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【映画感想文】子から母親になるということへの重み【映画・母性】

※サムネイル画像は公式ページより一部抜粋したものです。

はじめに

 2022年にて劇場公開された湊かなえ氏原作の映画「母性」ですが、個人的にこの作品は、湊かなえ氏のインタビューを見てとても興味を持たされました。
 それが下記のような「コレが書けたら作家をやめていい」というような言葉が出るほど、この「母性」というテーマについて語っています。

NHKクローズアップ現代 作家・湊かなえさんが考える「母性」と現代の母親の「後悔」より

 私自身本作には、「母性」ということに対して同じようにテーマ化して作品を作ってみたいと感じることが多々あり、気にはなっていたのですが、Netflixにて本作が登場した事をきっかけに、本作を拝見することになりました。

 「母」とはなにか、「親」とはなにか。日常的に生きているだけではそこまでの考えに至らない部分に対しての問いかけをもたらす本作ですが、僭越ながら私個人が考えたことについて、つらつらと記述させていただきます。

 今回も、前半と後半で「ネタバレなし」と「ネタバレあり」で分けて考えさせていただきます。その前に、本作についてざっくりとした概要を、公式ホームページからご紹介させていただきます。

【ネタバレなし】第1章:信頼できない語り手から展開される「対話」

1.叙述トリックの映画的表現

 本作は「母親」と「娘」と「考察する第三者」という3つの視点から進んでいきます。それぞれの視点から、同じ時間軸を辿っていくというものなのですが、それぞれの視点を見るからこそ、受け手はこの作品の出来事を最も深く理解出来るようになります。

 しかし、この「多方面から視点を見る」ということは、「如何に不自然なことを主張しているのか」という印象へと変わっていきます。キャラクターの話している内容が、「本当に事実であるか?」という疑問符を投げかけることになります。

 実はこのような「語り手が信用することが出来ない存在である」というものを意図的に作る手法があり、それが「信頼できない語り手」という叙述トリックの一つです。
 作品において最も読者から信用されるのは「語り手」になります。小説などではことさらこの傾向が強くなり、文字だけの情報の中で「語り」を入れることで、具体性を持って作品を伝えてきます。

 にも関わらず、「信頼できない語り手」は、その最も信用される人物を「状況的に信頼出来ない状態にする」ということで、どんでん返しに繋げたり、テーマ性を伝えるなどの技法になります。

 これは元々「小説」などの領分の技法であるため、これを映像に落とし込むのは至難の業です。その難題に対してこの映画は「あえて短いスパンで対比させる」ということで、この「信頼できない語り手」という違和感を表現しています。

 本作は前述の通り、一つのセグメントを「母視点→娘視点→考察者視点」という流れを持って形成されています。
 これは、「主観→ニュートラル→客観」という視点の距離も同時に表現していると感じました。のめり込んでいたところから、一度平静に戻り、そして客観的に考えを巡らせ、本作の「田所家」を俯瞰して受け手は見ることになります。

 本来であれば映像で表現しづらい叙述トリックの映画的表現として、このようなことがされているわけです。

2.視点移行が見せる「盤外の関わり」

 本作の主テーマとなる「母娘」の関係ですが、作中では物語の一つの筋として、キャラクター同士が関わり合います。

 母親にべったりの「娘を愛せない母親」であるルミ子と、そんな母の元で育つ「母親に愛されたい娘」である清佳。ふたりを取り巻く環境と、歪な親子関係によって進展していく物語は、現実とは一風変わったものでありながら「親になることの大変さ」を多くの人に考えさせる重要な命題になります。

 物語において、ルミ子と清佳の関係は「母娘」と呼ぶにはあまりにも不気味です。ルミ子は母親や義母に対して病的なほどに自らを犠牲にし、更にはその努力を「娘のせいで評価されない」とすら考えるほど過激で偏った考え方をしています。
 一方の清佳は、写実的とは到底言い難いほど、学生にしては冷静に現実を客観視しており、それでいて「母から認められたい」という気持ちをのぞかせます。
 作中においてふたりの関係性は沢山語られるのですが、一方で人間ドラマにおいて「ありのままの自分で語り合う」ということは非常にハードルが高いものです。

 それを本作では「信頼できない語り手」という非映像的表現に加えて、「作品外でキャラクターの擬似的な会話をさせる」という表現にも通じています。
 物語のなかで、ルミ子と清佳はしっかりと関わりを持っている傍ら、お互いの感情のすれ違いのままに振る舞っています。物語最終盤までにおいてもそれは変わらず、解釈によっては最後まで和解することはありませんでした。

 その微妙な関係性の不和を「モノローグによる盤外の関わり」を表現していると言えています。

【ネタバレなし】第2章:母娘の「関係」という不可侵領域

1.母性から語られる社会への疑問符

 本作のテーマは表題の「母性」とあるように、歪な親子関係が本作で語られています。
 それは裏を返すと「母娘」という唯一無二の関係性について踏み込む物語になります。

 この物語で語られる母娘関係は決して一般的なものではないながら、「母娘だから〇〇」という社会的な抑圧に対しての問いかけでもあります。
 多くの創作物において、「親子関係」というものはむしろ美談的に語られるものなのですが、それに対して真っ向から疑問をぶつけるものがこの物語の異質さです。

 本作の語り手の一人であるルミ子は、この作品に触れた多くの人達が「気持ち悪さ」を抱くことでしょう。
 自らの母親に心酔し、婚約相手すら「母親のためだから」と決め、妊娠に対して異様な恐怖を感じ、挙句の果てに娘と祖母の間に割り込んで自らの母親と手をつなぐそのさまは、到底世間が望むような「母親」から、大きくかけ離れている存在です。

 ですがそれは、本当にルミ子自身が異質な存在なのでしょうか? そもそも「母娘」という関係性に対して踏み込んで理解できる人間がどれくらいいるのでしょうか?
 親子関係というものは社会規範から「あるべき」という認識が強く、そこに対してここまでストレートな疑問をぶつけられる事は少ないでしょう。

 だからこそあえて、この作品はそのストレートな疑問符を、語り手を分散させるというやり方で、比較的客観的に物語に落とし込んでいます。
 ある程度客観的にキャラクターたちを見ることが出来るゆえ、本作ではこのテーマに則って物語を見ることが出来ます。

2.他者の触れることの出来ない「母娘」という関係性

 本作の扱う人間性の中で「母娘」というものはテーマではあるのですが、この人間関係は基本的に「禁忌」であるといえます。家庭のなかはまさにブラックボックスです。

 作中では複数の親子関係が描かれています。最初はルミ子とその母親、次にルミ子と清佳、そしてルミ子の義実家になる田所家の歪な親子関係。
 恐らくそれらは全く持って別々の母娘、家族を見ることになります。その中心人物となるルミ子は、彼女自身特殊な親子関係を経験し、その度に歪な母親への執着を持っていきます。

 この決して触れることが出来ない関係性を作品の中で扱うには難しいものがあります。
 親子関係というものはそれぞれで異なるものです。それこそ千差万別の関係性がありながら、その前提として「親は子を守るもの」として記述されます。

 この映画ではその根底を揺るがした上で、「客観的な考察者」のキャラクターをもたせることで、受け手と近い視線での代弁者がいることでこの複雑で禁域的な物語に一定の筋を持たせています。
 加えてこの物語における「客観的な考察者」は、それらの親子関係とかなり近い位置にいるからこその説得力を持つようになります。

 この「客観的な考察者」がいることで、この奇怪な親子関係のを探っていく探求者的なポジションに読み手を落とし込んでいきます。

 これこそがこの物語の精緻なところであり、親子関係という一見では他人事のように捉えてしまうような立場であっても、第三者的な視点からの冷静な考察を受け手が出来るようにしています。

【ネタバレなし】第3章:「母性」を焦点化した物語

1.「母性」への問いかけから始まる物語

 作品冒頭から、「女子高生の自殺」というセンシティブな出来事より端を発し、「その家族関係はどうか?」や「親は?」などという語りから物語が始まります。
 非常に危機的な話となるのですが、そこから物語は少しずつ回り始めます。

 一見すれば「母性」からは程遠いと思わせるスターティングになりますが、冒頭から推測できる一つの可能性として「子どもが自殺する」という結果は、親子関係の一つの終着地点であると解釈する事もできます。
 本来であれば子どもというものは、親から少しずつ学び得ていき、最終的には巣立っていくものです。それが「自殺」という結末に行き着いてしまうのは、その親子関係二何かしら異質なものが存在していることを意味しています。

 この作品もまた、そのような異質な親子関係から、「母性」を問いかけています。
 「母性は必要なのか?」「子どもを育てるというのはどういうことなのか?」それらの問いかけを一連の物語で受け手は考えることになります。

 それはつまり、「自分自身が抱いている母性への捉え」への理解であると言えます。
 人は皆、どういう状況であれ色々な親子関係を経て成長していきます。そこから我々は「母性というものはこういうものだ」という固定観念が生じます。

 この作品はその固定観念に一石を投じる物語であるるとも言えます。なぜならこの作品自体、ルミ子という「異常な母親」は「愛しい娘」という側面もまたあるからです。
 親子関係の中でも、一つ立場を逆転するだけでここまで変化が生じる、それこそがこの物語が「母性」を考えさせる上でとても重要な要素になるのです。

2.焦点化される母子

 この物語において、一つ面白い性質として「男性の存在が徹底的に排除されている」という部分です。
 実際の親子関係においても、「母親」と「父親」がいるのですが、一方で子どもにおいてその重要性は明らかに異なっていると言われています。科学的な考察においても、「母親と父親においてどちらが子どもにとって重要であるか」というものはしばしば議論になります。

 その中でも色々なところで「母親」の重要性が高い可能性があるそうです。実際のところはもちろんわからないのですが、この作品では明確に「母親の重要性」が強調されています。
 物語において、男性の存在というものは極めて薄いことはよく分かるでしょう。主要人物であるルミ子と清佳はもちろん、その母親たち、家族に至るまで物語は「女性」で埋め尽くされています。例外的な存在がルミ子の夫であり、清佳の父哲史ですが、このキャラクターも序盤において「母親のことを想うルミ子」という部分が強調されているため、その存在は非常に薄いです。

 それ以外の男性は、清佳の人間関係でぽつりぽつりと登場しますが、それでも密な関わりを見せるのは乏しいです。この人物は後半において重要な役割になってくるのですが、「母性」というテーマからは明らかに乖離するものとなります。
 あくまでも母娘の関係性において、「男性」というものは完全に蚊帳の外である事を示しています。

 これはあくまでも「男性」という存在が子どもに与える影響が限りなく薄いことでもあります。元にルミ子の娘である清佳は、父の存在に対してさほどの頓着を持たないように表現されています。
 これは明らかに「母」と「子」に強く焦点化されている物語であると考えることも出来ます。

 母と子どもというものは非常に特別な存在です。
 母は自らの体内に子どもを宿し、子どもは親の庇護下で成長していき、最終的に巣を立っていきます。ここまでのやり取りの中で、我々はあまりにも身近であり、意識することも極めて少ないです。

 と言うより、親子を意識するうえで、多くの創作物では他の情報が多すぎます。創作には色々な要素がありますが、親子関係を代表的に記述する創作物は非常に多くあります。
 しかしそこには色々な要素が多く混ざり込んでいき、純粋な「親子関係」というテーマを記述する物語は存外に少ないと考えています。

 故にこの明確に焦点化された母子の関係がこの物語の重要な要素であり、核となってくる部分です。
 この作品は「ルミ子の異常な母親への愛情と娘に対しての軽薄さ」というものが目立つのですが、この物語における核は変わりなく「焦点化された親子関係」です。


【ネタバレあり】第4章:「母性」とはなにか

 此処から先、物語後半の展開やラストシーンについての言及が含みます。必ず作品を視聴の上、お読みくださいますようお願いします。





1.「母性」を求めるルミ子と清佳

 本作の主要人物であるルミ子と清佳は、その異常な親子関係のなかでお互いの人生を歩んでいくことになります。

 ルミ子は自らの母親を愛するがあまり娘に対して憎悪を重ねながらも、義実家で別の母親に尽くし始めていきます。
 清佳はというと、そんな母親に対して振り返ってもらいたくて様々な努力をするとともに、自らも過渡期を通して大人になっていきます。

 この二人に共通しているのは「母性を求めていること」です。
 ここで注目するべきは、母性には「親として娘に注がれるもの(親としての母性)」という意味の他に「娘として母親に対して求めているもの(娘としての母性)」とも表現することが出来ます。この意味であれば、ルミ子と清佳どちらにも母性が存在し、どちらからも「母性」という言葉で語ることが出来るようになります。
 これは母性の方向性として表現する事ができるかもしれません。そういった意味で、ルミ子と清佳はそれぞれ異なる方向への母性を求めているわけです。

 面白いことに母親であるルミ子は「娘としての母性」を求めており、幼い寄与かもまた同じく「娘としての母性」を求めていることです。

 一般的な物語や常識で考えれば、母親というものは子どもが生まれた瞬間から「娘としての母性」から「親としての母性」に変わるものだと考えていますし、そういう考え方もできるでしょう。

 しかしルミ子はそうではありませんでした。優しい母親に対して過剰なほどに愛を向け、自らの娘を押しのけてまで母親に対しての想いを見せていました。不気味なことにルミ子は、自らの母親から教えられた「親としての母性」を忠実に清佳へと注いでいたことです。これは明らかに「母親として振る舞おう」という努力であると同時に、それは物語冒頭であった「母親が気にいた絵画の作者と親密な関係になる」という動機づけに近しいものがあります。

 つまりこれは、ルミ子が持っている「娘としての母性」が明らかに他とは逸脱した感情であり、「母親に対しての依存」であるということを明確にしたものです。
 更にこの作品では、「親子というものはこのような異質な依存性がある」という事を意図的に語っているところにあります。

 この物語は前半においてルミ子と清佳の異質な幼少期が描かれるのですが、そこから「ルミ子の母の死」という物語の転換期を経てから、舞台はルミ子の夫である哲史の実家へ移行します。
 ルミ子はここで「義実家」という特殊な環境でありながら、そこで身を粉にして義母に尽くす様が描かれています。この義母は、ルミ子の友人であり哲史のことを古くから知る仁美から「厄介者」として表現されており、その事を聞いていたルミ子は、清佳に対して過剰な尊重をするように教育していました。
 それは舞台が義実家に移ってからかも変わることがなく、ルミ子は義母どれだけ蔑まれ、嫌味を言われても必死に義実家のために尽くし続けました。娘の清佳がそのことに苦言を呈すれば、ルミ子はというと「私の努力が認められないのはお前のせいだ」という異常な言葉まで吐き捨てるほどに、ルミ子は義実家に身を捧げる様子が見られます。

 これは行動こそ違えど、裏を返すと「母親への依存」と表現するにふさわしいことです。ルミ子は作中にて「お嬢様」と表現されるように、ほとんど母親と離れたことがない箱入り娘とされています。それは、「母親から離れることが出来ない依存状態である」と言い換えることも出来るわけです。
 そしてまた、そんなルミ子の振る舞いを見続けて、かばい続ける様は「自分もまた母に依存したかったのかもしれない」という本質的な疑問に迷っているかのようでもあります。

 ルミ子は確かに「娘としての母性」を求めていました。娘として自分のことを見てもらいたい、母親さえいれば良い、過剰な言い方をすればそのような意味にすらなりうるでしょう。
 一方の清佳もまた、同じ「娘としての母性」を求めていました。しかし清佳に与えられたのは、母親からの言いつけを受けてルミ子が与えてきた「仮の母性」でした。本物の母性を与えられて、それに陶酔しがんじがらめになっていたルミ子が与える仮初めの愛情は、清佳には不十分のものであったことは間違いないでしょう。

 だからこそ清佳は一切の遊びがありませんでした。本当の愛情が存在しない彼女にとって、「遊ぶ」という心の余裕がありません。常に正しいことを求められ、「ルミ子が母親として振る舞うことが出来る程度の子ども」を要求され続けた清佳に、余裕がなかったのは当然の話です。
 そんな中で清佳は、自らで折り合いをつけつつも、独自的な成長を続けていきます。清佳はそうやって自らの中に少しずつ、自分で「母性」を作り出していくさまが見て取れるようになります。

 お互いに同じ「娘としての母性」を求めていたはずなのに、ルミ子と清佳は少しずつズレていくことになります。

2.「母を目指した清佳」と「母になれなかったルミ子」の対比

 この物語におけるルミ子と清佳は、親子でありながら明確な対比として描写されています。

 この作品におけるふたりの対比は、単純なキャラクターとしての対比だけではなく、「母」と「娘」という役割の対比でもあります。
 本作は「母性」をテーマにした作品であり、ルミ子と清佳の歪んだ親子関係から紐解いていくという形式を取っています。そのための一つの手段として「対比させる」というものがあるのですが、面白いのは「母と娘の役割」そのものを対比させることです。

 ルミ子と清佳はキャラクターとして「女性」という共通点が存在しています。この物語における「女性」というものは、「母」であり「娘」でもある存在ということで非常に意味合いが深いものがあると考えられます。
 面白いのは女性というものは、「娘」から「母親」になると考えられており、この物語においてそれはしばしば繰り返し表現されています。

 ルミ子の母は死ぬ間際に「貴方はもう母親なの、子どもを取らなくてはいけないの」とルミ子へ伝えます。ルミ子はこの時、自らの母親か娘かの二者択一を迫られます。ルミ子の母は「ルミ子が自分のことを選んでしまう」と理解し、自ら命を絶つことになります。
 それは「貴方は今まで娘だったけれど、子どもが出来たからには母親にならなければならない」ということを表現していると解釈することが出来ます。
 これ以外にも、作中における辞書的な「母性」の意味について考えるセグメントがあり、それを提起していたのは大人になった清佳であることが話されています。そこで清佳が自分自身の考える「母性」を語る時なども、この婉曲的な表現であるとも考えることが出来ます。

 ルミ子は「母親として振る舞いながらも本質的には娘」として語られています。
 では清佳はどうでしょうか。女性として、娘としての共通点を持っている清佳は本作の中でどのように語られていたでしょうか。

 清佳は「娘として母親を求めている」という非常にシンプルなキャラクターであると言えます。しかしながらその親子の関係性は到底シンプルとは言えず、歪で不可思議な間柄が見て取れます。そこには一貫して「娘としての母親を求めている」という部分があり、葛藤しながら物語を勧めていくこととなります。
 ルミ子に対して清佳は徹底的な対比として描かれているような印象があり、かつ同じようなところを目指しているというところが面白いところです。

 本作は清佳の「娘としての成長」を経て、「母になるのか?」それとも「娘のままでいるか?」という選択をしていくことになります。これこそが本作の最大の対比であり、ルミ子と清佳の人生の歩み方が強烈に比較されています。

 ルミ子は人生のほとんどを「母親のために」使っていました。一方で清佳は「娘として母親のことを求める傍ら、母に認められようと振る舞う」ように過ごしており、この全く異なる人生の過ごし方こそが、ふたりを明確に分けていると考えることができます。

3.「殺意」から「母親」へ歩むルミ子

 本作の最大の謎であり、考察点でもあるシーンが最終盤におけるルミ子が自らの娘である清佳の首元に迫る場面です。これは率直に殺意を持って手にかけたのか、また別の目的があったのか、描写的には曖昧なところがあります。

 しかしながら、このシーンにおける前後を考えると、「ルミ子は明らかに清佳に殺意を持っていた」と考えるのが無難でしょう。祖母の死について知ってしまった清佳がルミ子にそのことを詰め寄ったことで、当時の出来事が頭に浮かんだルミ子は、清佳の首元に手をやります。
 結果的に、清佳はそこから逃れているわけですが、この描写は少し曖昧に描かれています。

 首を絞めるという行動は、たしかに明確な殺意があったのかもしれませんが、その割にはあっさりと殺意を諦めて呆然と立ち尽くしていました。この曖昧な感情はルミ子にしかわからないところがありますが、彼女に本当の殺意があったのかは疑わしいところがあります。

 確かに一抹の感情はあったかもしれません。だからこそ、ルミ子は清佳の首元に手をやったわけなのですが、その時の独特な表情はむしろ「気づき」すら思わせることになります。
 ルミ子は娘に手をかけた時点で、かすかな感覚を抱いたのでしょう。そのように思わせる逡巡が見せられ、良くも悪くもルミ子が初めて「娘」に気を向けた瞬間だったのかもしれません。

 結論から言いますと、ルミ子は母性を手に入れることはありませんでした。ラストの部分を見るにしても、義母のことを献身的に世話をしている彼女はまさに「母の面倒を見る健気な娘」に見えます。
 ですがその手前の「気にかけていた描写」は、「殺意」という行動からルミ子が「母親」に足がかりとなった可能性はあるのかもしれません。

 ではどうして「殺意が母性に繋がった」という考えが出てきたのでしょう。
 これを考えるためには「殺意を向けるきっかけになった出来事」まで遡ることになります。ルミ子は過去の火災において、実母か娘かという大きな二者択一を強いられることになります。
 その結果、ルミ子は実母を選ぼうとし、それに反発したルミ子の母は自らの死を選択し、強制的に娘を選ばせる事となりました。

 殺意を抱かされるまでに至ったその出来事。
 その出来事は「命のやり取り」という部分で共通しており、ルミ子は「命を奪う」というものを擬似的に表現していると考えることもできます。
 あの出来事において、ルミ子は擬似的に実母の命を奪うことになりました。清佳の命すらもなげうって助けようとした母が、自らの選択によって最悪の決断をくださせてしまったことは、ルミ子にとって「殺人」にすら近い出来事だったかもしれません。

 同時に清佳の首元に手をやったとき、「自らの選択で命を奪う」ということです。この時、「孫を守るために命を捨てた母親」と、「守られた清佳を殺す」という部分で、「母の命で繋がれた清佳の命をルミ子が奪う」という解釈になり、「巡り巡ってルミ子自身が母の命を奪ってしまうのではないか」という疑問に結びついた可能性はないでしょうか。
 このような解釈に至った場合、ルミ子が清佳のことを殺し切れなかった事実にも合点がいきます。またその後の感傷的な演出も、「母が守った命」という自覚がかすかにも生じたように見えます。

 しかし結果として、その感情は焚き付けられたのみであり、篝火にも満たない程度の光で消えてしまいました。それが描写されたのが、ラストシーン付近におけるルミ子の描写です。
 義母のことを献身的に見やる娘としての役割が、ルミ子にかすかな「母親としての自覚」をかき消してしまったため、ルミ子は結局最後まで「娘としての役割」に徹することになった、そうやって解釈する方法もあるのかもしれません。


【ネタバレあり】第5章:逆転する「母娘」

1.清佳は「母性」を持っているのか

 本作においての難題は、語り手の一人となっている「清佳」が母性を持っているかということです。
 ラストシーンではいかにも清佳が母性を持っているかのように振る舞っていましたが、彼女が母性を持っているのかという疑問については精査していく必要があると考えています。

 清佳にとっても、ルミ子との幼少時代は異常だったため、彼女に「母性」があるのかという部分は清佳自身が悩んでいます。また彼女は、クラスの同級生や職場の先輩「遊びがない」としてその性格を指摘されています。
 更に清佳は物語のラストシーンにまで「自分に母性はあるのか、どちらなのか」と疑問を抱き続けていました。

 筆者は清佳に母性があるかという議論に対して、「断定はできないが母性を持っている可能性がある」として考えています。
 これは清佳が、「家族以外の他人から、母性について肯定されるシーンがあるから」です。清佳は同級生であるボーイフレンドから、清佳自身の変化について言及されています。
 これは清佳のみであり、家族以外のある程度フラットな視点から人物を描写されていることになります。このため、人物像がある程度客観的かつ信用に値する描写がなされているというものが清佳という人物になります。

 しかしながら清佳にも、ルミ子と同様に純粋な娘として見ることができない懸念点があります。
 清佳は最終盤において、母親に絶望したのか首吊りを決行するシーンがあります。これは結果、ロープが切れてしまって失敗に終わるのですが、これは「母親の気を引かせようとしてあえてこんなことをした」と解釈することもできます。

 これはかなり歪んだ見方かもしれませんが、清佳の境遇とルミ子の異常な「母」という存在に対しての執着を考えれば、このような行動をしても仕方がないのかもしれません。
 そうなれば頑強なロープが切れたことも納得ができますし、ルミ子の一瞬の表情の変化からこのようなことを考えたと捉えることもできます。

 清佳が打算によって母の気をひこうとしたとするなら、彼女もまた「娘」であろうとしたことがわかります。
 だからこそ、筆者が「可能性がある」というだけに留めたわけですが、今回はあくまでもそのような邪推じみたものではなく、順当な考え方をしていきます。

 というのも、本作は小説作品を原作としています。このような「曖昧な人物描写」は信用できない語り手として手法化されているように、「清佳が母性を持っていたかいなかったか」という命題への答えを曖昧にすることが、小説特有の手法であると言えます。
 そんな原作小説をうまく映像化していることが映画作品として良い方向に進んでいるわけですが、映像化にあたって本来曖昧に描写されていたところが明瞭になったことが違和感に繋がっていると思われます。

 このため映画的な表現により「清佳の娘像が明瞭になった」と解釈するべきでしょう。本作は原作とは異なるディテールで描かれていると考えるのが妥当であると筆者は考えています。

2.大人に進む清佳と娘に戻ったルミ子

 ラストシーンでは清佳が「母性を持っているか」ということを示唆するシーンで終わりますが、その前後において未来のルミ子が描かれています。

 ルミ子は義母のことを献身的に支え続け、まさに「理想の娘」としての役割を手に入れることができました。ルミ子は一度、清佳と向き合うことを強いられました。それこそが清佳の自殺未遂であり、奇しくもルミ子の異常な娘への執着心が、欠片でも薄れることなったわけです。

 対して清佳はロープが切れてしまったことで、生存することができ、これによって母子の関係が隔たれることとなります。
 この作品はルミ子と清佳の対比が定期的に描かれているのですが、ここで決定的はふたりの対立が描かれているように思われます。

 ルミ子は結局、「娘」としての役割に終始する事になり、一方の清佳はそんな母を乗り越えたように大人へと歩んでいきました。勿論その歩みは決して平坦ではないのですが、それでも「大人として先に進むことが出来た」と解釈する事はできるでしょう。

 作中において結果的に語られることはなかったのですが、これから先の清佳は、「自身と母が逆転した」ような感覚に囚われていくのかもしれません。
 確実ではありませんが、母性を持った清佳は子どもが出来、母となる過程を歩むのだとすれば、少しずつ母親が持っていた「娘としての自分」に対して異常さを際立って理解することになります。その時こそ、清佳とルミ子が完全に逆転した瞬間になるのかもしれません。

3.「母性」は「人としての性質」か「役割」か

 ルミ子と清佳の立場的な逆転については、見方として非常にシンプルなのですが、そこを二元論的に考えてどちらが良いかとするのかはまた別の話です。

 本作における「母性」への問いかけは、それそのものが「どちらが良いか」というような単純なものではないことがわかります。問題の良し悪しというものは、何かに対しての命題が存在して初めて良し悪しが決まるわけですから、二元的な考え方は難しいところがあります。

 そのため、「母性を持っているいないことが悪い」ということではなく、そこに対して一定の命題として本作が問おうとしたものを考えるところから始まります。

 本作で度々語られている「母性は人間が最初から持っているか」という話こそが、今作が問おうとした命題なのではないかと筆者は捉えています。

 母性は「人としての本能」なのか「社会的な役割」なのか、果たしてどちらなのか。
 この問いかけに対して、少なくとも本作においては明言されていないように思えます。あえて答えを出そうとするのなら、作中でいくらでも語られるはずです。
 この作品ではあえて「答えを出さないようにする」ということだけで、母性に対しての本来抱えづらい猜疑心や、疑問符を向けさせるための物語運びをされているように抱かされます。

 本作を踏まえて、母性は「本能的な側面と社会的役割の統合性の結果」であると考えます。
 難し言い方をしましたが、折衷案のようなもので、本能として合わせ持っている母性的な要素を持っていたとして、それが社会的な役割を混ぜ込まれていくことで「母性」として確立する、という考え方です。

 人間の発達過程において、「娘」である時間を経て、一人の大人になっていき、子どもを生むことで「母」になります。その過程は単純ではありません。

 「娘」であるときは、基本的に庇護を受けて過ごします。子どもにとって親はまさに全てであり、そこから愛され、大人になるまでの時間を過ごします。子どもにとってはそれは「保護され育てられることを目的」にしているのですが、同時に社会性を学んでいくことになります。
 この時の人間というものは、殆どの場合は「本能的」に生きていることになります。他者から愛されて自分という存在を確立していき、生きるということについてを咀嚼していく、まさに生物としての基礎を理解していくような感覚すらあります。

 この時点で「他者を思いやる」という感覚はかなり薄いでしょう。なぜなら、このときは自分が中心の世界であり、それ以外の周りの考え方や視点が全く身についていないからです。
 ここから少しずつ成長していく中で、「人はどのように考えるのか」「人間社会の文化とはなにか」「生きていくということはどういうことなのか」ということを学んでいくことになります。

 成長するとそこに、「社会的な役割」が備わってきます。今まで子どもとして庇護の対象であった子どもたちは、大人になっていく中で生存のために必要な役割を少しずつ理解していき、それに合わせた動きをしていくことになります。
 男の子であれば仕事をして稼ぎを持つ、女の子であれば家庭に入って子どもを育てる、現代的な役割に言い換えるとこのような形です。最近ではこれらの性別に応じた役割は薄れているような感覚はありますが、本作の時代背景を鑑みればこのような役割を獲得していくことになります。

 そこから考えれば、「母娘」という関係は、その役割を伝達する働きがあると考えることが出来ます。母親という役割を、将来的に担うかもしれない娘に対して、自らが手本となるべく愛を教えていく、そういう役割を母は持っているのかもしれません。

 しかしここで、「本能」の部分が邪魔をします。我々は自分のしたいように行動すれば基本的には良いことは起こらないと言われているのですが、そのような欲望的な部分をあえて「本能」と呼ぶのであれば、「娘のままでいたい」ということは起こりうることでしょう。
 いわば「母として誰かのことを愛でる」よりも「娘として愛でられる」ことのほうが好ましいと考えることもあるでしょう。高度な知的レベルの人間だからこそ、このようなことが起こり得るでしょうし、また昨今の多様性に置いてもこれは否定されるべきではないのかもしれません。

 恐らくは今までにも、このようなことがあったのかもしれません。人間は歴史的に見て「集団での子育て」をしてきました。今のような家庭という閉鎖的な環境ではなく、村単位における育児の場合は、このようなイレギュラーが発生してもうまく対応することが出来たでしょうが、今の環境でそのようなことが起これば修正は並大抵のことではないでしょう。
 ある意味で、そのような本能に従って、自分のなりたい役を演じるということは、昔のほうが普遍的であったのかもしれません。
 本作では、現代社会におけるそのようなイレギュラーに対して警鐘を鳴らす側面もあるでしょう。過去の人間社会と、現在の人間社会、良くなったところも多くありますが、そこに人間が適応できていないということはどこでも言われています。

 本作において「母性」という言葉は、まさにそんな美化された人間の社会的役割に対して疑問を発している作品なのかもしれません。捉え方は千差万別ですが、母娘という特別な環境の中で発生するイレギュラーは、現代において当然起こりうることであり、それに対してどのようなアプローチをしていく事ができるのか、本作が掲げたテーマ性にはそんなニュアンスもあるのでしょう。

【ネタバレあり】第6章:人は如何にして「親」になるのか

1.母になれなかったルミ子は「悪」なのか

 私達が物事を考える時、単純に「良いか悪いか」で考えがちです。本作においてもそれは同様にあり、一見すると「娘であることを固執したルミ子は悪い」と捉えてしまうことが多くあるでしょう。
 しかしそれは、本作に投げかけている幅広い意味での「人間性」に対しては整合性の取れない解釈であるように感じています。

 まず本作は、語り手ふたりにある程度「語り手としての信頼感」を受け手に与えるように作られています。作中で何度か語り手そのものが切り替わるのも、勿論叙述トリック的な技法は含まれてはいますが、「受け手の感情移入をある程度コントロールしている」と捉えることも出来ます。
 この時点で、作品における二人の語り手に対して、ある程度フラットな視点で見るように呼びかけているように感じます。映像表現ならまだしも、原作の小説が「活字」であれば、この効果はより一層引き立ちます。

 この作品はどちらか片方に対して断罪的な対応はしていません。あくまでも、この二人を正確に、リアリティある描写を続けているというわけです。
 どちらの言い分も納得ができるように表現されていると言いかえることもできるでしょう。

 そのため、「ルミ子」という人間の内面についても、映像的表現とナレーションのふたつを使ってうまく深掘りしています。彼女の内面はやはり「母という存在が絶対であり、代わりは存在しない」ということが一貫して描かれています。
 このように「特定の誰かが大切であり、そこに代わりは存在しない」という人間の姿勢は特段不思議がるものではありません。多くの場合それが「恋人」であり「人生のパートナー」である、それだけのことで、主語を変えるだけで我々はしっかりとこれに納得することができる様になっています。

 ですがその主語が「母と娘」になるだけで、我々はこれだけはっきりと善悪を感じ取り、ともすればルミ子に対しての不快感すら生じることでしょう。
 これは当然ながら、現代における社会的な役割が固定的であり、「母親よりも新しいパートナーを探して新しい家庭を作る」ということが良しとされるからです。そしてそれは、一般的な人間社会において最も頻度が高く、またベターとされているというところもあります。

 人間はより多様な存在であり、自らの思考についてある程度俯瞰して考えることができる程度の知能が備わっています。これに対して社会的役割などの要素を盛り込んでいった結果、我々現代人のような思考回路になるのですが、その役割に強弱が存在していて、それが異なるだけでルミ子もまた極めて人間的な思考であると考えることが出来ます。

 そのため社会的な役割に反して「娘で有り続けたいという感覚」は否定することが出来ないかもしれません。

2.「親になる」ということの難しさ

 そもそも「親」という社会的役割は、あまりにも一般的になりすぎているので分かりづらいのですが非常に個人にハードルを課すものでもあります。
 人間の社会性を考えると、従来までの子育てというものは社会の中で行われるものでした。それが個人という枠組みのなかで行われるようになれば、そのハードルは今まで以上になるかもしれません。

 そうなると、一般的な社会で言われているように「人間は親になって一人前」という常識は少々疑わしいものになります。
 我々が抱いている人間が持っている普遍的な感覚というものは、現代社会の中における感覚は本来人間が持っている感覚とかなり乖離する可能性を示唆しています。

 今作における「母親」というものは、他の作品に比べるとかなり手に届かないような表現がされています。
 本来創作物において、親や兄弟などの家族的な関係性はもっとポピュラーに扱われます。当然手の届く存在として表現されていて、キャラクターに対して与えるインパクトも支持的な場合が多くあります。

 そのようなところから考えると、本作が描こうとしている「母親」は、目指すべきものではあるが、それは「母性」というものが必要であり、人間が持っていなければいけないものであるという捉え方であると言えます。

 親になるということは、子どものことをすべて受け入れ、その責任すらも負うことになります。ましてやその衣食住のすべてを賄い、あらゆる社会的な常識を教え、罪悪の基準を身に着けさせる、親というものはそういう意味でもあります。

 子どもというものは勝手に学び得ていくものだと、多くの人は思っているかもしれませんが、人間の社会性というものは生物においてかなり高度な知的レベルを要求し続けます。
 一般的には「普通」であると判断されるものであっても、そこには高度な社会的な判断が存在します。現代社会の人間が下している判断というものはそれだけ高度化されたものであると解釈することも出来、一概にそれらに適応できない人間を排斥するのは疑問が残ります。

 基本的には生命体は、「自分の子孫を反映させること」に重きを置いていることは、進化論や利己的な遺伝子などの著書からも垣間見ることが出来ますが、人間にはこのような側面に対して疑問符が出るような行動もあります。
 それらは確かに、一般的な感覚で言えば理解の難しい手段を持って子孫繁栄をさせているのかもしれませんが、そこに「人間的な高度な判断である」ということを否定することは難しいのかもしれません。

 つまりルミ子という人物が取っていた「娘としてあり続ける」ということも、生物的な広い解釈をしていれば決して間違っていたものではないのかもしれません。親になるという複雑で難しいことに対して、「自分はそれが難しい」ということを直感的に理解していて、それでもなお親として振る舞おうとした彼女の努力家的な行動は、むしろ好意的に受け取る解釈すら存在しそうです。

3.「親」を模索する人間たち

 親になることがいかに難しいかということについては繰り返し記述させてもらったのですが、よくよく考えれば我々はどのようにして「親」というものを学び取っていくのでしょうか。

 我々は確かに親がかならずいるのですが、その中で幼少期にしてきた親の行動というものをすべて理解しているわけではありません。いくら親が丹精込めてしてくれたことでも、ある程度の文脈が理解できなければ理解することは出来ないでしょう。
 それに加えて、人間社会では親と子の代で大きな環境変化が常に生じます。現代社会でさえ、20年も時を遡れば全く異なる社会性が息づいています。そんな中で、「親が自分にしてくれたこと」というものは、必ずしも子どもたちの世代において使用できる知識や経験かは判断し難いものがあります。

 つまり、「親になる」ということは、上述した役割的な困難さに加えて、「自分自身で時代背景に合った親イメージを確立して、そのとおりに振る舞う」ということも必要になってきます。
 ここで問題になるのが、そのイメージに対して明確な答えが存在しないにも関わらず、核となる親たちは「そんなことは出来て当然だ」と言わんばかりに過去の親像を押し付けてくることです。現代における環境の齟齬に一切言及することはなく、闇雲に自分たちの頃のイメージを押し付けてくる、しかも子世代はそんな未熟性を伴ったまま、現実に親にされてしまいます。

 本作におけるルミ子の狂気性は確かにはっきりと描写されており、そこには「人間は生来的に母性を持っているか」という問いかけに収斂されるものがありますが、これは「ルミ子が親として適切なレベルにまで達しているか」という問いかけに変えても、本作は十分見ることができるでしょう。
 なぜならルミ子の行動は、どことなく「子供っぽい」ということは随所で表現されているからです。あえてこのようなことが囁かれているのは、ルミ子に親としての資質や知識、経験が備わっていないからと考えても良いのです。

 現代社会は今までの社会よりも、児童虐待の認知レベルが高い水準に至っています。虐待の認知件数はそのものが上昇しており、子どもたちだけではなく、その親達へのケアの必要性が叫ばれていますが、この背景には、「急激な環境変化に子から親になっていく若者たちがついていけていない」と考えることもできるのではないでしょうか。
 情報化社会によって、デジタルでのコミュニケーションが主導化された現在において、従来までの「親」の像が通用しなくなっている、しかしそれに対して核となる元親世代たちは環境に適応した親像をうまく伝えることが出来ずに齟齬が生じる。勿論これはあくまでも筆者の妄想に近い仮説ですが、「親になり子どもを持つ」ということはそれだけ難しい判断の上で成立しているものでもあります。

 問題は難しい問題に対して、多くの人間が甘く捉えているということです。「今までは自分たちの力だけで成立していたのに」と考えて、現代社会の適応に対して否定的な考えを述べる人や、過去の慣習にとらわれすぎる人など、自分たちの経験を重視するあまり、現代の環境における親像の調和に対して一切考えることが出いない人達がいるのもまた事実であるのかもしれません。

 ルミ子は「母親」に対して固執するあまり、親のことを強く観察していました。それが合ったからこそ、彼女は清佳のことを娘として判断して扱うことがかろうじて出来ていたのかもしれません。
 しかし当然ながらそれは、自分自身や感性に合ったような母親ではなく、唯母から認められようと願うばかりであり、本当に必要なことがすっかり欠落していたことは否めません。
 それはルミ子が、「母親としての素質を考える上でまだ未熟であった」と考えることも出来ます。親というものは子どもの素質に合わせて、いろいろなことを考えて、健やかな成長をしていくために合わせなくてはいけません。それをルミ子がするには少々難しいものがあった、ただそれだけだったと考えることもできるのです。

 そしてこれは、のちの世代である清佳が「母性を持っているか」という考えにも通づるものがあります。清佳が母性的な部分を持っていたとしても、はたまた持っていなかったとしても、結局は親としての素質や知識、経験を学び取っていくというところは、変わらないでしょう。
 それを清佳がどのようにして体得していくかということは、今後の彼女の次第になりますし、それが誤った方向へ進んでしまえば、恐らく清佳はルミ子と同じような結末を辿ることになります。

 本作が伝えようとしたのは、そんな非常に幅広い意味での「母娘」という部分にあるのかもしれません。
 母と娘というのは、「母と息子」というよりもより自分に近い存在であると意識することで、その接し方はかなり変わっているでしょう。同じ社会的な役割、同じ性別的な部分、どちらをとっても自分の過去を思い出すことができるが故、受ける影響も大きいことです。

 だから本作は、そのような「母娘にまつわる結びつきを母性」として取り扱っているような描写をしているのかもしれません。

終わりに

 今回は「映画・母性」の読書感想文として、母性をテーマに色々なことについて考えてきました。
 ここまで記述した上で注意いただきたいこととして、作品のテーマ性を本来受け手が考えることはあまり好ましいものだとは言えないと筆者は考えています。
 本作のような非常に難しい命題を扱う際は、本来作者側から明確に「本作は〇〇がテーマ」として明示されているものに言及していくのが楽しさの一つであると想うのですが、今回の「母性」は、それそのものにあまりにも大きな見方をすることが出来ます。

 そこに記述されている「母性」の意味を考えることは、巡り巡って「本質的に母性とはなにか」を考えることにもつながると思ったからこそ、筆者はこの読書感想文を書いているわけです。

 これを皮切りに、作品を触れようと考えて頂いた方が一人でもいたら幸いです。ここまでご覧いただきありがとうございました。また別の「感想文」でお会いしましょう。

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