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中二病による読書について

序文

つい先日、欲望の読書という自己啓発系の本を買ってしまった。
少し冗長的だが、序文を引用する。

ビジネス書は年間500冊ほど出版されているらしい。

私は最近のビジネス書や自己啓発書をほとんど読まない。実務レベルで必要な実用書と各社新聞は読みたい読みたくないに関わらず読む。

大概のビジネス書や自己啓発書は古典や世界の大思想シリーズに出てきている事をあーだこーだでどーだこーだとパロディにして押し付けてくる印象しかない。

買って金と時間を無駄にするくらいなら、古典や哲学書、ソース元のはっきりとしたジャーナリストたちのルポを読んで自分なりに考えた方がいい、と私は思っている。

大体、あらゆるジャンルの本は資本主義的な民主主義国家で、かつ、経済政治情勢が安定していなければ中々手に入れることも読むことも難しい。裏を返せば、読書は個々の置かれた状況に依存する。

人間は不平等な不条理の中で生きている。
しかし、時間だけは平等であり、人生は有限とも言えるからだ。精神は永遠だとしても。

それは即ち、ひとりが読める本の量というものにも個人差はあれども、限りがある、という事だ。ビジネス書や自己啓発書を読むことに費やすくらいなら、本を読むのを止めて誰かと愛を分かち合い、傷つき傷つけながらも色んな体験をしていた方が余程、生命力というエネルギーを充電できる。誰もがわかっていることでもある。

古典をなぜ読むかというと、紛れもない大ベストセラーだからだ。
思想哲学をなぜ読むかというと、様々な異なる文化や歴史や宗教が影響された、様々な考え方を知り、自分なりに考え抜く論理的な思考、知の欲求への刺激などを得て、自分なりの倫理を持ち、愛や生を讃歌する為だ。

と、私は考える。

哲学書はデカルトあたりまでは非常に簡潔でわかりやすい言葉しか出てこない。当たり前だが、論理的に書かれている為、小説を読み解くよりも易しい。プラトンを手にしてみればそれはきっとすぐにわかる。

すぐに誰かに聞いて簡単に知識を効率よく身につけようとするのは、やめた方がいい。それこそ本末転倒しかねない。自分で調べ尽くして自分なりに考えた方が圧倒的な快楽を得られる。

人間は生まれつき知への欲求が備わっている。これは遺伝子に組み込まれているのだ。好奇心を大事に、かと言って、ブレすぎる事なく、飽くなき探究心を持って本を読めることは幸せである。いかに恵まれた環境であるかということを念頭におきながら。もしもあるがままの自分でよい、と永遠に思うのならばそれはもう自己を人間として知っていない。

例えば、以下は私の本の読み方である。

本を読んでうっかり何か得てしまったら、さっさと忘れる。あるいは創作のパロディにする。
私の場合、目標はただひとつだ。
私の惑星獅子座レグルスと妻の惑星射手座εの愛と生の讃歌。
これが私の最も大きな、そして大切な目標である。はっきり言うと、ある一部のジャンルを除くが、本を読まなくとも困らない。

①読む前に歯磨きをする
②メモを取って、考えながら読む
③読み終わったら中二病日記をつけ妻に仲良くしてもらう為にお手伝いをする(却下されたら寝るしかない)
④1日後、1週間後、1カ月後に段々と記憶の底で熟成されにゆく。どうでもいいことなら熟成されず闇に葬り去られるかも知れない。

この4STEPで本を読み進めている。

ある日、閃光とともに、かつての本たちを読んで考えたことが、トリガーとして記憶の底から蘇る。そして、点と点が線で繋がる。
このようにして私は世界の大思想全集を読んだのだった。
己の確固たる信念や思想に基づいた目標のためではなく、ただ目先の役に立つ為にやる事ほど点でしかなく、好奇心でやる事ほど燦然と私の中で光を放つ可能性を秘める。

私の意識、精神、魂のベクトルは太陽へ向けて勃起する。
欲望の読書2022著 ジョルジュ・ひろイユ訳 卍丸
序文より引用

つまり、ここで著者ジョルジュ・ひろイユ氏が言いたいのは

本を読んでも読まなくても困らないけれど、古典や哲学書、ジャーナリストによるソース元のはっきりしたリポートなどを読むことは、何かを考える上で点と点が線で繋がるトリガーになったり、視座が高くなる方法のひとつ(十分条件ではない)

ということである。

去勢

カール・ヤスパースは著書『哲学の小さな学校』でこう言っている。

満足しない人間
人間はいかなる満足をも見出さない。
人間はもし彼が自分のあるがままにいたいとしか思わないならば、もはやほんとうに自己を人間として知っていない。
カール・ヤスパース 『哲学の小さな学校』 河出書房 世界の大思想

バタイユが、『魔法使いの弟子』の冒頭で「欲求がないということは満足しないことよりも不幸である」と述べてもいる通り、欲求とは生命力、バイタリティそのものであり、すなわち生命のエネルギーの要素の一つである、と僕は考える。

例えば、バタイユの『太陽肛門』の一節からはバイタリティしか感じられないほどだ。

「私は太陽である」と書いたとたん私は完全な勃起に見舞われる。
なぜならば、繋辞の動詞etre(フランス語の「~である」)は、愛の熱狂を運ぶ伝達手段なのだから
太陽肛門 ジョルジュ・バタイユ

これらから何を僕が言わんとするのか?

人の成長過程において、僕の10代のころを思い返すと、次のステップになっていたように思える。

step1.あるがままを肯定するリスクはヤスパースの言う通り、「自己を知れない」⇒傲慢さへと繋がる。
step2.あるがままを否定するリスクは、「自己を知る」
⇒「挫折」「絶望」「葛藤」
step3.葛藤や絶望した自分自身を受け入れて次へ踏み出す
⇒step2と行ったり来たりしながら確固たる信念の礎やその後の自分なりの思想の礎が緩やかに形成されていく。

当たり前だが、stepの順序や内容は人によってそれぞれ異なるであろう。

僕がstep2からstep3へ行くとき、そこにはいつも強い欲求があった。

前述のバタイユを逆説的に言うと、「人間は欲求がなくとも満足しうるが、不幸かもしれない」。

なぜなら、自己を知るにはそれ相応のバイタリティが必要条件だからだ。

バイタリティがない=去勢された人間は己を知らない。
すなわち、傲慢さに繋がる。
これは現代の我々にありがちでもある。
去勢された<私>のいくつかの特徴を考えてみる。

自己表現をしない
議論を避ける
他者に無関心
ノンポリ
すぐに迎合する
思想・哲学を持たない、あるいは、曖昧にする
思考停止

もっとあるが、要するに、確固たる信念の欠如とも取れる。

そうして自己を知ろうとしない事の延長線上には「傲慢」が手を広げている。
僕も傲慢な人間であり、もっと言えば7つの大罪的なものは全部持ち合わせているからカトリックでいうならば、僕は大罪人でもある。僕はバタイユのような聖者ではないのだ。

しかし、バイタリティが僅かでもあれば、また話は変わってくる。
大罪人のような僕でも僅かに希望が見えるということだ。
なぜなら、そこには自己を知ろうとする泥臭いプロセスを楽観的に耐えて、あるいは、楽しんで、死ぬ間際くらいまでには何とか、傲慢さが丸くなっているかもしれないからだ。

読書と経験

だから、バイタリティ、生きる力、希望を持つこと、自分を見捨てないこと、自分を信じ抜くこと、というのはかなり重要であり、そのためには多くの山越え谷超え、あるいは、超えられずに迂回するなりして日々を平々凡々と淡々と過ごさなければならない。

こうしたバイタリティは読書では培われない。むしろどれぐらいの葛藤力を経験から培ってきたかということのほうが重要である。

したがって、読書をするよりも他者と関わり、よく話し、よく議論し、葛藤し、相手を思いやり、愛を知る方が遥かに重要だということだ。

体験数というのも限界があり、それを補うための読書があると僕は考える。
ショーペンハウアーの言う通り、「読書はできる限りしない」方がいいのだ。それでもするなら、古典や視座を得るための様々な哲学書を読んでいた方が良いかもしれない。

いずれにせよ、自分の在り方に良書はいつかトリガーとなる可能性を秘めている。それを活かすも、形而上学的読書家としての知識だけにするのも個人の勝手といえば勝手かもしれない。

なぜか?

なぜなら、読書ができるというのは、環境的にある程度余裕がないと中々できない事であり、また、娯楽のひとつでもあるからだ。

娯楽、快楽、エロティシズムと読書について

エロティシズムを死に至るまで生を讃歌すること、と定義したとしよう。

娯楽なきエロスはエロスではなく、それはタナトスへとまっしぐらである、と僕は考える。しかし、放蕩を極めてよいわけではない。娯楽はエロティシズムの一環だからだ。
エロティシズムとは聖なるものに依拠し、人類愛と生の讃歌に満ち溢れているものだ。各々、社会的倫理の範囲で楽しむなら、誰にもそれは指図されるべきものでもない。

ひろイユ氏の序文とはパラドックス的だが、古典を読もうが、ラノベを読もうが、自己啓発書を読もうが、極論は、勝手にしてくれ、なのである。

しかし、それと同時に、娯楽であることを忘れたらそこには無機質で虚ろな砂漠が待っているかもしれない。

去勢されている割に傲慢な人間に僕はなりたくないし、かといって、上っ面だけの形而上学的読書家になりたくもない。
自分の頭で自分なりに徹底的に考える為に沈黙するのも良いし、アウトプットしたって良いし、なんだっていい。

である者から でない者への飛翔。

書物は所詮は他人の考えでしかない。
パロディにするなら自分にとって最高に良い他人の考えを一旦寄せ集め、分析し、自分はどう考えるか?の材料として記憶の底に浮遊させておく方が、僕は好きだ。

そして、これは僕の何の役にも立たない日記である。

エロ万歳!

参考になるかもしれないしならないかも知れない文献

ショーペンハウア
読書について

ヤスパース
哲学の小さな学校

サルトル
存在と無
言葉

バタイユ
太陽肛門
魔法使いの弟子
エロティシズム

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