日々の宝物は忘れてもいい。きっと、ずっと、なくならないから。
3歳の娘は、歩くのが好きだ。
「今日は自転車だよ。乗らない?」
幼稚園の迎えは、雨の日以外は自転車で行く。
こちらとしては乗ってくれた方が早く帰れるのにな、もうすぐお兄ちゃんが帰ってくるから鍵開けに帰らないといけないのにな、などと思ったりするのだが、彼女は決まって、ぷるりと首を振る。
「のあない(のらない)。あうくの(あるくの)」
幼稚園のリュックや体操服が入った手提げなんかも「かごに入れようか?」と言っても「いや、もつのー」と、遊歩道をずんずん歩いていく。
園から家までは1キロ程度あるのだが、彼女は休まず、ときには小走りで完走する。
今住んでいる場所は車社会なのもあって、この距離でも歩いて(走って)帰る園児は少ないらしく「まぁー。小さいのに偉いねぇ」「いつも歩いてるわね」と、よく声をかけられる。
「歩くのが好きみたいで・・・」と答えながら、運動音痴な私に似ないで良かったと、ひそかに胸をなで下ろす。
小さくなる背を見ながら、いつから歩くようになったんだっけ、と思い返す。
あれは確か・・・
・・・
・・・あれ? いつだったっけ。
うーん。1歳半頃かな。上の子が年中だった頃は、ハイハイも混ざってたような・・・。
立ち上がった頃。伝い歩きをした頃。歩き始めた頃。
それらはすべて、確かに特別で、「記念すべき瞬間」だった。
決して疎かにしたつもりはないし、どうでも良かった訳でもない。
でも実際、時が経つと忘れている。いい加減なものだ。
となると、きっとこの「自転車にも乗らず勝手に歩いているのは3歳頃」なんて情報も、私は忘れてしまうのだろう。
成長は時系列に、線上でつながっている。しかし点で見たときの情報は曖昧だ。2歳だったか、3歳だったか。
最初の頃は「生後1ヶ月の成長」と現実の成長とを見比べていた気がするのに。
そうしている間にも、娘は遠くにある車止めまでたどり着いていた。
押していた自転車に乗って、娘に追いつく。
「おかーしゃん、はやーい」
嬉しそうに跳ねる娘の頭に手を置く。
「沢山歩くねぇ。凄いねぇ」
「うん。しょーよぉー(そーよ)」
くすぐったそうに笑う。
いつ笑って、いつ話して、いつ立ったか。
それは大切なようで、きっとそんなに、重要ではないんだろう。
この子が笑った瞬間があったこと。
話そうとしたときがあったこと。
立ち上がって、拍手した日があったこと。
その存在を確かに知っているのなら、それがいつであっても、多分いい。
さび付いた引き出しの奥に、きっとたくさんの宝石が眠ってる。
それは忘れるくらい、うんといっぱいだ。
幾つあったか数え切れないほどに。
「まだ、歩くの?」
「うん、あうくの(あるくの)」
こくんとうなずき、娘は歩き出す。
横断歩道の白い線を。モザイク路面の赤い部分を。ひび割れたアスファルトの線上を。
自分の足で、自分が選ぶ道を、楽しそうに。
「もー、おうち、みえてくうねー(見えてくるねー)」
歩くペースも、選ぶ道も違うけれど、帰る場所は同じ。
あくまでも、今は。
「そうだね。もうすぐだね」
歩いて疲れたら、ゆっくりお風呂に入って。
ぐっすり寝たら、また歩けるようになる。
歩いて宝物に出会ったら、めいっぱい引き出しに詰め込もう。
たとえ忘れても、それはきっと、奥でずっときらきら光ってる。
決してなくなったりはしないから。
恐れず歩いて、何でも詰めて。
自分が行くと決めた道を、どんどん歩いていけばいい。
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