにはむしろそれ自体は無価値な純粋な数字になる必要があるのでしょう。

(3)貨幣の正体は「純粋な投機」

次にルイ15世時代のフランスの「中央銀行」の破綻事例が取り上げられます(現代の中央銀行とは似て非なるもののようです。)。この中央銀行を作り上げ、かつ投機バブルによって破綻させたお尋ね者ジョン・ローの逸話は大変興味深いです。この教訓から資本主義では効率性を追求すると安定性が損なわれると主張します。こうした考えを「不均衡動学」というそうです。

資本主義において効率性と安定性が二律背反するのは資本主義が「投機」に基づくシステムだからです。

新自由主義の総本山ミルトン・フリードマンは投機は市場を安定化すると主張します。投機とは安く買って高く売る行為なので投機参加者が十分合理的なら価格を平準化する効果があるというわけです。

他方、マクロ経済学の開祖ケインズは投機とは「美人コンテスト」だと言います。自分が美人コンテストに出るというわけではなく誰が美人コンテストで優勝するかを当てるゲームが投機だというのです。これは貨幣と同じ自己循環論法です。この場合、参加者が全員合理的であっても価格の安定化は保証されずむしろ特定の対象だけが根拠のない評判に基づいて高騰しかねないのです。

投機がバブルを生むのは参加者が合理的だからであり岩井氏はこれを「合理性の逆説」と呼んでいます。

しかしここで自己循環論法が投機を生むことを考えると実は貨幣自体が投機なのではないか。岩井氏は貨幣は「純粋な投機」だと言います。

私たちが貨幣を貨幣として受け取るとき、貨幣が将来も貨幣であることに賭けているのです。これはビットコインの商品価値の値上がり期待のような投機とは全く違いますがやはり投機なのです。純粋な投機とはそういう意味です。

お金の価値が高まるデフレは貨幣のバブルであり、逆にハイパーインフレは貨幣のバブル崩壊だといいます。これは貨幣を追い求める我々ひとりひとりの行動が合理的であっても貨幣の価値を安定させることができないことを意味していると思います。

「銀行の中の銀行」「最後の貸し手」となる(フランスの破綻したやつではない)中央銀行がイギリスで誕生したのは資本主義経済が持つ本質的な不安定性をコントロールするためです。

考えてみれば現代の中央銀行システムは中央集権的かつ統制的なシステムであって自由放任とは正反対のシロモノです。資本主義経済は自分自身では安定性を確保できないので外在的なシステムを重しとして必要とするのでしょう。

(4)アリストテレス、欲望の資本主義を語る

古代ギリシアの哲学者アリストテレスは貨幣は一般的交換手段となる「中間物(媒介物)」だが人々が貨幣自体を目的とするようになると「貨幣が交換の出発点であり、終極目的である」状態になると言ったそうです。

そうなる理由は「貨幣を持っていけば、もし何かの必要が生じた時はそれが手に入る」からです。貨幣とはあらゆるモノと交換できる「可能性」です。

モノに対する欲望はそれが手に入れば満たされますが「可能性」に対する欲望は満たされることがありません。「無限の欲望」にとらわれた者は交換手段であったはずの貨幣の「無限の増殖」を求めるようになります。

アリストテレスはこれを「商人術」と呼んでいたそうですがこれは欲望の資本主義そのものです。

アリストテレスにとって無限の欲望は自足を知らないがゆえに不善でした。ポリス(共同体)の中から必要とされ誕生したはずの貨幣がポリスを崩壊に導く可能性を警告したそうです。

岩井氏はこれをグローバル資本主義が社会を壊しかけている現代に重ね、本編の幕を閉じます。

3.雑感

新自由主義とMMTは対立しているようでどこか似ています。

共通しているのは人間の合理性が資本主義システムの安定を導くと信じていることです。システムはおおむね安定しているが一部に欠陥があるのでそこに簡潔明瞭で非裁量的なルールを適用すれば見通しが良くなって全てが上手く行くと考えます。

例えば効率的市場仮説に立って市場は安定的だから中央銀行が貨幣供給をコントロールしさえすれば上手くいくと考えるのがマネタリズムなら、貨幣法定説と内生的貨幣供給理論に立って貨幣は安定的だから雇用保障プログラムによって失業をコントロールしさえすれば上手くいくと考えるのがMMTなのでしょう。

一見主張が正反対でも合理性が安定性を導くと信じ、非裁量的ルールで問題を解決できると信じる点でネオリベとMMTは世界観が共通しているのです。

他方、資本主義を生み出したのは貨幣であり貨幣=資本主義は本質的に不安定とみるのが不均衡動学の立場なのだろうと思います。ケインズは貨幣需要には取引的動機と投機的動機に加え、貨幣をいつでも使えるように準備しておく動機もあると言っていたそうです。

「美人コンテスト」当てゲームに勝つ機会を探し求める人々が集まれば、勝負時でないと思えばアリストテレスのいう「可能性」を保持しておこうとする動機が膨らんだり、または今が勝負時とばかりに一斉に勝ち馬に乗ろうとする行動をとることは個人の立場では合理的であっても貨幣需要を安定化できるとは限らないのです。

合理性の逆説により安定と不安定の間を揺れ動くのが貨幣と資本主義の本性なのであれば新自由主義を推し進めてもMMTに切り替えたとしても取り返しのつかない崩壊に至る可能性は否定できないでしょう。

資本主義は産業革命による近代化によって生まれたと考えられがちですが古代ギリシアの哲学者アリストテレスが欲望の資本主義の本質を見抜いていたように貨幣があれば資本主義的なものは発生し得るのでしょう。そして生産技術の進歩は貨幣経済=商品経済がどの程度世界を覆うのかに影響するのでしょう。

貨幣のレヴェラーズとしての性格と貨幣の無限の増殖を求める欲望が合わさると匿名的個人主義と格差の拡大により共同体は崩れていきます。今や資本主義は世界を覆っています。匿名的個人主義社会の中から現れた暴走する合理性の怪物が新自由主義とMMTなのかもしれません。

岩井氏の見方では資本主義が純化すると不安定性は増幅します。この状況に岩井氏はカント的倫理で対抗しようと言っているようですが果たして上手くいくのでしょうか。

倫理も重要だと思いますがジョン・ローの逸話をみると資本主義の不安定性と付き合っていくために必要なのは変化に適応するための創造的な対応なのではないかと思います。

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