わかりあえないことをどう捉えるか──『水中の哲学者たち』読書感想文
歩み寄ってくれる哲学に初めて出会った。
永井さんの文章は、一つ一つが彼女の身体性と共にあって、この世の出来事としてたしかに存在するんだとわかるとてもクリアな描写で、そこかしこに溢れたくすぐったいユーモアと一緒にじんわり心に染み込んでくる。
エッセイとして、抜群に面白かった。
永井さんは哲学研究の傍ら、いろいろな場所で「哲学対話」を行っている。
哲学対話とは、
という行為。
ほとんどライフワークのように、学校や、文化施設や、企業や、時に街頭(!)などで、ファシリテーターとなり行ってきた哲学対話を通して得た彼女の考えが、ふわりふわりと章立てされて展開される。
永井さんの文章を読むと、なんだか安心する。
彼女は、時折本の中で自分の弱さをさらけだす。
(直接お会いしたことがないから憶測でしかものが言えないが)おそらく、外面からは到底そうは見えない彼女が吐露する彼女の本質。
対話が怖い、というこの部分に共感する人は多いのではないだろうか。
「わかりあえないけどなんかいい感じ」の瞬間を求めて
わたしは一回きりのチャンスしかない会話が嫌いだ。
人が真からわかりあえないことは、人生40年も過ごしていればいやでもわかる。だからこそ、わかりあえない時に「次はこうやればわかりあえるかも」といろいろ考えを巡らせるのがとても好きなことに最近気づいた。
しかし、チャンスが一度きりしかない出会いは、それができない。
「ああ伝わらないな」と絶望してあれこれその場で試行錯誤した挙句、本心と口から出る言葉が乖離していくさまを、身体から離れて空中から呆然と眺める自分がいる。そんな時間がいやだ。
だから、次のチャンスのない会話は、わたしは好きではない。
一方で、次のチャンスがある会話は、無理をする必要がない。
「話が通じなかったな」と内心で大きなため息をつきながら、すごすご家に帰って、次の作戦をせこせことねる。
あの人はどうしてあのような発言をしたのだろう。
あの人はどうしてあのような態度を取ったのだろう。
あの人はどういう考えを持っていて、どこでならわたしたちは折り合えるのだろう。
考えを巡らせて、ようやく通じ合えた時の一瞬の快感(実はこの間に数年経っていることだってよくある)。
その快を得るためにわたしは、“この人とは会話を諦めたくない”と思う人との会話を重ねるのをやめないんだろう。
その周りくどくて困難な道は、意外にも実を結びその人との絆として残ることを実感し始めているわたしは、「絶対にわかりあえない可能性」への怖さと、「もしかしたら同じ方向を向けるかもしれない可能性」への希望の狭間で揺れながら、辿々しい言葉を重ねるのだろう。
──見も知らない人と、初見で哲学対話を交わし続ける永井さんは本当にすごいと思う。他人に向かって勢いをつけてジャンプし続けるのは、並大抵のことではないから。
そして「すごいな」と思うと同時に永井さんがそれを続けることのできる“根源”を知りたいなとも思う。
変化はあたりまえなのに
その“根源”だが、本を読んで少し察しのつく側面もある。
永井さんは、信念というものが壊されることも含めて、変化を楽しむ人なのだ。
信念は、美しい。けれど、生きていれば、考え方が変化するのは当然だ。
考えが変化しないと思い込むことは危険だ。自分の信念からくる“正しさ”への思い込みは、時に自分を不必要に怒りに誘い、他者を傷つける。自分の正しさを疑い、破壊し続けることが人生には必要なのだと思う。
しかし、本書の「変わる」の章段にも永井さん自身の体験談が書かれていたが、人が変化することをよろこんで認めてくれる人はそう多くない。
わたし自身も、自分の考えが変化することにずっと戸惑っていた。自分は信念がないのかと不安になったし、考えが変わることは過去の自分への裏切りのような気がしていた。その時に口に出したことを「嘘」にする行為だと思っていた。
でも今はそれは違うと思う。考え方が変化することは、自分への裏切りではなく成長だと、そう思えるようになった。
真剣に向き合ってもわからないものはある
優しいのに強烈なユーモアに、時折ふふっと笑いがこぼれる。
冒頭に書いたように、永井さんの哲学はこちらへ歩み寄ってくれる。
寄り添ってくれる文章を読みながら、自分の考えを振り返りまとめる良い機会となった。
人生は、見つけていないものを見つける旅。
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待ち続けることようやく7か月目にして読んだ本でした。
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