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白麗

 雪女、という妖怪をご存じだろうか。
 小泉八雲で有名かもしれないが、雪山に現れて男を助けるとも殺すとも言われる、妖艶な美貌をもった女の妖怪。
 僕の育った村では、雪女のことを白麗と呼んだ。
 白麗は百年か二百年に一度(口伝でしか伝わっていないので、語る年寄りの記憶によってこの辺はまちまちだ)現れるとされているが、別に山に巣くっているわけではなかった。
 白麗が現れるのは、村の中だった。
 百年(分かりやすく百年にしておこう)に一度村に生まれてくる女の赤子の誰かが、白麗になるのだ。誰の子が白麗になるかは誰も分からない。そして誰が白麗になったかは、女の赤子の特徴で判断される。
 まず、新雪のように白く柔い肌をもっていること。肌の白さに反して漆黒の髪を持つこと(生まれたての赤子では分からないので、長じてから判断される)、美貌であること、そしてなにより重視されるのが、手の甲に赤く、雪の結晶のような形状の痣があること、である。
 僕が生まれた年、その年が最後に白麗が現れたと伝えられている年から百年目に当たる年だった。
 白麗は生まれてきて、村民全員から大事に育てられる。両親は白麗の親として労働や家事を免除され、殿様のような悠々自適の生活を送ることができるが、親とはいっても自由に白麗に会うことはできなくなる。
 僕は男だったので、両親は安堵したような落胆したような、複雑な感情を抱いたそうだ。僕も、男でよかったと思う。白麗になっていたかもしれないと思うと、ぞっとするからだ。
 白麗は、僕の家の隣に生まれた、増岡さんの次女、サユキだった。
 サユキが生まれたことで、増岡の両親は何不自由ない暮らしを約束され、長女も自分が望む進路を、村民全員が応援することになり、結局東京の大学に進み、村に帰ってくることはなかった。
 僕は隣同士だった縁で、サユキの遊び相手として選ばれた。
 白麗のことなんて何も分からなかった僕は、ごく普通の友人として幼稚園から小学生まで接して、やがて年に似合わない色香を漂わせ始めたサユキに惹かれるようになって、それが白麗の魔性の力だ、と信じていた僕は自分の気持ちを只管に押し隠したまま中学、高校とサユキとともに進んだ。
 ある夏の日のことだった。
 いわゆる雪女である白麗のサユキは、灼熱の夏の日差しに溶けてしまったりしないのだろうか、と少し心配になりながら、屋根もないバス停のベンチに並んで腰かけたサユキの横顔を眺めた。
 十六になったサユキは、大人っぽい、という表現に留まらない、まるで薔薇の花が人になったような、生々しく甘く香り高い芳香を振りまいて人を無意識に彼女の方へと誘う妖しい美貌を発揮し始めていた。
 長く滑らかな、絹糸のような光沢を放つ黒髪。そしてその髪が垂れかかる額は秀でて滑らかで、細く形のよい眉と、切れ長の細い目は鋭く相手を射抜くような眼力と、少し垂れた眦が、甘えるような心をくすぐるような印象を与え、小ぶりな唇からは白い真珠のような歯が覗く。
 すらりと伸びた手足は雪を帯びた柳の木のようにしなやかで、仕草の一つ一つが流麗で品よく、たおやかだった。
 サユキは手で髪をかき上げながら、かぶりを軽く振る。揺れた髪の毛が躍って、額に滲んでいた汗が白露となって空気中に散って消えていく。
 手で顔を扇ぎながら、風を取り入れようと制服のシャツの襟をはためかせる。僕は彼女が制服をはためかせる度、白く滑らかな鎖骨が覗くので、思わず目を逸らせる。
「ねえ、朔くん。明日の夏祭り、一緒に行かない」
 サユキは小首を傾げる。髪がさらさらと流れ、鋭い目が僕を射抜くと同時に媚態を示して、声が僕の耳をくすぐるような甘いむずがゆさを帯びて、背筋をぞくっと震わせる。
「わたしね、白麗の着物を着るの。真っ白な小袖」
 僕はサユキの声の誘惑に抗うように、顔を背けて「ふうん」と気のないような返事をする。
「それでね、白麗は十六の夏祭りの夜、夫になる男を選んでいいんだって」
 心臓が跳ね馬のように高く跳ねて、僕は背けていた顔を真っ赤にしながらサユキに向けて、間抜けたように口を開けて、呆けた眼差しを送る。
 サユキはにこりと口角を柔らかく上げて笑んで、「朔くん。わたしの旦那さんになってくれない?」と言って頬に垂れかかった髪をそっと搔き上げた。
「ぼ、ぼぼ僕が?」
 サユキは顔を近づけてきて、息が鼻にかかるところまでくると、すっと立ち上がりざまに僕の耳に、「朔くんしか、いないもの」という言葉と、ブルーベリーのような甘く酸っぱい香りを残して、サユキは去って行った。
 バスに乗らずにどこに行くのだろう、と間抜けたことを考えて、すぐにサユキの申し出の余韻が、余韻という生易しいさざ波ではなく、波濤のように押し寄せて僕の理性を揺さぶっていった。
 次の日から夏休みだったので、日中の内にサユキに会うことはできなかった。しきたりでサユキは村の神社で着替えをし、厳かな儀式の後神社から降り、一晩を過ごす夫を村の中から選び、祭に興じる。
 僕はサユキの口約束だと思っていたが、夕刻近くなって浴衣に着替えていると、村の大人たちが大挙して押し寄せ、あれよあれよと僕を運んでいき、儀式が行われている最中の神社の前に据えられた。
 そして社の中で祭儀が完了すると、観音開きの扉が開かれ、中から雪のように白い小袖を身に纏ったサユキが現れて、僕の前まで降りてくると、僕の手を取って立ち上がらせ、にこっと笑みを浮かべると、そっと唇を合わせる。紅で濡れた唇は僕の唇と元々一つであったかのように吸い付き、別れを告げられた恋人のように名残惜しく離れた。
「朔くん。わたしは生涯で、朔くんしか愛さんよ」
 サユキの肌は白かったけれども、頬は桃のように染まって上気していた。
「朔くんは、どう?」
 僕はサユキに惹かれていた。でも、生涯の愛を誓うことなんて、と僕は狼狽えていた。ただ夏祭りを一緒に回るだけだと思っていた。僕はそれで十分だった。生涯に渡ってサユキの愛情を独占できなくても、今このとき、この瞬間の、青春の思い出を愛することさえできれば、僕は十分だった。
「朔くん……?」
 サユキは訝しそうに眉をひそめる。僕の肩に添えられていた両手が、ゆっくりと離れ、だらりとサユキの体の両脇に垂れる。
「誰か、好きな人、いるの」
 サユキは小首を傾げ、口角を上げて笑む。いつもは柔らかな美しさでもって見えるその笑みが、今はどことなく刺々しく、鋭い切れ味を帯びているように見えた。
「違う。違うんだ。サユキちゃん」
 僕は、未来じゃなく、今この瞬間を君と生きたいんだ。そういうことが言いたかったのだが、このときの僕にはうまく言葉が考えつかず、思いを形にしようとしても口の中で砂糖菓子のようにほろほろと崩れて溶けて消えてしまって、何も言葉にすることができなかった。
「そう。分かった。でもね、わたしは、朔くんしか愛さんの。他の誰にも、渡さん」
 サユキは艶然と微笑んでそう言うと、髪の毛が逆立ち、真夏の夜にも関わらず、冷たい風が足元を吹き抜けていった。小袖の裾が風にはためき、滑らかな足首が覗く。ああ、美しい足首だ。その足に、すがりついて、でも足蹴にされたいような、狂おしい足首だ、と思った。
 サユキの両手が伸びて僕の頬を掴むと、氷のように冷たく硬質な感触に襲われて、思わず身震いしたと思ったら、僕とサユキの体は遥か上空に舞い上がっていた。祭の灯が、小さく下方に瞬いている。びょうびょうと身を凍えさせる風が渦巻くように流れていて、肌が乾燥して、喉がひび割れたみたいに渇いてひりつき、喘ぎ声すら喉の奥に張り付いて出すことができなかった。
 そして僕は体を圧し潰すような空気の圧迫感に抗しきれず、意識を失い、気づいたときには氷の牢獄の中だった。
 透きとおる、水が滴るような氷柱が柵となって四方八方を囲み、抜け出ることができないようになっていた。柵の内側には平屋の一軒家があり、生活するのに必要なものは揃っていた。
 もうここに、何年も住んでいる。
 廊下の奥からとっとっとっと、と危なげな軽い足音が響いてくると、僕が座った縁側までやってきて、僕の背中にどしんと体当たりをする。
「とと。あそぼ」
 振り返ると、三つになる女の子が背中に掴まって僕を見上げていた。白い小袖を着て、背中まで届く黒髪が寝ぐせで跳ねて、虫の触角のようにちょこんと伸びていた。
 サユキに瓜二つなその女の子は、また危なげな足取りで廊下を駆けて行くと、その先で待っていたサユキの足元にすがりついた。
「朔さん。お昼の準備ができましたよ」
「とと。あそぼ」
 サユキと幼女は鏡像のように似た笑顔を浮かべ、僕を誘う。
 僕はすっかり肉が削げ落ちてしまった頬、顎を撫で、木の枝のように細く乾いた手足に力を入れて突っ張って、立ち上がる。
 庭には梅が咲いている。その梅の木の向こうには氷の柵があり、その柵の向こうには何もない。僕はどこにいるのだろう。空には青く透きとおる空。空の純度が村にいた頃よりも遥かに高い気がする。山の上だろうか。
 問うても、サユキは微笑むだけだ。「わたしがいて、朔さんがいて、この子がいて。それでいいでしょう」と言って、僕の胸に頭をもたれさせる。
 僕は妻と子が待つ方へ歩き始める。足に力が入らず、よたよたとした足取りで進んで行く。ふと、窓を見つめる。そこに映っていたのは真っ白な頭髪の、見知らぬ老人だった。いや、見覚えがある。遠く記憶の忘却の彼方にある、朔という男の面影が、そこにはある。
 視線を前に向ける。そこには、十六のまま年をとらないサユキと、三つから成長しない我が子がいた。
 今日の昼飯はなにかな――、すべてを記憶から振るい落とし、サユキと娘だけを目に抱いて、二人の背中を追った。
 ああ、サユキの足首は美しい。あの足首にすがって、菩薩のような微笑を湛えた顔で、人間の尊厳など踏みにじるように、無慈悲に踏みつけてほしい。
 廊下の暗い闇の中に、サユキの足首が燐光のようにほの明るく浮かび上がっていた。

〈了〉


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