薪岡シスターズのとるにたらない愛すべき日常
細雪
著者 谷崎潤一郎
初版 1936年
本投稿はネタバレ、グロを含みます。
ネタバレや表現が嫌な方は本投稿を飛ばしてください
はじめに
本投稿はネタバレ、グロを含みます。
ネタバレや表現が嫌な方は本投稿を飛ばしてください。
有名なこの一文で始まる谷崎潤一郎の『細雪』を読んでみた。
こいさんと呼ばれる妙子
雪子
幸子
これから始まる薪岡シスターズの名前である。
まず、驚いたのは、この流れるような美しい一文で3人の登場人物と様子が手にとるようにわかることだ。
谷崎潤一郎作品が好きで、だいぶ読んできた。
谷崎と僕との出会いは、小学六年生くらいだったと思う。祖父の本棚にあった全集で、刺青か痴人の愛を読んで子どもながらにドキドキし、読んだことがバレないように本棚に毎回、元にあった時と同じようにケースの位置をよく確認して戻していた。
あろうことか、読書感想文に刺青の感想を書いて、先生に「卍丸くんっておませさんなのね」と言われ、褒められたと勘違いした僕は、あっさり祖父に刺青の話をし、祖父は「一番下の孫が小学生で谷崎を読んだ」と謎の自慢を近所の人たちにするようになった。
そんな谷崎との長い付き合いの中で、代表作品である細雪はまだ読んだことがなかった。
エロいというのはぼんやり感じたが、本来の谷崎の良さ、やはり小学生ではわからなかったんです。
大人になって、ここ最近、谷崎ブームが自分の中で起きていた。
その流れで未読の本書を読もうと決意し、パラパラと読み始めた。
本作のテーマ
薪岡シスターズのとるにたらない日常は、このあと述べるが感覚的にはドストエフスキーのカラ兄朝ドラ版的な感覚で特に大きな事件が起こるわけでもないのに、なぜか面白く、1000ページ前後ある本書を数日で読んでしまった。谷崎らしくそこには女性の実存が描き出されており、また、姉妹からは強い家族の絆を感じたり、やはり、時代背景を感じさせられたりもした。
また、ここ最近は数人の哲学者たちの『笑い』に関する考察を読んだりしてもいて、人びとの実存や笑い、といったテーマを念頭に読んでいた気もする。
細雪のモデル
さて、この細雪は谷崎潤一郎の3人目の妻、松子の生い立ちがモデルとなっているのは周知のとおりでもある。
細雪とカラマーゾフの兄弟
ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟』の日本版という感じがしなくもない。
カラマーゾフの兄弟ほど良い意味で深くない。
太平洋戦争が本格的になっていく時代背景をほのかに持ちながらも、芦屋の落ちぶれかけた旧家の四姉妹の半生が描かれている。
そして、ドストエフスキー顔負けに、色々な登場人物たちが、よく喋る。
三姉妹や彼女たちと関わる人びとの心理描写が非常にきめ細かく描かれており、彼らの心情がそれこそ表題の細雪のごとく、静かに降り続く。
雪子の縁談は、人の成長のようにも見てとれた。
若い頃は傲慢さや若さの衰えなど考えることもなしに受けいられて当然と考える。
だから雪子は悠長に身の程を考えることもなく、構えている。
しかし、縁談を二度向こうから断られる。
旧家は既に旧家でしかなく、没落気味であることや、若さゆえの特権が既に綻び始めていることに否応なしに自覚せざるを得なくなっていく。
最終的には、妥協点を見出し、なんとか旧華族との結婚へと向かう。
人間、誰しも、自分の自信のあるものが大したものではない、と気づいたとしても、それを自覚して受け入れるには、勇気やら経験がいるのかも知れぬ、と雪子を見ていて思わされる。
妥協点を見出すというのは、他者と自己との間よりも、自分の内なるもので見出すときは前者のそれよりも困難な時が多々ある。
心理、意識の流れ
芥川龍之介は『文芸的な、余りに文芸的な 』の中で、谷崎を「スタンダールの文章よりも名文」と絶賛している。
また、構成的美観について、谷崎の「筋の面白さを除外するのは、小説と云ふ形式が持つ特権を捨ててしまふ」すなわち、論理的に筋を導くことが日本の小説に欠けているとする谷崎の意見に対して、やや疑問を投げかけている。
構成力は勿論谷崎は優れている、と芥川は評しながらも、谷崎は詩人的である、というのがそこにはある。
確かに、芥川龍之介の指摘するように、谷崎の美文は論理的な構成を意識させることなく、人物たちの意識や心理の流れを見事に読み手に伝えてくる。また、その美文のひとつひとつの名詞をオブジェとするならば、それらが散文詩的に、つまり、言葉の結晶化された美、として流れてくるのだ。
細雪はそうした心理、意識の流れを随所に含む。また、登場人物たちの会話の豊穣さもその効果を促すための機能を果たしている。
戦時下の谷崎潤一郎の思い
本作は他の谷崎潤一郎作品とは大きく異なり、性的倒錯が表立って描かれていない。
無論、執筆時の軍国主義と谷崎の小説スタイルとの間にある隔たりを考慮すれば、当然とも見れる。
偶然にも谷崎はその頃、熱海におり、それ以上本書を追及されることはなかったが、自費出版までしようとしたからには、そこに、谷崎のさまざまな思いが込められた作品であるのには間違いない。
松子を含め、谷崎周辺で起きたことや、谷崎のミューズである松子がモデルとされる幸子の活躍ぶりを渾身の思いで書き、ミューズへの献呈を果たしたかった、というものだけではなさそうだ。
谷崎はノンポリと言われることが多いが、明らかに、そこには戦争や軍国主義への反駁など、当時の社会への疑問を本作を通じて投じているように思えてならない。
世俗的な日常に密着した実存
昭和の恋愛・結婚
昭和の生活の延長線上の不条理や理不尽とほんのりとした希望がまたとても良い。
恋愛や結婚相手の家柄、お見合い中の相手の身元調査など、僕の周りでは、あまり聞かない。
貞之助と幸子夫妻のおせっかいとも思えるような気の回し様。
妙子に好意を寄せる家柄格差のある板倉。
板倉は川の氾濫による災害から妙子を決死の覚悟で救出する。
家柄の格差などから、幸子たちは妙子と板倉のことを憂慮していたが、男気のある板倉のほうがまだマシだと夫妻は考える。
割とまともな部分も見て取れて少しほっとした。
この板倉さん、死に際もひとりひとりの名前をよぶなぞして、非常に律儀な男でもある。彼についてはもっと書きたいこともあるがここでは控えておく。
妙子を通して成長していく人々
4女の奔放な妙子も、お気楽自由奔放なだけではなく、試練をいくつか経験する。
板倉とのこと、三好との間の子のこと。
妙子の経験は生活の延長線上での生と死の経験であるが、その経験の先に何処かしら、淡々とした希望めいたものが見える。
時代背景的に、戦争の本格化する足音が聞こえてもいるが、不条理な戦争での生死というマクロ的なものだけではなく、谷崎の描く妙子の生活に密着した生死の経験が、妙子にしなやかな強さをもたせていくのではないだろうか。そしてそうした妙子を通して他の姉妹たちもが成長していくような、そんな希望が少し見え隠れした。
薪岡姉妹の生活は、ごくありふれた庶民の生活とはやや異なるかもしれないが、それでも、その当時の生活であることに変わりない。
そして、そうした日常こそが、生の連続性を保ってもいる。
下巻、物語の結末の最後の一文は、それこそ、生きているからこそ、憂鬱にもなるし、色々な新生活への不安も生まれ、たとえ、はんなりとした日本美人の雪子であっても、生きているただの滑稽な人間であることを強調しているようにも思えた。
滑稽、無意味さが笑いを誘うが、この「笑い」は世界の深淵でもあるのだ。
愛すべき滑稽な人間の生
下痢をするより普通に温かい湯気の立つそこそこ固形化されたウンコの方がいいが、ウンコができるというのは、生きている、ということだ。
腹を壊すと、「なんで俺だけ、私だけ、こんな目に合わないといけないんだ」という苦々しい思いと、脂汗とが体の穴から噴出し、肛門から水のような下痢を絞り出す。
その絞り出さざるをえない時、何を思うか?
対象なき「なんで」ではないか?
つまり、対象なき漆黒の闇、夜のような空無の中にこそ問いかけの深淵が口を開けているのだ。
この問いには、なんらかの因果関係を見出そうと思えば見出すこともできるかもしれないが、腹下し中、トイレでのたまう雪子にとって、そんなことは馬鹿げた小さなことでしかなく、因果関係なんぞより、現実の腹下しがさっさと終わってくれることをただひたすらに、ウンコを絞り出しながら熱望しているに違いない。
つまり、肛門が痛くなるほどかもしれない苦しみの中で、希望を熱く期待し、恋焦がれる。
しかも日本美人の雪子が、である。
ここにマゾヒズム的あるがままの生、つまりエロスが一気に結晶化されているのはおわかりいただけるだろうか?
おそらくだが、雪子が一番美しくエロスを解き放つのは、下痢から解放される寸前である。
解放された後、射精後の惚けた男と同じように、だらしない幸福感を一瞬感じ、下痢なんぞなかったかの如しに、あの希望を熱望した時間が醒めてしまうのだから、やはり、解放される一寸手前がエクスタシーの頂点となる。
そして、この対象なき問いかけと日常、瑣末な出来事で怒りや悲しみを覚えることにどこかしら類似したものを感じる。
薪岡姉妹も、そうした悲喜こもごものとるにたらない問いかけの連続、決してひとつとして同じものはない、まさしく差異と反復を永劫回帰的に繰り返しながら、生きている。
このあたりのエロティシズムこそが至高であり、戦争といった惨たらしく不条理なものへの反発心はバタイユともやや似通ったものを感じる。
ここまでのことをさらりと最後、一文で示す谷崎潤一郎の天才的な変態ぐあいが、最高としか言いようがない。
女性の実存と家族の絆
谷崎の刺青から一貫して見てとれる、始めはか弱い女性であってもたくましく生き抜く女性の女性としての目覚め、自立、したたかさを描き出すことで、女性の実存が本作でもテーマとして脈々と流れている。
鶴子の出番が非常に少ないためなんとも言えぬが、薪岡姉妹はそれぞれにかなりしたたかさを兼ね備えている。
谷崎は松子が大好きなのは当然のことながら、女性含め、「人」が好きなのだろう。
(お茶目な一面も書簡から見てとれるのだが)
そして、なんと言ってもやはり、家族の強い絆を感じる。
パンデミック以降、個人間の人々の分断を強く感じる。そして、現在起こっている時事問題の戦争や紛争でも世界の分断をやはり強く感じる。
強い家族の絆と人間のささやかな生活の中での実存を描いた100年近く前の谷崎潤一郎の本作は、現代の僕たちに人情の温かさと家族の絆、そして日常へしがみつくかのようにして生きることの愛おしさを訴え続けてくれているようでもある。
ハレルヤ薪岡シスターズ。
参考文献
「谷崎潤一郎全集 第十九、二十巻」中央公論新社
「芥川龍之介全集」から「谷崎潤一郎氏」、「文芸余りに文芸的な」岩波書店
「谷崎潤一郎の恋文」編者 千葉俊二 中央公論新社
「内的体験」ジョルジュ・バタイユ 平凡社ライブラリ
いただいたサポート費用は散文を書く活動費用(本の購入)やビール代にさせていただきます。