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はじめましてシェイクスピア

シェイクスピアのテンペストを読んだ。シェイクスピア自体初めてだったのに、マクベスやオセロといった有名な悲劇ではなく、テンペストという赦しの物語が最初だというのも、シェイクスピアってこんな感じ?と、暖簾に腕押し感というか、予想外の読後感だったのかもしれない。この作品はシェイクスピア単体では最後の戯曲らしい。だから赦しという達観した雰囲気の物語になっている。
読書会のおかげで、植民地の問題や当時流行っていた理性というものをこの作品に取り入れてることなどを知ってさすがシェイクスピアと思ったけど、1番はここから浮かび上がってくる、戯曲の構成が面白いと個人的に思った。
劇ならではの何かを言いたいための大袈裟な前振り、みたいなものが要所要所にあるし、物語全体を通しても主人公プロスペローが、以前裏切った弟たちを赦すために嵐を起こして、俺もこんな気持ちだったんだ、お前らも辛いだろう。…だけど俺は赦す!といった前振りの効いた物語になっていて、普通に読めば、色々あったけど赦すよ。なんだけど、わたしには赦したいから仕返しさせて。に読めてくる。
そう考えると自分が悲劇だと思ってることも、その後のことを誇張するための前振りかもしれんな。それをわざわざ起こして、人生に波風たてたいのかもと思った。
ちなみにテンペストは嵐と言う意味らしい。
普通に考えても楽ありゃ苦あり。とか禍福はあざなえる縄のごとしとかよくいうけれど、逆説的にみると、もっと人生が誇張された仮面劇のように思えて滑稽で面白い。
テンペストでは最後にプレスペローがこれまで大切にしていた本という魔法(言葉や知識など)を捨て、観客と神に赦しを乞う場面で幕を閉じる。それがシェイクスピアの演劇に関わってきた人生とも重なり、少しじーんとした。
この人生という舞台で魔法の杖を折り、仮面をとったあとのシェイクスピアはどんなことを思ったんだろう。
悲しみと笑いは紙一重というみたいに喜劇と悲劇も紙一重なのだろうか、、人生が舞台ならそれをみる観客は神様たちなのだろうかと想像は続く。
シェイクスピアが舞台をおりたとしても残してきた魔法の効力は消えず私たちは何度も出会う。言葉は私たちを縛り、解き放ち魅了し続けるものなのだ。

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