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日の名残り 職人気質な執事の物語

著者 カズオ・イシグロ
訳 土屋政雄
出版 早川書房 2001年発行 2020年45刷

あらすじ

一言で言うなら
「偉大な」執事とは何か?(日の名残り p162)
ということを極めているプロ・バトラー=職人執事のおじいちゃんの回想録であり、背景に様々なテーマを秘めている小説でした。

古き良きイギリス執事のプライドにかけて人生を執事業に賭けてきた生真面目な男スティーブンス。彼はプロ根性の職人、The職人バトラー(執事)
かつてはイギリスの名家ダーリントン卿の執事だったが、第二次世界大戦後、卿亡き後、物語の舞台となるダーリントン・ホールはアメリカ人に売却された。そのアメリカ人の執事となり、屋敷に留まっていた。
そんなある日、主人の留守の間、自身も旅に出ることを許可される。
プロ執事、スティーブンスの哀しくも滑稽でユーモア溢れる生き様を、彼は旅の間、回想し、語る。

人生の中で、時代の変化と共に、価値観そのものを変えなければならない主人公スティーブンスの苦悩もよく伝わってきます。

登場人物

スティーブンス 主人公で職人気質な執事
ミス・ケントン ダーリントン卿時代の主人公の同僚
スティーブンス・シニア 主人公の父で副執事
ダーリントン卿 ダーリントン・ホールの主人、スティーブンスの雇主
ファラディ 戦後、ダーリントン・ホールを購入した現在のアメリカ人雇主

背景となるテーマ

「日の名残り」は単なるイギリス老紳士のお話ではありません。

いくつか普遍的なテーマがあり、風刺しているように思えます。

イギリスとアメリカの価値観の違い
伝統を重んじるイギリスの階級社会
第2次世界大戦直前のイギリス宥和政策
職人魂

以降ネタバレを含みます

以降ネタバレを含みます

以降ネタバレを含みます

イギリスとアメリカの価値観の違い

物語の最初の章、プロローグにて、両国の価値観が浮かび上がり始めます。

「おいおい、スティーブンス。ガールフレンドに会いにいきたい?その年でかい?」
決まり悪いことこの上ない瞬間でした。ダーリントン卿でしたら、絶対に雇人をこのような目にはお遭わせにならなかったでしょう。
日の名残り p24
私は冗談のことで悩んでおりました。
日の名残り p27

こうした主人公の発言で故ダーリントン卿と新しいアメリカ人雇主ファラディの対応の違いや、そこから窺い知る両国での伝統に対する考え方の違いを推し量ることができます。

イギリスのウィットとユーモア、アメリカのジョーク。

スティーブンスはこれらの違いに悩みながらも、現在のアメリカ人雇主にできる限り合わせようと滑稽なぐらいに涙ぐましい努力と配慮を試みます。

伝統を重んじるイギリスの階級社会

イギリスでは現在でもエリザベス女王をトップとした階級がはっきりとしていると思います。しかし、第2次世界大戦前は、現在とは比較にならないほど、伝統と格式を重んじる階級社会だったようです。

その伝統と格式の中で、イギリスの伝統職、執事業を生業としてきたスティーブンスにとって、戦後のイギリスの変化に対し、馴染むのに苦労したに違いありません。

何十人、何百人といった使用人達をまとめ上げ、城を守る、名家を守るという職、執事業。

イギリスの階級社会ではなくてはならない職だったように思えました。

第2次世界大戦直前のイギリス宥和政策

宥和政策とは?

ミュンヘン会議と宥和政策

1938年、ヒトラーがチェコスロバキアの要衝ズデーテン地方を要求したことを受け、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア4カ国の首脳会議がミュンヘンで行われた(ミュンヘン会談)。イギリスのチェンバレン首相は、反共主義のためと、平和主義のためと、戦争準備の不足からドイツの要求をのんだ。なお、チェコスロバキアの代表は、会議に参加することも意見を提出することも認められなかった。
ヨーロッパ中では世界大戦が回避され、平和が訪れたという喜びに包まれた。特に立役者チェンバレン首相は讃えられ、パリでは街のひとつを「チェンバレン」と名付ける動議が提出されたほどであった。
Wikipediaより

ダーリントン卿のモデルはチェンバレン首相だったのでしょうか?
当時のこうした政策には現在是非論がありますが、物語の中でのスティーブンスは、ダーリントン卿の「善」を疑うことなく、忠実なる執事として従います。

卿が国際政治に果たされた役割について、とんでもないでたらめが大量に言われたり書かれたりしているようです。
日の名残り p85
あの夜のご訪問は、ハリファックス卿と当時の駐英ドイツ大使リッペントロップ様の間で行われた、一連の「非公式」会談の初回でした。
日の名残り p192
中略
もちろん、今日では、リッペントロップ様はペテン師だということになっております。ヒットラーは、できるだけ長い間、その本心をイギリスから隠しておきたかったのだリッペントロップの唯一の任務は、イギリスでの隠蔽工作を指揮することだったのだ、と。それが、いま、一般的な見方でございまして、私もここであえて異を唱えるつもりはありません。
日の名残り p193

これらから、ダーリントン・ホールでのドイツ大使を交えた会議が行われ、ダーリントン卿が宥和政策に関して重要な役割を果たしたことが想像できます。そして、スティーブンスはナチス・ドイツに対して彼なりの考えもあったようです。それでも、スティーブンスは表にそれを決して出すことなく、主人のダーリントン卿が平和への善意の末の決断であったと、信じ貫きました。

職人魂

「そうですか。完結にということであれば、(中略)父さんがこのお屋敷で仕事をつづけるのはかまいません。しかし、お屋敷の円滑な運営にとって、とりわけ来週の重要な国際会議にとって、父さんがいわば危険人物になったことを認めねばなりません」
日の名残り p91
中略
ほんとうに、「まるで落とした宝石でも捜しているかのように」父は地面を見据えたまま歩いていました。
日の名残り p93
「いま行けば、父の期待を裏切ることになると思います」
中略
「いえ、ただいま医師がこちらへ向かっております」
「なるほど。医者を呼んでくれたのか?それはよかった」
日の名残り p155

父であるスティーブンス・シニアのために呼んだ医師を主人の来賓客(靴が合わなくて不平不満を言い出した)へと回しました。


私はそのまま足早に部屋を出て、やがて満足できるフォークを持ってもどりました。
中略
結局、ご主人様がお気づきになるよう、ある程度大きな動作でフォークを置くのがよかろうと判断いたしました。
日の名残り p199
「もちろん、現在の雇主のもとでは、事情はすっかり変わってしまいました。私の新しい雇主はアメリカの方なのでございます」
日の名残り p348

親子揃って、職人気質であるスティーブンスとスティーブンス・シニア。
父親の死の時も、伝統の違うアメリカ人の雇主になっても、職務を全うしていました。

「偉大な」執事とは何か?
日の名残り p162

バトラー=執事という職における美学の徹底ぶり。同僚の女中頭ミス・ケントンとの恋愛も諦めるほどでした。ドア越しに泣いていたミス・ケントンを諦めた時も、父の死を二の次に職務を全うした時もスティーブンスは断腸の思いだったのではないでしょうか。

プライベートを断ち切ってまで職人としてのプライドにかけて生きている姿が彼の発言から滲み出ていました。

おわりに

本書はイギリスのソーシャルクラスや戦時中のナチに対する宥和的政策、伝統を守るための伝統への風刺かもしれません。しかし、それ以上に職人スティーブンスの職人魂の執事論として読むと、徹底されており、面白いです。
最後もポジティブに締め括られていました。

スティーブンスが旅の終わりで出会った老人に諭される場面は僕自身も勇気づけられました。

「後ろばかり向いているから、気が滅入るんだよ。」
中略
「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。
中略
脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。」
中略
人生が思いどおりにいかなかったからと言って、後ろばかり向き、自分を責めてみても、それは詮無いことです。
中略
しかし、それをいつまで思い悩んでいても意味のないことです。
日の名残り p350-351


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