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中二病の俺の駄文の耐えられない軽さとGipsy Kings

縦書き版

真面目な簡易的感想

集英社文庫版とfolio 英語版を読んだ後の再読として、著者が最終版としたフランス語版決定版の翻訳である河出書房新社版を読んだ。 
また、中欧の歴史やドゥプチェク元大統領、ハヴェル元大統領らの著書を併読。 キッチュとは切り離せられない人間の実存に迫るクンデラの想いを僅かに受け取れた気がする。
永劫回帰や偶然と必然を反キッチュとのコントラストとして取り上げているが、やはり、突き詰めると、二項対立的な境界は曖昧であり、曖昧だからこそ人生における重みや軽さというものはパラドックス的だが、永劫回帰に帰結するのだろう。

永劫回帰との僕の浅はかな感想はこちらで随時更新

横書き版

これは、ミランクンデラの代表作品ともいえる『存在の耐えられない軽さ』を再読していた1か月間に起こった俺の身の上話である。再読は河出書房新社のフランス語版からの新訳決定版を選んだ。少し高かった。表紙がかっこいいから気に入っている。
感想をまとめながら、俺はベートーヴェンではなく、Gipsy KingsのA Mi Maneraを聴いていた。

サルトル仮称さんですか?と、見知らぬ電話の女は言った。俺は、そうです、どちらさまですか?と尋ねた。見栄子です。わたくしどもの出版社である小説家を目指してらっしゃる方々を数名募って、リレー作品を11月号に掲載しようと思うのですが、参加してみませんか?と聞いてきた。俺は見ず知らずの女に、どうして僕を指名されたのですか?と逆に聞いてみた。女は俺の作品が気に入ったことを140字きっかりに俺に伝えて、唐突に電話を切った。

こうして俺のコラボ未遂事件が始まった。

俺はこれまでの散文をすべて愛する妻シモーヌ仮称に読んで聞かせる為だけに書いてきた。シモーヌが最後には笑ってさえくれればそれでよいのだ。それらは2000字くらいのときもあれば8万字ほどのちょっとした中編になるときもある。大体は、俺の身の回りで起きた、とるにたらぬ小さな出来事をありったけのエログロにしてぐちゃぐちゃにまぜたあとに、最後にはシモーヌを登場させて、ハッピーエンドで終わるようにしている。一度だけ、6万字の作品でシモーヌを登場させた際、途中で彼女を俺が首絞めセックスでうっかり殺してしまうという設定にしたこともあるが、その時は、くそみそに泣きながら、殴りかかられ、作業場で寝ろこの馬鹿やりチン男!とののしられた。だから俺は終盤の数ページを追加し、見事にシモーヌを生き返らせた。

これは、ミランクンデラの代表作品ともいえる『存在の耐えられない軽さ』を再読しての感想文ではない。感想文はいつかちゃんとしたものを書けたら書きたい。あるいは、書かないかもしれない。

ともかく、俺の書く散文は全て、シモーヌに捧げている。それでだ。そのコラボも俺は形はどうであれ、彼女を笑わせるために、いつもの西村さんとハナオカを登場させて2万字弱ほどを週末に書き上げた。テーマは既に決められており、文化祭などのシーズンともあって、学園モノだった。俺には、正直、無理難題なテーマである。なぜならば、俺は学園生活というのは中学で終わっており、高校は夜間定時制に仕事しながらかよっていたため、学園生活とは程遠い10代を過ごしたから想像できないのだ。当時彼女はいたけれども、4年ほど付き合った挙句の果て、俺の不甲斐なさで、あっけなくフラれた。書く以上俺には責任が付きまとうから俺の体験からしか書けない。俺の最近ハマっているミラン・クンデラという作家も、ほぼほぼ彼の激動の人生そのものからモチーフにしている。

クンデラの初期の作品のいくつかは、明らかに、彼のプラハの春が根底に流れていて迫真を持って読み手に熱い何かを伝えてきている。おそらく、クンデラも俺と同様に、あるいは、俺よりも重度の中二病なのだろうけれども、彼の文化面でプラハの春を支えようとした功績は大きい。1968年、宇宙の果てでまだ塵ともなっていなかった俺でさえ、彼の作品から、いかに苦渋の決断を迫られて自身の作品を故郷で書くことを断念せざるを得なかったのかなど、読めばとにかく、わかるくらいに、シニカルにプラハの春前後の人間模様を描いている。

とくにキッチュ、クンデラの言葉を借りるのであれば、存在との無条件の一致の審美的理想、糞が否定され、めいめいがあたかも糞など存在しないかのようにふるまう世界、ようするに綺麗事を彼なりの人生からくる世界観で問題提議している。そして彼のいうとおり、キッチュからは逃れられないしキッチュこそが人間の実存を顕す氷山の一角のようなものかもしれない。

全体主義的キッチュの王国ではあらかじめ回答が用意されており、質問するということは許されない。だから全体主義的キッチュの真の敵は質問者ということ。

電話の女に俺は質問しようとしていた。テーマは僕たち参加者で決めるんですよね?と。すると女は、矢継ぎ早にテーマをごり押ししてきた。俺の散文が好きな割に、凄まじくきれいごとまみれの世界で、きれいな10代ときれいな恋愛のテーマを押し付けてくるから、恐らく俺の散文なんて140字くらいしか読んでいないのだ。サビナじゃないけれど、俺の敵は電話の女でもコラボ仲間でもなく、まさしくそうした押しつけがましい振る舞いそのものと風潮そのものだった。

かつてはローマ帝国ともいえたビザンツ帝国が侵略主義的、帝国主義的色彩に塗り替えられ、ついには旧ソ連の影響が強まり、民族主義的な汎スラブ主義えではなく、労働者の国際主義を無理やり標榜したように、その時、俺は綺麗な青春学園SF物語の補完を無理強いされかけていた。

それでも何とか俺は2万文字弱のいつもの俺のスタイルの中身のない短編を書いた。綺麗な学園モノにはできないから、適宜、主人公の少年とヒロインをセックスさせておいた。ゴムなしでやった少年とヒロイン。少年は賢者タイムで茫然とし、ヒロインは我に返って茫然とする。クンデラなら、きっと冷たい意志で少年に中出しさせた描写を書くのかもしれないけれど、一応綺麗な青春学園モノというトップダウン的な決まりがあるから、それはあからさまにはできない。だから、二人は茫然とした、とだけ書いた。テレザのトマーシュへの愛のカタチは一般的なものだ。他者のなかに愛を欲していたから、トマーシュにとって彼女の存在は重くのしかかった。それは、ただただ、理解しあい一緒に生活をすることができるようになる初歩的な言葉を教えるだとかそういう無欲の愛とは真逆のものだ。俺の学園モノの少年とヒロインはそんなことを意識するような年頃ではない。欲望にしたがってセックスして、子どもができたらどうしようとヒロインが一瞬我に返るのみで、少年の方はまったくもって賢者タイムでしかないのだ。無責任なそんなセックスをどうして書く必要があるのか?俺にもよくわからない。けれど、恋愛したらやるでしょ?だから書いた。少年とヒロインの関係がサルトルとボーヴォワールのような必然性の中での関係だったかどうかなんて、17歳じゃわかりっこない。そうして、俺はヒロインを物語の中で死なせて少年から奪い去って、少年は喪失感を覚える。それでもそのままだと、俺の愛するシモーヌが読んだら、悲しむだろうから、ハッピーエンドにするために、俺は少年を夜行バスに飛び乗らせて、人生を自らの手で切り開くスタート地点を予感させる終わり方に変えた。クンデラの作品は大抵、みんなヒロインがあっけなく死ぬ。死にっぱなしだ。とくにそれが絶望的な書かれ方はしていない。かといって、希望の中で死ぬ描かれ方もしていない。必然として死ぬのだ。生まれてきて寿命が来たから死ぬ登場人物もいれば、その後どうしたのかわからぬ登場人物も、もちろんいる。クンデラは「こうであるべきだ」と主張しない。トマーシュは逆に、「こうであるべきだ」と勝手に足かせをかまして重みの中で、その重さにまた救われたりもしているのだが、あーでもない、こーでもないとやらかす。テレザの愛はトマーシュのアイデンティティを否定してしまうことになりかねないほどの重さを持っていた。真剣に愛していたともいえるだろうし、テレザはトマーシュを通して自分自身の実存を見出そうとしていたのかもしれない。要するに、個として独立していないのだ。たった一回こっきりかもしれない、トマーシュは第5惑星まで転生したかったかもしれないが、人生を真に生きなければ何の意味がある?むろん、そこに意味を見出そうとしなくても、生まれてきた以上、生きるわけだが。ある日突然、妊娠してるみたいなの。って彼女に言われて、否応なしに、法律上、父親になるとする。その瞬間から、全責任がのしかかってくる。子どもはそんな責任をなすりつけるつもりなんてこれっぽっちもない。そこに意味なんてない。あるとしたら、受精する一瞬前に愛してるとか、好きだとか何かしら言ってたり、あるいは、心から愛しているのかもしれないけれど、その結果、細胞分裂が始まって人生がはじまるわけだ。そこに意味なんて必要あるのか?一緒に生活していたら、愛が育っていく。不幸にも愛が育たない場合もあるかもしれないが。

これは俺が否応なしに気づいたらシモーヌを妊娠させていてお父さんになったという話だ。シモーヌと娘リサ仮称が俺にとって重荷かどうかなんてのは考えたことがない。無責任かもしれないが、重荷という概念とは彼らはかけ離れた存在なのだ。

トマーシュなら、偶然、彼女が妊娠して、偶然、娘が生まれてきた。その瞬間にドイツの格言を繰り返し、自分自身に言い聞かせる。
Einmal ist keinmal
かもしれないけれど、俺にとっては全ては偶然ではなくて必然でしかない。ともかく責任だとか重い、軽いだという簡単なくくりではない。

テレザは夢を見る。マロニエの木の前で処刑されたいかどうか意志を尋ねられる。
反キッチュなクンデラは、俺の感覚では、サルトル嫌いに思えるが、何故か嘔吐をオマージュしているように見えた。本作品もまぎれもなく実存小説なのだろう。

金曜の明け方、電話が鳴った。もしもし?サルトルさんにお聞きしたいんですけれど、これってわたしを非難されてます?受話器の向こうで一方的に見栄子が話始める。前日に、連載用の下書きの2万字弱を見栄子に渡していた。どの辺ですか?僕は身近な人しかモデルにできません。なんとか2万字弱書きましたが。註釈など必要ですか?と俺は聞いた。すると電話の向こうで、不快な表現が多すぎるので、修正してください、と言いながら、見栄子が歯磨きをする音が聞こえた。歯ぎしりではなくて、明らかに歯磨きしている音だった。その日の夕方、何人かのSNSの読書をしていそうな人たちに読んでくれるように頼んだ。俺の2万字弱のどこがいけないのか、指摘が欲しかった。すると、たった一人だけ真摯に受け止めて、読んでくれた。そめかわさんだ。彼は俺の駄文2万字だけでなく、俺がシモーヌの為に書いた自伝もどきの6万字も無理やり読まされた。(そめかわさん、ありがとうございます。とても感謝しております)そうして、その夜、再び、見栄子から電話がきた。俺は、誤字以外は修正したくありませんし、これは状況的に似ていたとしても、見ず知らずのあなたのことをどうして書けるんでしょう?と訴えた。クレームが来ています。不快な表現をやめてください。中身がないのはわかってますけれど、その上さらに不快な文章で何がしたいんです?と、見栄子が言った。俺は、書くことは愛する事って何度も作中人物に言わせてます、時代遅れかもしれませんが、これは実存小説なんです。と訴えて引き下がらなかった。すると見栄子は一方的に電話を切り、俺は彼女の電話番号を着信拒否にした。イライラしながらシモーヌに一部始終をきかせていると、どんな話を書いたの?と不審そうに俺のiPhoneを覗き込んだ。俺はいつもiPhoneのメモで書くのだ。この前、iPhoneでこれまで数万字単位の日記を書いてきたことを西村さんに話したら、信じられないといった表情でカツラをすこし斜めにずらした。俺は、西村さんを驚かすことに成功した自分が誇らしく思えた。西村さんというのは、俺の仕事仲間で、断熱施工を専門としている業者さんだ。

平家物語の冒頭を念仏のように夜泣きしはじめたリサに聞かせた。

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

すると、リサはモスグリーンのロンパースに着替えて俺を手招きし、シモーヌを叩き起こした後、ロケットの始発に乗り遅れないようにしないとだめですと言わんばかりに、俺とシモーヌに微笑んだ。俺はリサを抱きかかえ、シモーヌの手を握りしめて、ダッシュで七里ヶ浜ロケット発射場に向かいなんとか始発に間に合った。

日常のこうしたロケット始発への慌てて乗り込むこと。

すなわち、日常の反復。それが幸福であり、リサの微笑みと握りしめたシモーヌの手は俺にとってカレーニン的な無条件の信頼のまなざしなのだ。

いつか、まともな感想を書こうと思う。

この物語はフィクションです。


俺の糞ほどどうでもいい短編「妄想力の問題」

きっとこれに妄想の断片を挿入するか、挿入したあとの妄想力の問題をサルトル先生とシモーヌに挿入してぐちゃぐちゃにする予定。


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