【本とわたし】 “何によって憶えられたいのかね” を心に刻む。
本を読み終えたときベッドに横になっていた。置き時計に目をやると、夜20時40分過ぎている。満足した気持ちで本を閉じる。寝る前の歯磨きとトイレを済ませて、ベッドのうえで豪快にジャンプしている息子に、私はもう一度本を開き、あるページで手を止めて。私は、声に出して読んだ。
「どういうことか、ぼくにはわからない」と息子が言う。
「うん、それでいいよ」と笑顔で返した。
『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』
P.F.ドラッカー氏の本。人生には、本と自分のタイミングがぴったりと「ハマる」ということがある。読了後に、ワクワクと興奮の気持ちが湧き上がった!
昨年12月、広報という新しい人生の役割を引き受けるときに、広報として仕事して生きていくだけが、私ではないと思った。
「社長の右腕としても仕事させてください」と社長に伝えた。それは、『私に任されている』と確信があった。そして私は、それを引き受けるだけの「勇気と覚悟」があった。それはきっと3年前に行ったワークも影響していることに、今になって気づいた。
▼誰の記憶に、何を、残すのか
『何によって憶えられたいのか』
たった一度きりの人生において。
誰の記憶のなかに、何を、残すのか、と問いかけることは自分の人生にとって意義のあることだと私は思っている。3年前になるけれど、7つの習慣の実践会ファシリテーターの資格取得の講座のなかで(第8の習慣の学びとワーク:ボイス(内なる声)を発見する)で、数週間かけてそれに向き合ったことが、ふと蘇った。
2020年の講座のワークシートで、当時私が心の内側から見出したのは
「(誰か)その人の人生に役立つ、貢献する。それは目に見えなものも含めて。」と書いていた。それは当時も言われていたことだけれど、外に探しまわったりするのではなく、自分の心の内側から「見出す」ことであること。
仕事以外にも、母親や妻という役割においても言える。
子どもが大人になってから、どんな母親だったと言われたいのか
夫に最期、どんな妻だったと思われたいのか
親友に、どんな友だったと憶えられたいのか
こういう問いかけを自問し続けることで、人は成長していく。
目の前の子供への接し方も大きく変わると思う。
▼彼女は、すべてを遺したさ
最期、そんなふうに言われたら最高だな、と思う。
「ブックダムの広報・右腕」としてその役割を全うすること、さらに私は「社長の右腕」として、一人の人間に、尽くしきったことで残るすべてのことを、私は遺したい。
それは、形あるもの、目に見えるもの、だけではなく、
目に見えないものも含めてね。
さらにそれは、社長だけではなく、その私の生き方をそばで見守ってくれいている家族や、大切な心の友たちにも。
私は今も、何によって憶えられたいのかね、と心に刻み、問いかけ続けている。
▼You will be found
最近たまたま、この歌に出会いました。
これを聴いていると、泣けてきます。
あなたはひとりじゃない。
必要な人に届きますように。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました!そして「スキ!」も、いつもありがとうございます!
今後も宜しくお願いします。