アナログ派の愉しみ/本◎井筒俊彦 著『神秘哲学』

天才的な
無邪気さに学ぶ


かつて勤め先の同僚に語学の達人がいた。初めての外国へ行って1週間もすると日常の会話はたいがいこなせたという。わたしなどには想像もつかない超能力ぶりだが、本人にスーパーマンめいたところは微塵もなく、至って人なつこい性格で、ひまさえあれば女子社員たちと菓子をつまみながらぺちゃくちゃおしゃべりしていた。なるほど、幼児が置かれた環境でたちまち言葉を覚えるように、言葉を習得するにはある種の無邪気さが必要なのだろうと納得した次第だ。

 
世界的なイスラム学者だった井筒俊彦は、若いころから語学の天才として勇名を轟かせていた。現在に較べれば語学にずっと不如意だったはずの戦前、慶應義塾大学に入学すると、ヘブライ語、アラビア語、古典ギリシア語、ラテン語、ロシア語……など十の言語を並行して身につけたそうだから、驚きを通り越して呆れてしまう。卒業と同時に母校の助手となってさっそく教壇に立ち、その講義内容を戦後にまとめた『神秘哲学』(1949年)には、語学の天才とはどんなものかありありと示されている。冒頭はこんな具合だ。

 
「悠邈(ゆうばく)たる過去幾千年の時の彼方から、四周の雑音を高らかに圧しつつ巨大なものの声がこの胸に通って来る。殷々(いんいん)と耳を聾せんばかりに響き寄せるこの不思議な音声は、多くの人々の胸の琴線にいささかも触れることもなく、ただいたずらにその傍らを流れ去ってしまうものらしい。人は冷然としてこれを聞きながし、その音にまったく無感覚なもののように見える。しかしながら、この怖るべき音声を己が胸中の絃ひと筋に受けて、これに相応え相和しつつ、鳴響する魂もあるのだ」

 
いささか気負った文章は装飾過多でまわりくどい印象が否めないけれど、要するに自分の耳には遠い古代からのおどろおどろしい声が聞こえるという宣言だ。おそらく、それはひときわ鋭敏な聴覚のせいではなく、逆に余計な夾雑物をシャットアウトして、いま自分が注意を向けるものだけにすべての感覚を集中できる能力のおかげだろう。結果として、他の者には窺い知れない神秘の世界が扉を開ける。

 
つまり、こういうことだろう。われわれは当たり前のごとく自己の理性によって神羅万象をわきまえていると思い込んでいるけれど、しかし、しょせん大脳皮質が反応しただけの表面的な理解に過ぎず、もっと深いところにはとうてい理性だけでは感知しえない領域が広がっている。では、どうすればいいのか。井筒はこう説明する。

 
「私は十数年前はじめて識った激しい心の鼓動を今ふたたびここに繰り返しつつ、この宇宙的音声の蠱惑(こわく)に充ちた恐怖について語りたい。かつてディールスの蒐集したソクラテス以前期断片集を通読した最初の日から、まだ何事ともさだかには識別し難いままに、そこに立罩(たちこ)める妖気のごときものが私の心を固く呪縛した。〔中略〕ミレトスのタレスに始まるソクラテス以前期の哲学・自然学を、生命のない屍としてではなく、生気横溢する姿に於いて捉えるためには、人は先ず自ら進んでこの溌剌たる生命の流れの中に躍入し、言説を絶する自然体験の端的を直証しなければならない。自らも彼らと同じ直観をもって宇宙の幽邃(ゆうすい)な秘義に徹入し、彼らと同じ体験によって霊覚の境涯に転身しなければならぬ。こうしてはじめて人は言説以前のものが、いわばおぼつかない足取りで一歩一歩言説(ロゴス)の世界に入って来る微妙な過程をあますところなく観ることができるであろう」

 
こうして神秘的な認識の淵源を探求する冒険がはじまる。ソクラテスが出現する以前のギリシアの哲学者たちの言説までさかのぼり、しかも、それらについて理性で解釈する態度を放擲し、かれらが辿った道程をみずからもまた辿り直すことでありのままに捉えようとするのだ。たとえば、文中に登場するミレトスのタレスと言えば、円や三角形をめぐる幾何学の定理で有名だが、かれはまた「万物の根源は水である」と述べたことでも知られている。こうした見解を今日の科学的知見に立って笑うのでもなく、拡大解釈してわかったような顔をするのでもなく、かれらの世界観をまるごと受け止め、ともに生きてみることで自己の認識をアップグレードしていく。そうやって編まれたのが、この大部の著作なのだ。

 
まさしく天才的な無邪気さの産物と言うべきだろう。
 

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