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旋律の緩やかな変化

ひとりの中の数多のアイデンティティ

ひとりの中には沢山のアイデンティティが点在していてそれらは緩やかに揺らぎ続けているように思う。

民族的なアイデンティティって何だろう。
言語だけでなく、建築、絵画、音楽といった文化や芸術と常に表裏一体で本来ならば緩やかにうねりながら円弧を描き続けて、湖面に投げ込まれた小石が造る波紋のように常に変化しながら永劫回帰的に広がると思うのだ。

色々な国の民謡はそうした意味でとても興味深い。

アイデンティティの表象としての音楽の旋律

『愛』というチェコの民謡を聴いた。
とても美しくて心惹かれた。

民謡や童謡というのは、発話旋律──話すような音階の旋律──になっていることがほとんどらしい。

試しに知っている童謡や民謡を歌ったり、歌詞を朗読してみて欲しい。

チェコの作曲家#ヤナーチェク は#発話旋律 の技法を「魂を覗き見るための窓」とし彼の多くの作品に取り入れている。

ヤナーチェクのグラゴール・ミサは一般的なキリスト教のミサ曲というよりも、どこか森や川のうねりを感じ、汎神論者なのかとすら思わされるほどであり、ダイナミック。

正直言って僕はあまりヤナーチェクの#シンフォニエッタ が理解できないでいた。
なぜ、理解しようとしたかと言うと、僕の大好きなチェコ人亡命作家、#ミランクンデラ がヤナーチェクをいつも取り上げるから。

そのせいか、クンデラの本を読んでいて僕の頭の中に流れてくる音楽は、ヤナーチェクや#シェーンベルク ではなくて、#マーラーか#ピアソラ か#ジプシーキングス だ。

けれども、昨日の夜、クンデラの#無知 を読みながら前述のチェコ民謡とグラゴール・ミサを聴いて、少しヤナーチェクが好きになれる気がした。

時代や空間で変化してゆくもの

発話旋律が発話からくるのならば、その発話自体の抑揚や言葉の意味の変化、言葉自体が変われば当然ながら発話旋律も変わってくるのではないだろうか?

これについて、ミラン・クンデラは、『笑いと忘却の書』第五部、『リートリスト』にてわかりやすく描いているように思う。

愛において、相手との絶対的な同一性願望が打ち砕かれた時、愛は大きな煩悶の源となる。
そのことを「リートリスト」と言う。

日本語だとこれに的確な言葉は何だろう?

人間に共通の未完成について深い経験のある者は、比較的「リートリスト」の衝撃を免れる。みずからの悲惨の光景など、その者にとっては平凡でつまらない事柄だからだ。したがって「リートリスト」は、未経験の年齢に特有のものだといえる。それは青春時代の装飾のひとつなのだ。
『笑いと忘却の書』ミラン・クンデラ 集英社文庫 p201-202

『無知』でも時代の変化で変わってしまったことへの哀愁を描いているように思う。
しかし、登場人物たちはそれを哀愁とし、リートリストを免れてもいる。

このリートリストの変貌、あるいは、変奏について、『笑いと忘却の書』第六部『天使たち』でクンデラは「悪魔的なものから解放された」と表現しているように思う。

これは、ニーチェの精神の三段の変化と通じる。
未熟な精神は砂漠のラクダから獅子のようになり、獅子から人間が成熟すると精神は幼子へとなる。

時代や空間で本来変わることのない、普遍的なものだった。

しかし、いま、どうだろう……。
時間に追われ、情報だけは溢れて、ややもすれば自分の意志なのか、流されてそうなっているのかすら判別し難いときもあるあらゆることの指向性。

何もかもが平板で無機質なものに見えてくる時もある。

そのとき、発話旋律は、シェーンベルクの無調とも古典からの調性とも違う、極めて平板で無表情な旋律を表象するのではないか?

異なる民族でもヒトは本質的にホモ・サピエンス

自分の民族的なルーツをたまに考える───それは、さまざまなアイデンティティのひとつでしかないし、僕は民族主義者ではない。

リートリストにあたるものも、民族が異なっていても共通に思う。

民族と民族の差で亀裂を産むのではなく、共通する何かを大事にすべきだろう。

民族が異なっても共通することがほとんどではないか?

無表情ではなく、温度と色彩の豊かな旋律が個々の差異からあるいは自己の内面の差異から生まれる。

大らかになって、差異も個性も寛容になり、ダイナミックな旋律を朗らかに謳っていたい。

それに、できることなら、ホモ・サピエンスではなくボノボになりたい。

なんのはなしですか

昨日、ショパンのプレリュードop.28 no.21について「あなたが弾くと、夏みたい、性格が出てるなぁ」と妻に言われた僕。

「僕が秋を表現したくても夏になるのは、夏がアイデンティティのひとつなのかもしれない」

と不意に思ったラテン民でもある僕。

湖面にキラキラしながら舞う落ち葉をピアノで表現したくても出来ないけれど、大海原ならできそうだ。

民族、領土問題で起こる争いは殆どが自制心を完全に失った欲望しかない一部の覇権主義者らや利害を享受している者たちが引き起こしいるように見える。

文明的になればなるほど感性は平板化するし、ステンレス製の心になる。

詩は音楽にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である。
ヘルマン・ヘッセ

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