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月を捨てる

今回の小説は下記のとおり、クロサキナオさんの企画に則って書いたものになります。
6月の誕生石ムーンストーンがキーアイテムとなっております。

クロサキナオさんに感謝と敬意をこめて

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☔️この記事はクロサキナオさんの企画参加記事です☔️
#クロサキナオの2024JuneJaunt

https://note.com/kurosakina0/n/nc219c459e047

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■本編

 珈琲の黒い水面に月が浮かんでいる。
 惟任(これとう)の話を右から左に聞き流しながらそんなことを思った。スプーンを差し入れると水面が波立ち、白い月はぐにゃぐにゃと歪んだ。なんのことはない、映っているのはライトの光だ。
 惟任に同意を求められて、わたしは話のほとんどを聞いていなかったにも関わらず、「惟任さんの言う通りだと思う」とにっこり笑って同意してみせた。
 そうかな、と目の前の男、惟任は涼しい顔で大人ぶって余裕を見せているが、目じりが下がり、口角が上がっている。喜びが、表情の仮面の奥に透けて見えた。
 以前の惟任なら、こんな顔はしなかった。鉄仮面を被ったように、一切の隙が無い堅牢さで本心を包み隠し、わたしにはその仮面の上に張った膜のような感情のお芝居を見せるだけだった。
 以前のわたしなら、それを喜んだだろう。惟任の鉄仮面の奥に入りこめた、生身の彼に触れることができた、と有頂天になったに違いない。でも、今のわたしは、惟任の好意を冷ややかに眺めていた。
 わたしは惟任のことを何も知らない。惟任、というのも本名か分からない。ネットのユーザー名が惟任だから惟任と呼んでいる。男。それは間違いない。年は多分三十五、六。わたしより十歳は上。白髪染めが面倒で、とブログで書いていたから、白髪の出てくる年齢ということを考えるとそれぐらいが妥当だろう。それと、妻帯者。薬指にプラチナのリングがあるから。でも今日はしてきていない。指輪の跡がふやけて皮膚が白くなっている。多分、これまで指輪を外したことなんてなかったのだろう。
 惟任と直接会うのはこれが三度目。場所はいつも同じ喫茶店。きっかけは、惟任とわたしがブログ上でやり取りをし、意気投合したことだった。
 ムードのあるジャズが流れていて、客数も少ないから、店内にはゆったりとした空気が流れている。その緩やかな流れに珈琲の香りが運ばれてきて、まるで麻薬を吸ったみたいに頭を陶然とさせる。
 惟任と出会ったのは、わたしが勤める文具メーカーで、原材料の高騰などによる経営不振のあおりを受けて、大規模な人員削減を受けた後のことだった。少数精鋭による業務の執行を余儀なくされたわたしたちは当然のことながら一人一人の負担が激増し、わたしの先輩社員が心身を病んで休職してしまった。そしてわたしにその先輩の仕事、エリアを回って文具店や書店の在庫状況のチェック、補充、それから新製品の営業をかける業務が回ってきた。そんな激務最中のことだ。
 仕事はそんな調子だし、家族は――と言ってももう父親しかいないのだが、その父親が末期がんで入院した。肺がんだ。煙草の吸い過ぎが原因だろう。父親との関係は冷え切っていたから、暇さえあれば煙草を吸う父親を止めたりもしなかった。
 母は十年前家を出て行った。父親は仕事で嫌なことがあると休職を繰り返し、休職中は家で酒を飲み、暴れ、母を殴った。耐えきれなくなった母は逃げるようにして家を出た。わたしを置いて。その後、音信不通だ。
 わたしも探そうとしたことがあった。別に母が恋しくてではない。どうしてわたしを置いて行ったのか、その理由を問いただしたいと思ったからだ。知人に教わり、住民票を追うこともできたが、役所の窓口で申請書を手にした瞬間、その気は失せてしまった。理由なんか訊いても何にもならない。そもそも母が真実を答えるとは限らない。耳障りのいい言葉を並べ立てて許しを乞うかもしれない。そんなこと、考えるだけで虫唾が走った。
 父親は母がいなくなるとさらに情緒不安定になり、夜ごと悲鳴をあげて暴れたり、日中でも幻覚を見て暴れるようになった。家の中は父親が暴れるせいでいつも滅茶苦茶で、割れた茶碗やグラスの破片が散らばり、壁には穴が空いていた。テレビはひび割れて映らず、炊飯器は蓋が毟り取られて、乾いたご飯がへばりついていた。
 父親はわたしにも暴力を振るった。そしてそのとき、常に母の名前を叫んでいた。わたしを母と混同していたのかもしれない。その証拠に、一しきり暴れ終えると、悪戯をした幼児のような顔つきになり、甘えた声で母の名前を呼んで許しを乞いながら、わたしの体に触れようとした。その悍ましさに震えて、父親を拒絶すると、ひどく傷ついた顔をして泣き出し、挙句の果てには感情を爆発させて再び暴れ出す。その繰り返しだった。
 その父親を見捨てず、入院費の面倒などを見ているわたしは何なのだろうと思う。高額な治療費に部屋代。その出費は確実にわたしの生活を圧迫し、蝕み続けていた。愛情など微塵ももたない、ただ血が繋がっただけの男に、わたしの生活を、人生を捧げる必要などあるだろうか。
 今の会社の給料だけでは足らないので、夜の仕事を始めることも視野に入れていた。現に三店舗ほどに問い合わせをして、うち二店舗には直接訪問して雇用条件などを確認させてもらい、検討すると伝えていた。
 自分に向いているとは思えない。お酒に強いわけでもないし、男に愛嬌を振りまくのもうまくない。わたしが男なら、もっと美人で魅力的な女のところに行く。わたしに構う男なんか、相当の変わり者だけだ。
 だが、そんな苦しみや懊悩も、もはや過去のものだった。
「そのムーンストーンのネックレス、素敵だね」
 惟任のバリトンの声が響く。古いヴィオラを奏でたような心地よい低音。声が体を浸透して、腹まで響くように感じた。体の内側を揺さぶられると、何か衝動的なものに駆られる。わたしはずっとこれを恋だと思っていた。
「ああ、これね」、わたしは首から下げたムーンストーンを持ち上げてぶら下げる。その仕草はぞんざいで、そのネックレスに些かも価値を認めていないのだと、わたしの本心が透けるようだった。そしてそれを見た惟任は眉をひそめた。
「彼氏からのプレゼントかな」
 わたしは思わず失笑する。嘘つき。そんなこと思ってもいないくせに。わたしに彼氏なんかいないことは百も承知の上で言っている。
「君の誕生石だったよね、六月の誕生石」
 そうよ、と微笑む。誕生石を把握している男なんて、気味が悪い。
 すっかり梅雨入りして、日中は卯の花腐しの雨が降り続いていた。だが窓の外に目をやると、雨は止んでいるように見える。ひょっとしたら夜の闇に溶けながら降っているのかもしれないが、わたしの目には見えなかった。
 わたしはネックレスからそっと手を離した。なぜこれを、惟任と会う今日、着けてきてしまったのだろう、と思う。
 このムーンストーンのネックレスは、病床の父親がわたしに贈ったものだった。
「その、洗面の脇の机」
 がんに蝕まれ、抗がん剤治療を続けて肉が削げ落ち、骨と皮だけのようになった父親が、珍しく体を起こして震える手をようやっと上げて、机を指さしていた。
 わたしは三日に一度、洗濯物の回収と着替えを届けに来るが、父親と言葉を交わすことは皆無だった。その理由は、皮肉にもがんに侵されて、頭の方がまともになった父親は痛いほど理解していた。だから何も言わなかった。きっと着替えを届けることを止めたとしても、何も言わないだろう。
 わたしは父親がいつ死ぬかいつ死ぬか、その残り僅かな砂時計の粒が零れ落ちるのを眺めて、暗い喜びを噛みしめるために通っていた。憎しみや恨みはあれど、愛情など微塵もない。
「なに。なにかとってほしいの」
 わたしは鋭く一瞥し、抑揚のない声で、感情を排して言った。
「ち、ちが。中のもの、やる」、父親は苦しそうに咳をしながら途切れ途切れに言うと、わたしが机の引き出しを開けるのを見て、再びベッドに横になった。
 抽斗の中には長方形の箱が包まれて入っており、包みを切って箱を出すと、箱には有名ブランドの名前が刻まれており、中にはムーンストーンをあしらったネックレスが入っていた。
 ネックレスはシルバーのチェーンに、ブーケを模った台座のチャームがついており、青白いムーンストーンはそのチャームの先に取り付けられていた。さながら、花から零れ落ちる一滴の雫のように見えた。
 わたしは激昂して包み紙をくしゃくしゃにして丸め、父親の横っ面に叩きつけた。
「今さら何だって言うの。あんたが犯し続けた罪が、こんなネックレス一つで帳消しにできるとでも?」
 ああ、とわたしはせせら笑ってネックレスを箱に戻して父親の枕元に押しつけ、父親を見下ろして言った。
「ネックレスと、死が代価かしら。でもね、あんたの命はそんなに重い?」
 わたしはそこまで言っても、無反応で虚空を見つめている父親の態度が気に入らなくて、言わなくてもいいことを言った。それだけは、父親とのことで後悔している。あのときのわたしは、母を失い、孤独な子どものように泣きじゃくった父親と同じ罪を犯していたのだと思う。
「さっさと死になさいよ。あんたが生きていて喜ぶ人間なんか、もうとっくにいないんだから」
 そう言って踵を返し、わたしは病室を出て行った。生きている父親を見たのは、これが最後になった。
 父親はその晩容体が急変し、わたしが知らせを受けて駆け付ける間も惜しむように、あっという間に亡くなった。
 わたしは死んだ父親の亡骸の横に立って、喜びよりも喪失感が勝っていることに気づいた。積もりに積もった憎しみは父親の死でも晴れず、ただそれをぶつける相手を失っただけだった。
 行き場のなくなった憎しみは、今わたしの腹の底で眠っている。黒くごわごわした毛の憎しみという名の獣は、わたしの腹で感情を食らって大きくなり、いつかわたしの腹を裂いて出てくるだろう。
 父親の最期をみとった看護師さんから、最後までわたしの身とネックレスのことを気にかけていた、とムーンストーンのネックレスを渡され、それを見ていた親戚の手前捨てることもできず、持ち帰った。伯母さんから葬儀にネックレスを着けていってやってくれとせがまれ、わたしは一度だけのつもりで渋々ネックレスを着けた。
 それを惟任の前でも着けてみようと思った理由はわたしにも分からない。だが、わたしの中の黒い獣がそうするべきだと叫んでいるような気がした。
 会計を済ませて外に出ると、雨は上がっていた。箒で掃いたように雲は散り散りになって消え、夜空には星が瞬いていた。
 腕時計を見る。いつもより二時間近く早い。いつもだったら他愛もない話で盛り上がり、時間を忘れて語らい続けるのだが、今日は違った。熱した鉄が冷めるように凍てついたわたしの態度が原因か、それとも惟任の背中からすら感じる気負いと緊張感のためだろうか。
「少し歩こうか」
「ええ」
 惟任は人気の少ないアーケードに足を向けるので、わたしもその少し後ろをついて歩く。
 もう夜ということもあってか、アーケード内は飲み屋の類だけが開いていてその他の店はシャッターを下ろしていた。飲み屋は繁盛している店は店の外にまでテーブルと椅子を出して、客が満員で入って騒ぎ、酒臭さを漂わせていたが、閑古鳥が鳴いている店では店主が暇そうにテレビのリモコンでチャンネルを回していた。
 アーケードのすぐそばには小川が流れており、その流れが分かれる支流のいくつかには、お稲荷さんが祭られていた。
 わたしたちはアーケードの中心から離れ、小川の横を並んで歩いた。
「僕には、妹がいた。五歳下の妹でね、小さい頃から妹が可愛くて仕方なかった」
 惟任は前を向いて、わたしの方は意識して見ないようにして言っているのが分かった。わたしは鞄を提げた左手の肘の辺りを右手で押さえて、抱きしめるように力を込めた。わたしのくせだ。身を守りたい、自己防衛したいときの。
「ちょうど君くらいの年の頃だった。交通事故に遭って、二度と帰らなかった」
 なぜそんな話をするの。
 そう言いたかったが、口が渇いて、喉がひりついて、声が出なかった。ただ自分を抱きしめて身を守ることしかできなかった。
「僕はブログで知り合ったときから、君に妹に近しいものを感じていた。出会ってみて、その感覚は正しかったことを確信した」
 わたしは足元から冷えていくように感じた。氷の足をもったムカデが、つま先から這い上って来るような不快感。
「でも一方でそれが間違っていることにも、最近気づいた」
 その先を、惟任に言わせてはいけない。そう思ったが、止める術がわたしには分からなかった。走り出してしまった車を止めるには、惟任にブレーキを踏ませなければいけない。だが、それを訴えるための口は、言葉が舌先で凍りついて砕けるように、言葉を発することができなかった。
「君は魅力的な女性だ。一人の。それを尊重しなければならないことに、遅まきながら気づいたよ」
 惟任は振り返ってそう言うと、立ち止まってじっとわたしを見つめた。
 わたしは惟任の視線から逃れるように歩き出し、橋に差し掛かると欄干に手を突いて俯いた。胃がきりきりと痛む。鈍い頭痛がはるか遠くで忘れたようにやってくる。
 惟任の言葉は欺瞞だ。どれだけ言葉を弄し、本心を包み隠して見せないようにしたとしても、女には透けて見えてしまう。男の巧言など、女に比べれば児戯のようなものだ。そこには女を組み伏せたいという獣の心があるのを、わたしが見逃すはずがない。
 もしも以前までのわたしなら、そこに欺瞞があると分かっていても、惟任の関心を買えるのならば、騙されたふりをして飛びついただろう。愛は買えない。だが、関心は買える。男は愛がなくとも関心があれば女を抱ける。女を抱けるなら、関心を愛だと偽るぐらいの欺瞞は平気で吐ける。
「わたしはあなたの期待に、応えられない」
 わたしの絞り出した言葉は彼には意外なものだったようで、「どうして。君は僕が好きだろう」と慌てたように言った。
「わたしも最初あなたに恋をしていると思った。でも違った」
「違ったって、どう」
 惟任はわたしの隣に立つと、欄干に背を預けて寄り掛かった。
「わたしはあなたに父親を見ていた。現実の父親ではなく、話を聞いてくれて、面白くて、頼りになる理想の父親を」
 本当だったら、わたしにもいるはずだった父親。飲んだくれで、幻覚を見て暴れたりしない、友だちみんながもっていた父親。どうしていないのだろうと、羨み、そして呪った父親。
「父親への関心を、恋だと勘違いしていただけ。わたしは、あなたに恋してなんかいない」
「そんなこと、急に……」
 惟任は戸惑っているようだった。惟任が狼狽する様子は見たことなかった。いつでも落ち着いていて穏やかで、大人、という言葉が似合う人だった。その人も、ひと皮剥いてみればなんのことはない、他の男と同じものが出てくるだけだ。女に勝手に期待し、自分たちの欲求を満たしてくれると考えている子どもじみた、身勝手なもの。
「だから、ごめんなさい。あなたの望むことはできません」
 そう言って頭を下げた。
 惟任は何か言いかけて手を伸ばしたが、口にするべき言葉が見つからなかったのか、口を噤んで、憮然とした表情で固まっていたが、やがて諦めて踵を返し、足早に去って行った。
 惟任の姿が消えて初めて、わたしは自分に纏わりついていた父の影を振り落とせたような気がして、ゆっくりと、そして深く息を吐いた。
 わたしの中の黒い獣は、少し小さくなり、大人しくなったようだ。爪をたてて胃を引っかいていたことも、絶えず吼えて頭痛を引き起こすこともやめ、子猫のように転がったり体を舐めたりしている。
 わたしはムーンストーンのネックレスを引きちぎる。そしてそれを振りかぶって、小川の方に投げる。
 ムーンストーンが本物の月の光を浴びて、雫のように煌めきながら弧を描き、水の中に落ちると、その波紋が水面を揺らした。
 そこには、揺らぐ水月が浮かんでいた。

〈了〉


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