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#10 ―うつ病みのうつ闇ー 闇の中の灯(ともしび)…出会い

そんな中、偶然ある人の遺した作品と出会った。そこには私の中にあるのと同じ言葉たちがいた…まるで自分のことのように感じた。何の共通点もないのに。

彼は世間から見たら、成功者だった。そんな彼が…ある日自ら命を絶った。周囲は衝撃(しょうげき)を受け困惑(こんわく)したが、彼にとってはきっと、気が遠くなるような長い戦いの結末だったに違いない。

彼も精神科を受診したようだが、治療の成果は芳(かんば)しくないようだった。残念ながら『精神科専門医』の選択を誤れば、それがそのまま死に直結する可能性がある。

私も過去に何軒か精神科や、心療内科の病院を受診したことがあるが、残ったのは医者に対する強い不信感。権威(けんい)で踏みにじられる傷ついた心――『専門家』がすべてを分っているわけではないのに、経験したこともないのに、何もかも知っているというような、患者を見下すようなあの高慢な態度は一体どこから来るのか。

もちろん患者のことを考える良い医者もいるが、中にはなぜ精神科医になったのか、動機を疑いたくなるような人もいる。

皮肉(ひにく)にも、一辺倒(いっぺんとう)で的外(まとはず)れなアドバイスをする『専門家』よりも、何も言わず薬の処方だけする『専門家』の方がマシという結果に終わった。

我慢(がまん)に我慢を重ね、とうとうどうにもならなくなり、やっとの思いで『専門家』に一縷(いちる)の望みを託(たく)して自分の秘密を打ち明けたのに、それを受け止めてもらえないという絶望と苦痛は計り知れない。

自分はどうしてこんなに気持ちが落ち込んで、身動きが取れないのか。なぜ皆と感じ方が違うのか。他の人と同じように気楽に考えられないのか。『どうして自分はこうなんだろう』『何とかしたいのにどうにもできない』…などと、それこそもうギリギリまで追い詰められている。そんな自分を過剰に責めて苦しんでもいる。

それなのに、それがまったく理解されず、まして否定されるなんて、なんて残酷(ざんこく)なことだろう。しかも、相手は最後の頼みの綱(つな)…『専門家』なのだ。

彼も記憶障害に悩まされたようだが、私もうつ病と診断される前から、頻繁(ひんぱん)に記憶が無くなることがあった。睡眠障害は、一年以上前に不眠という形で現れ、倒れる前には過眠になっていた。

当時はうつ病による記憶障害や過眠はあまり知られておらず、うつ病とは関係ない、大したことない、育児中にはよくあることだと見逃(みのが)された。脳内で障害が起こると知られていたはずなのに。記憶も睡眠も脳が司(つかさど)っている限り、何が起きても不思議はないだろうに。

初めて受診した心療内科の医者は「憂鬱なんです」と言うことしかできない私に、病名も告げず子育てを休むよう言うだけだった。代わってくれる人もいないのに、休めるはずもない…会計の時、受付のカウンター越しに見たカルテに『うつ病』と書かれているのを見て、自分がうつ病なんだと知った――
 

明るく才能溢れ、羨ましがられるような存在…その一方で、周囲が望むそんな自分とは全く違う、暗くて孤独で自信のないもう一人の自分…

自分自身も嫌いなその存在を、誰かに受け入れて欲しいと望む一方で、そんな自分を深く恥(は)じていて、他人に知られて理解されないこと、拒絶されることを恐れ、頑(かたく)なに隠していたという痕跡(こんせき)…

ほんの数人以外には、必死に隠していたうつ病。それも多分、その人達にさえ、自分の中で起きている激しい葛藤(かっとう)を、苦しみを、すべて明かすということはできなかっただろう。巨大な憂鬱に飲み込まれそうになりながら、彼は孤独な格闘(かくとう)を続けていた――


よく言われる『自殺はいけません』『死ぬ勇気があるなら何でもできる』…人と比較するなと言うくせに『もっと大変な人もいる』『生きたくても生きれない人もいる』…これらの言葉も最悪だ。

鋭い凶器となって、何とか保っていた心をズタズタにしてしまう…そんなこと、言われなくても知っている。わかってる。どんなに頑張っても、そう思えない自分にこんなにも苦しんでいる。そんな自分を責めて憎んでもいる。

万策尽(ばんさくつ)きて崖っぷちに立たされ、やっとの思いで自分の苦しみを打ち明けたのに、そんなことを言われたら…『もうこれ以上何を頑張れと言うのか…誰かにわかってもらうなんて、無理なんだ。どこにも望みはないんだ』と打ちひしがれ絶望してしまっても、誰が責められるだろう。
 

うつ病になると、脳内にうつ病共通の思考回路(しこうかいろ)ができるのか、それともそういう思考回路があるから、ある種の死に追い込まれる、深刻な状況を招(まね)くうつ病になるのだろうか…

彼は自分に問い、『あなた』に問い、でも両方とも自分に問うている。そして、実在の『あなた』にも。自分は自分であり、自分は『あなた』であるから。他人は自分の鏡なのだ。普通の人にはあるはずの、自分と他人の境界(きょうかい)がはっきりしない。

自分も気がつかないくらい深いところから、自分に対して激しい憎しみと根深(ねぶか)い不信感を持っている。ということは、鏡である他人にも同じ感情を抱いているのか…

友達を信頼もしているし、好きだし、心から仲良くなりたいと思っている。本当に心から。自分を愛したいし、誰かに愛されたいと強く望んでいて、必要以上に気を遣(つか)っている。

傍(はた)から見たら明るく自信あふれ楽しい人、境界がはっきりしないため生まれる共感力のせいか、優しい、人がいい、繊細(せんさい)だと言われ、実際そういう光の面もあったりする。

一方で、皆が知らない暗くて弱くてとんでもなく粗暴(そぼう)で、どうしようもない闇(やみ)の自分がいて、光の自分の存在を認めず『それは本当のお前じゃない!』と、激しく攻撃してくる。

そんな闇の自分の存在を知られたら、きっと嫌われ捨てられてしまうと思っているので、注意深く隠している。だって、自分はその自分が大嫌いで、捨ててしまいたいから。

そして、自分を捨ててしまう自分も、自分を捨てるであろう他人のことも、心の奥底で恐れている。自分を愛し信じることができないのに、他人を愛し信じられるはずもない…そんな自分が、ますます嫌になる。
 



       

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