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「使わない言葉」に表れるもの

以前「寛容」という言葉に抵抗があることについて書きました。

そのほかにも、わたしには普段、意識的に使わないようにしている言葉が、いくつかあります。

認める/理解がある
~してあげる
~させる

「なんとなく偉そうな感じがしてやだ」と思っていましたが、もう少し突き詰めて考えるとこれらの言葉には「上下」がある、ように思われるから嫌なのかもしれません。

寛容になる側が上、なってもらう側が下
認める側が上、認められる側が下…
というように。

例えば、ハラスメントを受けた被害者に第三者が「もう少し寛容になってあげて」などと声を掛ける場合、加害者を矮小化し、被害者側が大人になって一段高いところから広い心で受け止めてあげましょう、というニュアンスが含まれると思います。

でも、本当の力関係は加害者側の方が強い(場合が多い)ので、そこに認知の捻じれが生じるのです。

被害者側が「寛容になる」ことは実際には、言葉通りの「譲歩・歩み寄り」ではなく「屈服・泣き寝入り」になる可能性が高い。

上下の意味が含まれる言葉には、こういう危険性があると思うのです。

わたしは他者を見下したくない。
対等な関係性を築きたい。

だからわたしは、これらの言葉を使わないようにしています。

一人ひとり全く異なるわたしたちが共生していく為に、カレー沢薫さんが仰っていた定義がすごく、しっくり来ます。

多様化するというのは、自分は普通だけどマイノリティも受け入れますよ、と大上段から構えることではなく、人の数だけ「普通」というものがあり、自分の普通もその一つに過ぎないと理解することなのかもしれない。

カレー沢薫「カレー沢薫の廃人日記 ~オタク沼地獄~」

わたしの「普通」もまた、数ある「普通」の一つに過ぎません。
だから強制もしないし、その言葉を使う人を否定もしません。

でも、その人がどの言葉を使うか、使わないかには、人柄や来し方が如実に表れるなと感じます。
あなたが敢えて「使わない言葉」は、ありますか。

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