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使わない言葉に表れたのは、私のキモい自意識だった


 ちびろさんの記事で「使わない言葉」について書かれておりとても興味深く印象に残っていました。日常のなかでふと、あ、これ「使わない言葉」だなと思い出したりしていたので、アンサーnoteというほどのもではないですが、ちょっと書いてみます。そして書いていたら自分のキモい自意識にぶちあたったという話。

フェミニズム的な観点
「主人」「旦那さん」「奥さん」「ライフステージ」「母性」

→このあたりは結婚して妊娠して、今まで見えていなかった女性蔑視や男尊女卑、家父長制みたいなものが急激に自分を攻撃してくるように感じました。特に主人は意地でも使わない。誰が主じゃいボケ、私の人生の主は私である。
 「夫さん」「妻さん」は日常会話で使うとちょっと笑われたりするけど、言ってるうちに違和感はなくなるし、周りも慣れてくれるだろうと貫いています。ライフステージはなんか、ステージって高低差があるから、上下を感じて嫌だな。

言葉の意味の重さに対して軽率すぎるもの
「〇〇難民」(コスメ難民とか)
「脳死で〇〇」
「地雷」
「飯テロ」

差別的に感じるもの
「レズ」「ホモ」「フェミ」(フェミニスト、と言いたい)

ありえないレベルに嫌いなのもの
「ガイジ」
「池沼」(先日意味を調べて戦慄した)
「アスペかよ」

 上記に論ってみたけれど、決して私は「使ってはいけない言葉を知っていてきちんと実行している」わけではない。使うと誰かを傷つけると知れたものとか言われて不快だったものとか、そういった経験を経て徐々に拾い集めていったのが「使っていない言葉」だ。そしてまだ拾い集めている最中で、きっとまた私の口から出たものが誰かを傷つけるのだろうと思う。

 Mrs. GREEN APPLEの「コロンブス」のMVが公開停止になったというニュースを観た。あの騒動からも明らかなように、差別とは「配慮」や「優しさ」で撤廃できるものではないのだ。差別をしないために必要なのは、優しさではく「知識」。それも受動的な学びでは教えてくれないことばかりだから、自ら学びに行かないとまた私は人の尊厳を脅かしてしまうのだ。

 山崎ナオコーラさんの言葉、「私は差別をしているし、これからもします」は本質だと思う。「自分はLGBTQには理解があるほうで、差別なんてしてません」なんてい言っている人は、ただの無知だ。知れば知るほど、自分の加害性に気が付き、やっとなにかひとつ差別を解除できる。でもまだ山積みに残っている。こびりついている。それらを一生かけて、ひとつひとつ退けていく。寿命の範疇だとすべてを無くすのは無理かもしれないが、生きている間はずっと学び続けるしかないのだ。

 友人と話していて気づいたことがある。

 何かおかしな行動をした身内に向けて、友人の知人(A子とする)が「障害者みたいじゃん笑」と揶揄したことがあったそう。その時は反射的に指摘することができず流してしまったが、後からでもあの言い方は良くないよと伝えようか迷っているという相談だった。

 その相談に対して私は
「A子ちゃんが、あなたにとって大切でずっと付き合っていきたい人なら言ったらいいと思う。でも、そうではないただの友人ならあえて言わなくていいんじゃないか」と伝えた。
すると友人は、
「そこまでの存在ではなくてただの友人だけど、放っておいていいのかな」と。

 私は、それはA子ちゃんの在り方の問題だから、わざわざ友人が口を出す必要はないのかなと思ったのだ。A子ちゃんの問題であり、友人の問題ではない。そういうA子ちゃんが受け入がたいなら距離をおけばいい。

なんでわざわざ指摘したいのか、友人に聞いた。
間違っているからとか、差別的だからとか、酷い言い方だからとかを予想していたが、彼女の答えはこうだった。

「A子ちゃんの発言で誰かが傷つくかもしれないから、かな」

ハッとした。

私は「使わない言葉」や差別をしない態度のことを、「在り方」の問題としてしか捉えていないのだ。揶揄の言葉に使われてしまった障がいを持つ方の尊厳を守ることを考えてなどいないのだ。実は差別を無くそうとしていなくて、差別的な態度をしない自分で在りたいだけ。差別的な態度をする人とは深く付き合いたくないから、大事な人にだけそういう言葉を使ってほしくないだけ。矢印は、全部自分に向いている。

こっわ。きっも。
自意識。
恐ろしい自分の自意識に気がついてしまった。

 私が使わない言葉は基本的には、差別を嫌ってのものが多い。だが、あくまで私は「差別的な態度を取らない自分になるため」に言葉を選択している。つまり私が興味があるのはただただ自分の在り方の問題に対してであって、差別構造の問題自体には取り組んでいないのだ。

 なぜか。
 きっと自分のちからも、大衆のちからも、信じていないからだ。私や友人やA子ちゃんが言葉を選んでも、別の誰かが誰かを傷つけるだろうと、諦めに似た思考停止をしているのだ。

 でも本当はそうじゃない。社会は、人が造っているから。大衆が造っているから。人が変われば、無くせる暴力や差別があるはずなのに。

 自意識にしか目が向いていなかった自分が表わになり恥ずかしい限り。


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