私について ①


私について書いてみます。Dance medicineという瞑想的なダンスワークと、Dhakini breathという子宮のためのブレスワークを伝えているダンスアーティストです。

音楽との出会い ・3歳

音楽との出会いは3歳の頃。ピアノを習い始めたのと、モンテッソーリ教育の幼稚園でリトミックに出会ったあたりから。とても恥ずかしがり屋でしたが、音楽が流れると自由に動き回れる想像力豊かな子どもでした。人前で踊ることなどはあまり好きではなく、どちらかというと苦手。みんなと一緒に練習したり輪になって踊ることが好きでした。

ダンスとの出会い ・7歳


ダンスとの出会いは7歳の頃。クラシックバレエの教室に連れて行かれたことがきっかけでした。教育熱心な親だったので、いくつも教室を見学して、基礎をしっかり教えてくれるしっかりとしたバレエ学校に通わせてもらうことになりました。バレエは人前で踊る派手なものだと思っていたのであまり乗り気ではなかったのですが、レッスンに参加してみてイメージが変わりました。自分と向き合うこと、「できなくて恥ずかしい」という気持ちに打ち勝ちながらコツコツ練習を積み上げていて、少しずつできることが増えていくことが性に合ったようで、レッスンが大好きになりました。家でも毎日、柔軟やストレッチなどを始め、できる限りの努力をするようになりました。修行の感覚でした。修行が好きだったのです。中学生くらいになると、筋肉を細かく使い分けて、自分の中のバランスを探していくという超繊細な段階に入っていき、1日でも多く練習したい、とレッスンに行きまくっていました。食事なども、おやつなどの嗜好品は食べないとか、野菜をたくさん食べるとか、子どもなりに意識が高く、自分を研ぎ澄ますことに生活を注いでいました。それと同時に本を読んだり、小説を書いたり、絵を描いたりするのも大好きな子供で、肉体を鍛えながら、自分のイマジネーションの世界も豊かに膨らませている、そんなマイペースでストイックな中学生までの時間でした。

ダンス部との出会い

高校生に入ってからはダンス部に入部。世界大会や全国大会で優勝するような競合チームに入り、朝、昼、晩、と練習に明け暮れ、ロシア公演、アメリカ大会など、世界に飛び出して踊り始めたのもこの頃です。合宿中は3時間睡眠あれば嬉しいくらいのハードさで、年に数日の休みをもらえるかもらえないか。土日は1日練習で9時から18時まで疲労骨折しても踊り続ける。とにかく集団の中で自分を追い込んで、自分の限界を超えるということを知りました。私はチームでの活動以外にも、自分の筋肉の質を落としたくなかったので、バレエのレッスンも続けていたので、正直、「死にたい」と考えるほど肉体を酷使していました。幸いなんとかやり遂げて、そのおかげで、どれくらいの努力をしたら、どれくらいのレベルにいけるか、という達成するために必要な努力の量を知りましたし、正しい努力さえすれば目的に到達できるのだ、という当たり前の成功体験を積み上げることができました。そして、一見、苦しいと思える努力でも、その先の先の先にあるのは過去の自分を超える、という体験で、自分の実力や才能は、天から与えられた特別な人だけのものではなく、練習によって培っていけるものなのだ、ということを体験的に知りました。この頃の限界を超える体験は、今でも私の中の自分を信じる力になっています。

コンテンポラリーダンスとの出会い ・19歳

大学では哲学を学びたかったのですが、「あなたは哲学なんか学んだら自殺するに違いない」と親に反対され、舞踊学専攻に入りました。体育の教員免許も取りながら、二足の草鞋で舞踊を技術だけでなく理論や歴史から学びます。その時に出会ったのがコンテンポラリーダンスでした。コンタクトインプロヴィゼーションやパートナリング、舞踏といった、哲学的、論理的、瞑想的なダンスとの出会いに衝撃を受け、自分の中の踊りの概念、縛りというものに気づき始めます。そしてコンタクトのワークができるようになるまで、徹底的にワークに通うことを始めたのです。5年くらいかけて、やっと「見せる」ダンスを抜けてコンタクトインプロヴィゼーションの動きがカラダに入ってきた時、自分の中の「概念」が変わってきていることに気がつきました。今までのダンスの中で、重力とは克服するもので、それに逆らってでも高く飛ぶために努力をしなければいけませんでしたが(それが楽しかった)コンタクトを身体に入れた後では、重力は私の動きをサポートしてくれるエネルギーでした。その場に流れている自然なエネルギーを感じて、乗っていくことが踊りの中に入ってきて、私のいのちの質のようなものが変わってきていたのです。そこまで深く考えてはいませんでしたが、動きと思考の関係に気づき始めたのはこの頃です。
同時にクリエーションに燃えていたのもこの頃で、年間10作品くらい、とにかく頭の中にある映像をダンス作品にしては発表する、ということをひたすらストイックにやっていた東京での5年間でした。

ヨガとの出会い ・24歳


24歳で自分のダンスの没個性に嘆き、単身インドに渡りました。何かを掴みたい、自分に足りないものを見つけたい、という思いで藁にもすがる思いでヨガの先生を探したのです。そして繋がったのが、アーティストでもあり、アゼルバイジャンから亡命してきた無国籍のタントラヨガ、クンダリーニヨガの師でした。ここから人生は大きく転換。この先生がオーラに触ったり、瞑想状態に誘導できたり、アーサナでも深いヨガニドラに持っていけるような本当のマスターで私の身体感覚は大いに変容しました。まず、エネルギーやチャクラっていうものがあることを体感で知ってしまい、瞑想状態というものがあることを体感で知ってしまい、過去世まで見たり、人のオーラが見えるようになってしまったり、透視能力が目覚めてしまったり。エネルギーを可視化するようになったり。これまでダンスで徹底的に練習する癖がついていたので、ヨガの練習を朝日と共に、毎日徹底的にしていくことで、どんどん超自然的な力が開花していきました。(これはシッディと言って経典にも書いてあり、正しくヨガを練習していったら必ず通る道です。ヨガってそういうものなのです。私が特別ではありません。)

バスキングとの出会い ・28歳

そこからインドに通うようになり、一年のうち最低でも3ヶ月、長くて6ヶ月はインドで過ごすようになりました。先生を探しては練習に励む日々。瞑想の練習も始め、世界を周り、とにかくヨガやダンスなどの身体ワークのワークショップに参加しては練習する日々。食事も7年くらいに渡りベジタリアンを通しました。そんな中、バスキングという文化に出逢います。
路上でパフォーマンスしてお金をもらって世界を回っている人に出会い、それを機に自分も日本でやっていた教えの仕事をやめて、ダンス一本でチャレンジしてみたい、と世界に飛び出しました。そして路上パフォーマンスを皮切りに、大学で教える仕事をいただいたり、パーティーで踊る仕事をいただいたり、アートフェスで踊ったり、教える仕事をいただいたり、とにかくダンス一つで4年に渡り世界を旅することができたのです。私のダンスは世界に通用するのだ、と、これはとても自信になりました。
ちなみに海外はドイツから始まり、トルコへ行きベリーダンスを学び、ロマというジプシーの子孫たちに出会い、そこからロマがインドから踊りを世界に運んでいったという歴史に出会い、ロマの軌跡を辿るたびになりました。そしてエジプトへ行き、スーフィーとその伝統的な音楽に出逢います。おそらく王宮で演奏され続けてきた狂気と饗宴の間の素晴らしい音楽感に毎日、地元のコンサートに通ったこともありました。そこから、エチオピアの民族舞踊を見て周り、シャシャマネというラスタの聖地へ。そこで色々怖い思いをして、ジンバブエの電気ガス、水道のない農村へ。一つの地域に1〜3かげつ滞在するゆっくり暮らして修行する旅でした。


この続きは②で。
よかったらハートを送ってもらえると孤独な田舎で身体ワーク・フリーランスの心の支えになります。


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