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イステリトアの空(第16話)

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■本編

第3章:「冬、空の果てへ」

 目が覚めると、ベッドの上だった。頭痛はすっかり消えていて、頭がまだ正宗たちの夢から覚め切らないのか、ぼうっとした。
 枕元に誰か座っていた。甘い、いい香りがした。短いスカートを履いた、長い黒髪の女の人だ。
「目が覚めたみたいね」
 女の人の声に聞き覚えがあった。僕はふっと自然に「葵さん?」と口に出していた。
 葵さんは二十代前半くらいの年に見えた。正宗さんの時代は江戸時代だから、そこから二百年以上経っているはずだ。それでもあのときと変わらない葵さんがそこにはいた。
「あなたが誰の夢を見たのか、想像はついてる。ここではない世界のことも、少しは知ってるんでしょう」
 僕はかすかに頷いて、ぼうっとしながら「イステリトア」と口にしていた。
「そう。イステリトア。わたしはこの時代では五年前、女子高生だった頃、駅のホームで誰かに突き飛ばされて電車に轢かれて命を落とした。そうしてイステリトアに転生したの」
 転生? と僕は口にする。
「イステリトアはこちらの世界の死者が行く世界なのよ。でも、けっして天国じゃない。風旅人は利用され、迫害されて殺され、国々は遺物の力で殺し合いを続けている。そして人間よりも、ほかのどんな動物よりも強大な存在、魔物がいた。魔物を統括していたのが魔王と呼ばれる存在で、イステリトアの北の果てに居城を構えて住んでいるとされた」
 魔物、魔王。まるでゲームのファンタジーのようだった。風旅人は遺物を見つけやすい、と世界の狭間にいた老人は言っていた。なら、風旅人は勇者だろうか。
「わたしは幾つもの国や世界を巡った。そうして旅をしている内に『サカキヒト』、世界を救うとされる人間の称号で呼ばれるようになった。イステリトア最大の大国、クレイタスとゲーテリウムの戦争を未然に防いだわたしは、両国からの要請を受け、魔王討伐に赴いた」
 クレイタス、螺旋図書館だね、と僕が呟くと、葵さんは頷いて懐かしむように目を細めた。
「魔王城へは紫灰の回廊と呼ばれる荒廃した山岳を進む必要があった。わたしは魔物を退けながら山岳を進み、魔王の門という巨大な、未知の鉱石で作られた門の前までたどり着いた」
「葵さん一人で?」
 葵さんは頷いた。「そう、一人。わたしの持っている遺物はあまりにも強力すぎたから、常に一人でいるようにした」
「『時渡りの指輪』と『消し去りの指輪』」
「そう、よく知っているね」、言いながら葵さんは優しく僕の頭を撫でてくれた。
「魔王の門の近くにはあばら家があって、一人の人物が住んでいた。世界最強の剣士であり、『不死身』の異名で呼ばれるゼオンが。ゼオンは魔王の門の門番のようなことをしていた。魔王に挑む資格のある人物を待っていたと。わたしはどうやら合格だったようで、ゼオンは門を開けてくれた。わたしは魔王城の中には魔族という人を超えた種族が住んでいて、行く手を阻むと聞いていたのだけれど、城の中には人っ子一人いなかった。ゼオンによれば魔族とは人間の生み出した空想の存在で、魔王も魔族などではないのだと」
 葵さんは言葉を切った。彼女はサングラスをかけていて、どんな目をしているのか分からない。僕にはそれがひどく残念だった。でも彼女の唇はとてもチャーミングだったし、鼻も高くて美しかった。
「魔王の間を目前にしたとき、ゼオンは言った。『消し去りの指輪を持つものを待っていた。伝説の代物だから期待していなかったが、私が正気である内に出会えたのは僥倖と言うほかない。どうか頼む、魔王を、彼を消滅させて、解き放ってやってくれ』。そしてゼオンは自分の指輪を外すとわたしに差し出した。『不老不死の指輪だ。これがあれば君の時渡りと消し去りの力は完成する。受け取りたまえ』と。わたしは断ったわ。不老不死なんてわたしには重すぎる。でも、ゼオンは許さなかった。指輪に選ばれたわたしは責務を果たさなければならない、と無理やり不老不死の指輪をわたしの指にはめて、魔王の間を開いた」
 魔王とはいかなる存在だったのだろう。でも、二つの指輪に加えて不老不死なら、葵さんに勝てる存在なんていないように思えた。
「わたしはあの日ほど後悔したことはないわ。魔王は、甲冑のようにも見える黒い金属に体の半身を侵食され、紫色に発光する黒い柱から伸びる鎖に手足を縛られてほとんど身動きをとることができなかった。とうに自我はないのか、呻き声や叫び声を上げるだけで、意思の疎通を図ることはできなかった。でも、わたしは何度も声をかけ続けた。ゼオンが止めるまで、何度も叫んだ。だって、魔王と呼ばれて囚われていたのは、わたしがイステリトアにやってきたとき助けてくれて、友人になって共に冒険をしたり戦争を止めたり、長く一緒に戦ってきた戦友とも言える春洋だったのだから」
 春洋、確か国宗家の末裔で、長曾根の凶刃から葵さんが守った若者。
「春洋は『ウィステリア』という組織のナンバーツーで、北の大国ゲーテリウムに認められた『北方の賢者』の異名をとった凄腕の風旅人だった。『ウィステリア』は風旅人を保護するために作られた、風旅人による組織で、遺物の使い手が多く所属していたことから、各国も軽視できない存在だった。春洋は世界の混乱の原因と見られていた魔王を討伐するために、ゼオンと魔王城にやってきた。そこには黒づくめの人物がいて、奥の玉座には鎖で雁字搦めに縛り付けられた若い女がいた。春洋とゼオンは女を助けるために黒づくめの人物と戦った。そして打倒したとき、女の鎖は弾け飛び、戒めは失われた。二人の誤算は、女こそが魔王と呼ばれるに相応しい存在、空と名乗るものだった。空は嘲笑った。人柱だった黒づくめの男が死んだことで、城の地下にある地脈の暴走を抑えていた楔がなくなり、天変地異が起き、北方の国は消え去るだろうと。春洋とゼオンは相談し、春洋が人柱となり、不老不死であるゼオンがこの事態を打開する人物が見つかるまで城を守護することを決めた」
 空。正宗さんと葵さんがやっとのことで倒した怪物。イステリトアの人間だったのか。
「地脈が暴走しかけていたのは、地脈の中に遺物が埋め込まれていたせいだった。恐らくは空の仕業でしょう。だからゼオンは春洋と地脈の中の遺物を消し去ることのできるわたしを待っていた。わたしは春洋の前に立って、彼を消滅させた。そしてすぐに柱を伝って遺物の存在を探知して、城の床から地の底の遺物まで一気に消し飛ばした。それで、天変地異の危険は去った。そうしてすべてが終わったところにあの男が現れた」
 葵さんの口調に怒りが混じる。僕は思わずぞっとした。それほど深く煮えたぎるような怒りだった。
「旅行代理人と呼ばれる謎の男。黒い中折れ帽に黒いトレンチコートで、サングラスで目を隠していた。声は四十代くらいだった。
 彼はやってきて言った。『君は正規の帰還者となれる資格がある。だが、精霊の審査には時間がかかる。どうだ、取引しないか』。取引、とわたしは問い返したわ。旅行代理人は帽子のつばをちょっと下げて、微笑んだように見えた。『そうだ。私の旅行代理の力なら、すぐに元の世界に送り返してやれる。君は不老不死の指輪のおかげで、時渡りの指輪を使用したときの時間の経過というリスクを無効化し、ありとあらゆる時代に飛べる。その力で、世界の、時の果てを見てきてほしい。恐らく空という化け物と遭遇するはずだ』。わたしは挑むように言った。『その空という化け物をわたしの手で消し去れって?』、旅行代理人は首を振って、『君には無理だ』と断言した。『消し去ることでは、空を滅ぼすことはできん。死ですら奴の糧の一部にしかならないのだ。私が頼みたいのは別のことだ』。『勿体ぶってないで早く言いなさいよ』、わたしはいらいらしながら言った。『ソフィヤを探せ。彼女が導くだろう』。そう言って、彼は両手をかざした。私の体は光に包まれ、その世界から消失し、そしてこの世界に戻ってきた」
 ソフィヤ。目狩りのおじさんと一緒にシベリアの地を旅した異国の女の人。彼女もまた誰かを探していた。僕はその誰かは葵さんだと思ったけれど。
「ソフィヤはイステリトアの西方にある小国ガルネットの小村出身の少女だった。風旅人ではなかったけど、遺物に対するセンスがずば抜けていて、わたしたちでも使いこなすのに修練が必要な遺物を苦も無く使いこなしてみせた。その地方では聖女と呼ばれて崇められていて、村の名を高めていたけど、それが徒になった」
「何があったの」、僕は不安に胸が圧迫されるように感じながら訊ねた。
「赤杯騎士団、と呼ばれる連中が当時存在したの。遺物はすべてイステリトアの、ひいては大陸中央にある皇国アールレルドのものである、と主張して、あちこちを襲撃して遺物を奪っている集団だった。皇国アールレルドの人民こそ純粋イステリの血を保つ神聖な一族であると宣言して、純粋なイステリ人以外を虐殺し始めた。イステリトアの人々はイステリ人とトア人に大別できるのだけれど、アールレルドはイステリ至上主義の傾向が元々強い国だった。皇国アールレルドは歴史こそ古くて、古の時代には大陸の八割を支配したこともあったらしいけれど、当時は近隣諸国と戦争する国力なんてもたない小国だった。でも、その皇国の第三皇子アラベルが十八のとき、突然皇国の国宝だった遺物を盗み出した。問題なのはその遺物はこれまで誰も使いこなしたものがいなかったのに、アラベル皇子には使いこなすことができてしまったこと。その遺物は剣状のもので、周囲にいる人間の心を操れる力を持ったものだった。その力でアラベルは次々と各国の有能な人物を操って臣下に加え、兵を増やし、赤杯騎士団と名乗って遺物の強奪を始め、奪った遺物を部下に使わせてさらに虐殺を働くなど、軍事力でも影響力でも各国が無視できない存在になってしまった」
 葵さんは悔しそうに唇を噛み締めた。
「アラベルは各国が連合して自分に対処する前に、電光石火の勢いで北の大国、ゲーテリウムに攻め込んで、強大な軍事力を誇っていたゲーテリウムですら、三日で陥落してしまった。赤杯騎士団は百以上の遺物を所有していたらしいわ。それは戦争とは言えない、虐殺行為だったと聞く。ゲーテリウムの国王と、円卓議会で政治を司っていた元老たち、それに連なる一族は残酷に処刑された。アラベルはゲーテリウムの新王を僭称して、瞬く間に近隣の二国を落とした。各国は連合すべきと考えていたけど、どの国が指揮をとるかで揉めていた。それに業を煮やしたのがクレイタス。神聖王国と呼ばれ、神への信仰厚い宗教国家よ。クレイタスは自国の主力騎士団をすべて投入した上、『ウィステリア』にも協力を要請した。『ウィステリア』の実質的なリーダーであるナンバーツーの春洋は当時もう行方不明になっていたから、代表代行を務めていたヒナツル・ナンジョウが協力を承諾し、『ウィステリア』も全戦力を投入して戦うことを確約した。
 わたしはクレイタスに恩義があるわけでもないし、『ウィステリア』に所属しているわけでもないから、協力する義理はなかったんだけど、これはいけないなと思ったの。赤杯騎士団を、アラベルを放置しておけば、イステリトアの秩序は確実に崩壊するって。だから戦うことを決めた。当時のわたしはまだ不老不死の指輪を手にしてなかったから、時渡りも消し去りの力も本領は発揮できてなかった。でも、一時間くらいなら時間を止めることはできたし、半径一キロくらいの範囲なら消し去ることはできた。だから、その能力を核に策を練ってクレイタスの首脳に打診した。クレイタスの首脳は最初渋ったよ。なんせわたしの策は敵の持っている遺物ごと敵の本拠地を消し飛ばすものだったからね。
 そうこうしている内に戦端が開かれてしまった。クレイタス軍は善戦していたと言えるけど、残念ながら遺物を有する相手の方が優位だった。『ウィステリア』もほとんど全員を投入したと言っても、三十人くらいだから、練度の差なんかも物量で押し切られちゃうの。戦争ってのはやっぱり数なのよ。そしてその数をひっくり返すとなれば、痛みを伴う策を実行しなくちゃならないこともある。
 最も戦果を挙げていたのは、『瞬きの』マサムネ。あなたも知ってるでしょう。あの正宗さんよ。敵の遺物使い七人を仕留める大金星だった。でも、『ウィステリア』側も手練れの風旅人二人を敵の首領アラベルのために討たれてしまっていた。勿論、彼らの遺物は奪われて敵の手に渡ってしまっていた。
 クレイタスはこの期に及んでも遺物の奪取を諦めていなかった。わたしは確信したの。遺物の存在が、この世界を歪めてしまっている。なら、ない方がいい。わたしは夜陰に乗じて拠点の砦を抜け出し、時渡りの力で時間を止めると敵の前線基地に乗り込んだ。そしてその基地の真ん中で消し去りの力を発動し、基地丸ごと消し去ったのよ。敵の遺物使いたちは残らず消え去った。でも、誤算だったのはその夜アラベルは基地を離れて後方の村に滞在していたということ。アラベルを逃してはまた同じことが繰り返されかねない。わたしはすぐに追ったわ。
 アラベルが滞在していた村は酷いありさまだった。村人は互いに殺し合わされ、生き残っているものはいなかった。アラベルは事態を察知するとさらに西に逃げた。聖女で有名な村があると聞き及んでいたのでしょう。もしかしたら、聖女の有する遺物の力を使えるかもしれないと考えたのね。そしてソフィヤの住む村に逃げ込んだところで、わたしはアラベルに追いついた。とは言っても、わたしが村に着いたのはアラベルが到着してからおよそ二時間後。その頃にはもう、村の中は滅茶苦茶になってしまっていた。村人は自分の家を燃やし、父親は自分の妻子を手にかけていた。アラベルの精神操作によって自分の大事なものを自分で破壊させられていたのよ。わたしはアラベルを追いかけ、村の広場に追い詰めた。でも、そこには小さな女の子がいた。ソフィヤよ。アラベルはすぐにソフィヤを人質にとった。そしてわたしに二つの指輪を外して渡すよう要求した。わたしは従いたくないのに、体が勝手に指輪を外そうとしたの。遺物使いは精神操作にある程度抗えるみたいだけど、完全には逆らえないようだった。迂闊に距離を詰めすぎた自分を呪ったわよ。勿論、時渡りの力を使えばソフィヤを助けるのは容易い。でも、時間を止めていても接近することで精神操作の力が強まれば危険だとも思った。手詰まりだったところを打開したのが、ソフィヤだった。
 彼女は顔を上げてアラベルをじいっと見つめると、『分かった』と呟いた。するとわたしに迫っていた精神操作の力は消え、村を破壊していた村人たちが集まってアラベルを囲み始めた。アラベルは理解できずに、剣を振りかざしながら精神操作を施そうとしたけど、無駄だった。ソフィヤはアラベルの遺物の力を乗っ取ってしまったのよ。アラベルの操作の力より、ソフィヤの操作の力の方が圧倒的に強力だった。
 そしてどこからともなく、巨大な猫のような怪物が現れ、アラベルの左腕を疾風のように食いちぎって颯爽と立った。『ありがとう、キテン』とソフィヤはにっこりと笑った。事態が好転したのは喜ばしいけど、このままじゃまずいなとも思った。あのキテンと呼ばれた怪物がアラベルを食い荒らしてしまっては、死体を持って帰れない。
 ソフィヤが力を使っているとき、彼女の右目は金色に輝いていた。恐らくだけど、彼女の右目自体が遺物だったんだと思う。生まれながらに、体の一部に遺物を持った人間なんて、わたしは見たことなかったし、文献の中にも見たことがなかった。わたしは確信したわ。この子は世界を救う鍵となるって。
 アラベルは腕を失ったことで動転し、近づく村人たちを直接剣で殺し始めた。いつソフィヤに気づいて危害を加えないとも限らない。わたしは時渡りの力で近づくと、消し去りの力でアラベルの心臓を吹き飛ばした。アラベルは死に際、『我らは赤き杯の下、滅びぬ』と笑って死んだ。死体を跡形もなく返し飛ばすのは簡単だったけど、死体はクレイタスに引き渡さなくちゃならなかったからね。政治ってやつは面倒なのよ。
 わたしはそれから三か月ほど村に滞在して、ソフィヤにわたしの知恵を授けた。キテンとはいい友達になったわ。そしてソフィヤの力についても大体分かった。彼女の力は、『絆の指輪』と呼ばれる遺物の力に近いものだけど、その上位互換だった。『絆の指輪』は出会った遺物の力を使えるけれど、絆を結んだ相手の数に応じて威力が変わる、という代物だった。でも、ソフィヤの力は出力を最大以上で使えているように見えた。この力はきっと多くの出会いを経ればもっと強くなるはず、と思ったわたしは最後の日に二つの遺物を渡した。彼女ならきっと正しく使ってくれると信じて。授けたのは『大鷹の首飾り』と『鳴き龍の鈴』。首飾りは空を自在に飛べるようになるもので、わたしの使っている『天走の指輪』よりもスピードが出るんだけど、わたしは調子にのって飛んでたら崖に衝突しそうになったから使ってなかったのよね。で、鈴は振る人間の力量によって効果範囲は変わるんだけど、音の衝撃波を発生させたり、相手の三半規管を破壊して平衡感覚を潰したりできるらしいの。正直わたしは消し去りの指輪があればいいから、他の攻撃タイプの遺物は要らないの」
 ふう、と葵さんは息を吐く。「一息に喋りすぎちゃったわね」
 どう、疲れてない、と訊かれるので、僕は首を振った。もっともっと話を聞いていたかった。葵さんは僕にとっては伝説の人だ。目狩りのおじさんの物語に登場し、石の記憶で見た正宗さんの人生にも現れて事態を終結させていった人。羨望にも似た思いが強く僕の心の中で燃えていた。
「わたしは帰ってきて、彼女もこちらにいるかは半信半疑だったけれど、色んな時代でソフィヤを探したわ。その過程で目狩りを知り、あ、目狩りって言っても先代の目狩りね。その彼から目狩りの役割を聞いて、彼らが『世界のたまご』を掘り続けていることを知った。そこにわたしは空を打ち破るヒントを見た気がしたの。そしてソフィヤに会えればその答えがはっきりするように思えた」
 ソフィヤは、と僕は訊ねた。その答えを聞くのがなんだか怖いような気がして、布団を顔まで被った。
「ソフィヤは今の目狩りになる男とシベリアで出会った後、なんとか日本へ帰還する船に乗り込んで日本に渡ったそうよ。そして男と旅をする過程で男は目狩りになり、ソフィヤはしばらく目狩りと暮らしていたけれど、再び旅に出た。日本を出て、中国に渡り、インドやアフガニスタンを経由し、トルコを通ってヨーロッパに渡った。アフリカ大陸にも、アメリカ大陸も旅して、やがてソフィヤは目狩りの元に帰ってきた。ソフィヤは目狩りに彼女の右目を見せた。右目はこの世のどんな宝石よりも眩く輝いて見えた。彼女は随分多くの縁を結んできたのね。
 ソフィヤは翌日から寝込むようになった。目狩りは甲斐甲斐しく看病したけれど、彼女は日に日に衰弱していく一方だった。ある昼下がり、目狩りがうとうとしていると、彼女がおもむろに口を開いた。『ねえ、わたし石になるのよ。あなたが掘り出す『世界のたまご』と同じような石に』と。目狩りはそれを聞いて悲しかったけれど、頷いて、『そうなったら儂が掘り出してやるから安心しろ』と答えたのだけれど、彼女は物凄く申し訳なさそうに首を振って、『だめなの。あなたじゃ。選ばれた子がいつかあなたの前に現れる。その子が最初に掘ることになるのがわたしの石よ。そうでなければ、世界の運命は覆せない』」
 葵さんはサングラスを外し、ベッドの上に置いた。そうして僕の髪の毛を、姉が弟を慈しむように撫でると、そっと抱きしめた。葵さんはとてもいい匂いがした。例えるなら、花屋で売っている自己主張の激しい極彩色の花ではなくて、野原でただ一輪でもしゃんと立って咲いている花のような、そんな日向と風の匂いだった。
「ごめんね。わたしたちは君に運命を託すしかないの。世界を救えるのはあなたしかいない」
 そんな馬鹿な、と僕は驚いてしまう。僕なんかより、葵さんの方がよほど世界を救う英雄らしいのに。
「それは僕じゃなくて、葵さんの役割だ。僕にそんな力ないもの」
 葵さんは困ったような、悲しそうな顔をして、口元にはそっと優しい笑みを湛えて諭すように言う。
「わたしなら、空を消滅させられる。でも、空はその都度力を強めて蘇り、いつかわたしの力を超えてしまうかもしれない。そうなれば、世界に、時に果てが訪れてしまう。ただ空のみが存在する果てに」
「だって、空って化け物は退治したじゃないか。葵さんと正宗さんが」
 葵さんは首を振って、「空は滅びないの。だからわたしたちは滅ぼす以外の道を模索してきた」
 僕は布団から顔を出して、葵さんの顔を真っ直ぐに見つめて言った。「それが僕だって言うの」
「そう。これからあなたは目狩りとして岩石の森に入って、石を掘るの。そうして掘った石がソフィヤだったなら、あなたは空を打ち破る何かを得る」
「もし、僕が掘ったのがソフィヤじゃなかったら、どうなるの」
 分からない、と葵さんは首を振る。
「空はこの時代に蘇ってしまっている。そしてその目的はあなたを殺すこと。それを遂げさせてしまっては空はまた強大になってしまう。もしもの時はわたしが奴を消滅させる。問題の先送りでしかないとしても」
「どうして空は僕を殺そうとするの」
 僕の問いに葵さんは言いにくそうに躊躇っていたが、やがて意を決して僕の双眸をしっかりと見た。
「今の空は、あなたのお母さんよ」
 そんな馬鹿な、と僕は絶句して足がぶるぶる震えるのを感じた。だって、だって母さんは強盗に襲われて死んだじゃないか。
「死んだのは教団の信者よ。警察にも医者にも教団の信者が入り込んでいる。それくらいの偽装は容易だったでしょう。死を偽装したのは多分、あなたに絶望を与えるため。そして再びあなたの前に現れて喜びを与えた上で死という絶望を与える、それが目的」
「なんでそんな、回りくどいこと」
「繋がりが失われること、それが空の糧となる。その失われる過程の違いもひょっとしたら空には意味があるものなのかもしれない」
 僕は震える足を拳で何度も叩いた。「それじゃあ、僕は」、と言いながら足を叩く。震えなんかとうに止まっている。
「母さんを殺せって、そう言うの、葵さん」
 葵さんは首を振って、僕が足を叩くのを止めさせるためにその手を握りしめた。
「空の息子であるあなたにしか、空は打ち破れないのかもしれない。もう、あなたの知るお母さんはいないの。いるのは、空という怪物だけ」
「そんなの詭弁だ。どうして僕にしかできないって分かるんだよ」
 涙を目に一杯溜めて叫んだ。
「空は繋がりを断つことで力を得る。そしてその親子という繋がりが最も強い繋がりだと気づいた空はあなたを産んだ。だからあなたの殺害にはこだわり、必ず逃がしはしないでしょう。逆に、それだけ繋がりが強いあなたなら、繋がりの力を空に叩き込んで、空という存在を破滅させることができるかもしれない」
 できなかったら、と僕は喉が擦れきれそうな声で叫んだ。八つ当たりに近いものだって僕にだって分かっている。だけど、何も言わず、はい、分かりましたと世界を救うようなゲームや物語の主人公には、僕はなれないんだ。
「できなかったら大人しく殺されろって言うの。葵さんの話は『かもしれない』『かもしれない』、仮定の話ばっかりだ。何の根拠も保証もないじゃないか!」
 もし母さんが空という怪物だったとしても、僕にとっては母さんだ。その母さんを殺して、実は空なんて怪物は存在しなくて、空想の産物だったら。僕は親殺しという十字架を他人に背負わされて、この先の一生を生きていかなければならない。

〈続く〉


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