はじめに
フランス、パリ、ノートルダム大聖堂───カトリック教会でもゴシック建築の由緒あるカテドラル(大聖堂)のひとつだろう。
1163年着工、1345年竣工した。
この大聖堂には歴代の王の彫像が置かれていた。
カテドラルが完成した13世紀からフランスは王がさまざまに変わる。
時はブルボン王朝の太陽王、ルイ14世が王座を手にしていた頃、1712年にジャン・ジャック・ルソーはスイス、ジュネーヴで誕生した。
ルソーは子どもの頃不遇の境遇でありながらも、独学でさまざまな分野の学問と芸術を学んだ。
「人民が減り、衰微してゆく政府が最悪の政府である」 どこかの国は、いま、そこに直面している。
もっと移民や難民の受け入れ態勢をしっかりと法で定めて、彼らを受け入れて、2世、3世と根付いてもらえるようなシステムが突破口のひとつだと思っている。
ルソーの書き残したものや人生を追っていると、バイタリティと感性のバランスがやはり天才と呼ばれる偉人たちは違うのだろう、と思わずにいられない。彼はライプニッツやデカルトを読み、ギリシア哲学や啓蒙主義なども全て独学で学んでいく。教養をしがみつくかのようにして会得していく貪欲なエネルギーはどこからくるのだろうか。そんな彼は『運命論者ジャックとその主人』の著者、ドニ・ディドロと親しくもあった。
運命論者ジャックとその主人はミラン・クンデラがのちに戯曲としてリバイバルさせてもいる名著だ。昨年、僕はその影響で原作を読んだ。
話がどんどん偶然の出会いによって転がっていく様は我々の日常的に行われている出会い、偶然の体験やすれちがい───時代が変わっても何ら変わりないもの───とのシームレスでシーケンシャルな人生の流れそのものでもある。
子どもたちの環境と偶発的事象
子どもが誕生する───子どもにとって、世界はすべて、因果性などとは程遠い偶発的事象のまとまりであろう。
恵まれた環境で生まれてこようが、悲惨な環境で生まれてこようが、すべてはその環境から出発し、さまざまな偶発的事象と遭遇していく。
けれども、環境次第では決して遭遇できない事象もある。それができれば子どもにとって遭遇した方がよい事象であったとしても。
子どもらしく安心して多くを子どもとして体験し学習する機会の公平は、特に教育に関して、あって然るべきではないだろうか。