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いくつかの新装版──ディドロとルソー、アレント、サルトル

はじめに

フランス、パリ、ノートルダム大聖堂───カトリック教会でもゴシック建築の由緒あるカテドラル(大聖堂)のひとつだろう。
1163年着工、1345年竣工した。
この大聖堂には歴代の王の彫像が置かれていた。

火災発生(2019年)前のノートルダム大聖堂
2013年
Wikipediaより

カテドラルが完成した13世紀からフランスは王がさまざまに変わる。
時はブルボン王朝の太陽王、ルイ14世が王座を手にしていた頃、1712年にジャン・ジャック・ルソーはスイス、ジュネーヴで誕生した。

ルソーは子どもの頃不遇の境遇でありながらも、独学でさまざまな分野の学問と芸術を学んだ。

そもそも政治的な結社を作るための目的は何だろうか。それはその構成員の保護と繁栄である。それでは結社の構成員が保護され、繁栄していることを示すもっとも確実な特徴は何だろうか。それは住民の数であり、人口である。だから[善き政府について]これほど議論されている特徴を探して、ほかの場所に赴く必要はない。ほかのすべての条件が等しいならば、外的な手段に頼らず、帰化を考慮にいれず、植民などの手段によらず、市民の人口が殖え、増大してゆく政府が善き政府であることは間違いのないことである。人民が減り、衰微してゆく政府が最悪の政府である。統計学者よ、これからは君の仕事だ。数え、測定し、比較せよ
社会契約論 ルソー

人民が減り、衰微してゆく政府が最悪の政府である」 どこかの国は、いま、そこに直面している。
もっと移民や難民の受け入れ態勢をしっかりと法で定めて、彼らを受け入れて、2世、3世と根付いてもらえるようなシステムが突破口のひとつだと思っている。

ルソーの書き残したものや人生を追っていると、バイタリティと感性のバランスがやはり天才と呼ばれる偉人たちは違うのだろう、と思わずにいられない。彼はライプニッツやデカルトを読み、ギリシア哲学や啓蒙主義なども全て独学で学んでいく。教養をしがみつくかのようにして会得していく貪欲なエネルギーはどこからくるのだろうか。そんな彼は『運命論者ジャックとその主人』の著者、ドニ・ディドロと親しくもあった。

新装版
ラブレー、セルバンテス、スターンといったヨーロッパ文学の異形の系譜につらなり、シュレーゲルらドイツ・ロマン派の思考を刺激した後、現代においても『ブーローニュの森の貴婦人たち』のブレッソン、『ジャックとその主人』のクンデラといった芸術家たちを魅了しつづけてきた、ディドロ最晩年の傑作。フランス18世紀小説の白眉が、新たな訳でよみがえる。
うわべは「主人」とその従者「ジャック」のあてど知れない遍歴譚だ。旅する二人と出会う人びと、散りばめられたエロティックな小噺、首を突っ込む語り手らによる快活、怒涛の会話活劇が繰り広げられるが、とはいえその内実は、破天荒なストーリー展開、逸脱につぐ逸脱……主人はいつになったら、ジャックの恋の話を聞けるのか。「物語性」の決定的な欠如そのものが物語たりえていること、それこそがこの小説の身上だ。
運命論者――だとしても、人は誰しも筋書きのわからない、次の瞬間にはどちらに転ぶとも知れない曖昧な日常を生きている。ある意味ではこの酷薄きわまりない世界を、一片の悲哀を混じえることなくひたすら快活な笑いをもって描ききったこの傑作。
運命論者ジャックとその主人のあらすじ

運命論者ジャックとその主人はミラン・クンデラがのちに戯曲としてリバイバルさせてもいる名著だ。昨年、僕はその影響で原作を読んだ。

ジャック
わたしには事実。話すだけ、人物たちの発言を忠実に再現するだけにしてください。そうすれば問題の人物がどんな人間かってことは、すぐに察しがつくんです。わたしはほんの一つの台詞や、ほんの一つの身ぶりで、街中の噂話より多くのことを学ぶ、なんてことがあるんですからね。
中略
ジャック
人物描写ボルトレなんか、全部飛ばし読みですよ。
中略
ジャック
すみません、旦那。機械って奴は、一度動き始めると最後まで行くしかないもんでね。
運命論者ジャックとその主人 ディドロ

話がどんどん偶然の出会いによって転がっていく様は我々の日常的に行われている出会い、偶然の体験やすれちがい───時代が変わっても何ら変わりないもの───とのシームレスでシーケンシャルな人生の流れそのものでもある。

子どもたちの環境と偶発的事象

子どもが誕生する───子どもにとって、世界はすべて、因果性などとは程遠い偶発的事象のまとまりであろう。
恵まれた環境で生まれてこようが、悲惨な環境で生まれてこようが、すべてはその環境から出発し、さまざまな偶発的事象と遭遇していく。
けれども、環境次第では決して遭遇できない事象もある。それができれば子どもにとって遭遇した方がよい事象であったとしても。

子ども同士で外で泥んこになって遊ぶ日々を想像してみて欲しい。
子どもなりの友人を通して、笑顔、憤り、悔しさ、優しさ、仲直り、などを体験していく。
また、自然の動植物に触れ合って生命の尊さを目の当たりにする。
こうしたことは、ある程度、平和でなければ出来ない。
子どもの発達に従って、識字率を向上し、獲得した言葉で自分の考えを持ち、まとめ上げていくようにサポートするという教育。
これも、その子どもの置かれた環境次第では、受けられない。

子どもらしく安心して多くを子どもとして体験し学習する機会の公平は、特に教育に関して、あって然るべきではないだろうか。

人民は子供の似像である。誰もが平等で自由な存在として生まれたのであり、みずからの利益にならないかぎり、自由を譲り渡すことはない。ただし家族と国家には唯一の違いがある。家族においては父親は子供たちにたいする愛情から、子供たちの世話をする。ところが国家においては支配者は人民を愛することはない。ただ命令する快楽から人民を支配するにすぎない。
社会契約論 ルソー

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