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私のいろんな考察

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私の考察をまとめた作品集です
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#日記

ある日の夢「自分ではないモノの交換」

ある日の夢「自分ではないモノの交換」

この前の「エーテル体の交換」の続きのような夢だった。誰だか分からないが、誰かが「君はエーテル体の交換時期と話していたが、それにきまった時期は無いよ」と話しかけてきた。

その誰かが言うには、エーテル体はいつだって交換可能で、人はエーテル体が感じ取ったものを、それこそ夢の中で「嫌な視線」が「矢」に変わるように転換する事でエーテル体が受け取った感覚を手放す事ができるらしい。

人は何かを感じた時点で、

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「月一回ペースの痛み」
季節が急激に変化するごとに痛む
まるで地球のジェットコースターに乗っている気分だ
急激に地球がカーブするとき、私の体が悲鳴を上げる
ここまでの頻度はこの15年間無かった気がする・・・

ある日の夢「(考察)」

ある日の夢「(考察)」

虫が出てくる夢を見た。
ああ、暖かくなってきたのだなと思う。

(考察)虫に関する夢を夢占いなんかで調べると本当にいろんな言葉(大抵はネガティブな事で一部ポジティブな事)が出てくるが、それ以前に私の場合は”暖かくなってくる”と夢に虫が現れる。哲学者のジャック・ラカンは「精神分析の四基本概念」の中でカウンセラーと患者の間で起こる「転移」(お互いに自分の中の何かを相手に映してしまう精神状態の変化の事)

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新たな自分を「待ち構える」

新たな自分を「待ち構える」

以前「どうして画家でも何でもないのに、変な絵を毎日描いているの?」と言われたことがある。その時は「描きたいから」としか答えなかったが、やっともう少しマシな答えが伝えられるようになった。

それは「たまに、自分でもびっくりするような絵が生まれるから」だ。

村上春樹はよく演奏会に行くらしい。音楽のジャンルは知らないけれど、そこで10回に1回くらいの割合で「魂が喜ぶ演奏に出会う」といったような話をして

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ユダヤ教にとってタルムード(聖典)が
「すべて思考されている」完全なテキストであるように

占星術にとってサビアンシンボルは
完全なテキストであると言えるのではないだろうか

しかし残念に思うのは
サビアンシンボルについて常にその思考を紐解いていく
ラビの存在が少なすぎることだ

一晩中生まれる断続的な痛み
朦朧とした意識の間にまに
数限りない夢をみる

しかし覚えたての夢は
次なる痛みの波にかき消され
残るは茫洋とした存在としての私

出生図でDCにある天体は
その周期の長さに比例して
鏡としての役割を果たす

つまりそこに月があるなら
自分自身を見つめる鏡として
月の周期である28日間程度の
時間耐え抜く強度をもった内容がちょうどいい
つまり仮に天王星があるなら
80年程度の時間を耐え抜く内容がちょうどいい

「夢は」

夢は海の波のように
寝ているあいだ私を飲み込む
夢は芳醇な竜宮城

しかしひとたび目覚めると
夢はあっという間に去っていく
波が海たちが遠くへ返すように

そんな時 私はかろうじて 
その肌に残った水滴を
夢見ているに過ぎないのだろう

「樹木希林さんを見て」
ルール無視のボードゲームを楽しめる人は達人だと思う

それはルール無視の相手を”許容する”のとも
ちょっとちがう

それは元のルールを超えた別のルールを作るのとも
ちょっとちがう

「一対一の話が好き」

「一対一の話が好き」

私は一対一で話すのが好きだ
それは人の思考や感情は波紋のように
その人を中心に広がるからだ

一対一の時私は占星術という
構造を模したものをきっかけに
相手の波紋を読み取る

私のもつ波紋との相性がよければ
本人さえ気が付いてない波を聞き取れるのだろう
しかしそこに三人目以上いた場合は除く

同空間において三人目の持つ波紋は
その人の出生図を解析している時でなくとも
やはり発生していて 時には本人

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「最後に私という作品が残る」
全ての作品は私という内部から出る膿や垢である
その発言も行動も思考さえも
運命の光が私の内部を駆け巡り
私の中に溜まった澱を
どうしようもない衝動を伴って排出させる
だから生み出したものに価値はまったく無い
価値は最後に残った「私」という作品にある

「芸術人類学」
人類にとって最も偉大な芸術は?と聞かれれば、私は「宗教」と答えるだろう。

「ライプニッツの数学的思考と結び目と可逆性」
ライプニッツの考えのように
人は各々が世界の結び目として存在し
お互いに可逆的なコミュニケーションをとる
まるで世界は人という星空を写し取った多面体であるように
しかし奇しくもそれは
ミヒャエル・エンデが否定したものだとしても

「スピリチュアル系に思う」
吉本ばななさんとプリミ恥部という方の対談
話している内容は華厳経の考えと似ていてよくわかる
ただ文章で伝えるには『くどさ』がある
多分スピリチュアル系は体験が主軸で
元々人間も持っている「言葉になる前のコミュニケーション」的
個人的体験が必要なのだろう