ロールド・オムレット・ストラータ(第3話)
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■本編
父の七回忌で故郷に帰った。僕が今暮らしている町よりもずっと田舎な、幼少期の様々な思い出が詰まった土地。
ごく親しい身内だけのこぢんまりとした法要だったけれども、僕が苦手な伯父さん――父の兄だ。父は三兄弟の次男だったが、若い頃長兄にだいぶ面倒をかけたらしく、この伯父さんに頭が上がらなかったのだ。その伯父さんが食事の席になると開口一番僕に向かって言った。
「お前は根性がない。俺が世話してやった職場をすぐに辞めちまいやがって!」
僕は言い返す言葉もなかった。就職難で就活がうまくいかず、伯父さんに紹介してもらったのに、その職場を辞めたことは事実だ。僕がうつ状態だったとか、そういった事情は伯父さんにとっては余計な付属物に過ぎない。辞めたという結果がすべて、そういう人なのだ。
僕は項垂れて焼き魚をつついていた。そこに伯父さんの娘、僕にとっては従姉に当たる姉さんがやってきて、「気にしちゃだめよ。あの人、頭固いから」と僕のグラスにビールを注ぎながら慰めてくれた。
「今は何をしてるの」
「町の新聞を作ってるんだ」
すると姉さんは目を輝かせて、「へえ、すごいじゃない。記者さん?」と本格的に僕の隣に腰を下ろして、自分はウーロン茶を飲みながら刺身に手を伸ばし、訊いた。
「記者の仕事も、編集の仕事も、配達の仕事だってやるよ」
「ふうん、なんだか楽しそう」
楽しいよ、と僕は背筋を伸ばして、お稲荷さんに手を伸ばした。
仕事を楽しいと、その言葉がすんなり出てきたことに僕自身が驚いた。
「でも、三回忌法要で会ったときより、いい顔してる。きっとあなたは自分のいる場所を見つけたのね」
僕のいる場所――。そうだ。あの町は、玉子焼きの地層のあの町が、僕のいるべき場所なのだ。僕はお坊さんの読経を聴いているときも、父に焼香を上げているときも、父に詫びていた。父は僕が故郷に帰ってきて、家族を築き、父母も含めてわいわいと暮らすのを楽しみにしていた。でも僕にはその気概も甲斐性もなくて、故郷の外に、居場所を見つけてしまった。親不孝をする僕を、どうか許してほしいと、そればかりを祈っていた。
姉さんは泊まっていくのか、と訊いたが僕は一刻も早く町に帰りたかったので、新幹線に空きがあれば帰るよ、と首を横に振った。姉さんは「そう、残念」と本当に残念そうに言ったので、僕も苦笑せざるを得なかった。
夜遅い時間だが、新幹線に空きがあったので、僕は飛び乗って町へと向かった。町には新幹線は止まらないから、最寄りまで行って乗り換えだ。ぎりぎりで町まで向かう電車の最終に乗ることができたので、その日の内に町へ戻ることができたが、家に帰り着いたのは日付が変わる直前だった。
僕は長旅と親族づきあいに疲れた体をベッドに投げ出し、ちょっと休憩するつもりが本格的に寝入ってしまった。
慌てて起きたときには翌朝七時になっていて、慌ててシャワーを浴びて髭をそり、仕事着に着替えて家を出、自転車に跨ると、事務所へ向かった。
事務所と言っても、昔コンビニだった建物を簡単に改装して、打ち合わせや編集作業ができるようにしただけの物置みたいなところで、新聞づくりの資料などが山積している。それでも、僕の、僕だけの城だ。
僕が事務所に辿り着くと、扉の前に誰かが蹲っていた。あれ、と訝しく思いつつ自転車を脇に止め、近づくと蹲っている女性が顔を上げた。兎のように目が真っ赤になっている。泣きはらしたのだということが容易に分かった。女性の脇には缶チューハイが三本転がっていた。
顔を上げた女性に僕は見覚えがあった。彼女は駅前広場で歌を歌っているシンガーソングライターで、木曜日のシンガーとしても知られている。カーディガンさんという女性だ。
「休みだったのね」
カーディガンさんは非難がましく僕を見つめるとそう言った。僕が父の七回忌で、ということを説明すると、「じゃあしょうがないか」と苦笑いをして立ち上がり、ジーンズの尻に付いた埃をぱたぱたと叩き落とした。
「どうかしたんですか」、僕は彼女の足元の空き缶たちを一瞥し、心配に顔を曇らせて訊いた。
カーディガンさんは「ああ、違うのよ」と目を擦りながら、僕が勘違いしていると悟ったのだろう、明るい声で否定し、「それは祝杯」とかすれた、でも朗らかな声で言った。
「祝杯?」
「そう。わたし飲むと泣き上戸」
そう言ってカーディガンさんは両手を目に当てて泣く真似をしてみせた。
いつから彼女は僕を待っていたのだろう、と訝しく思った。カーディガンさんもそれを悟ったのか、「一晩過ごしちゃったわよ」とばつが悪そうに言った。
「これを渡したかったの」と言ってカーディガンさんは足元のリュックからCDとチラシを取り出し、差し出した。それを受け取ってまじまじと見て、僕は驚いて素っ頓狂な声を上げた。「すごいじゃないですか!」
彼女が差し出したのは、彼女がCDをリリースして、メジャーデビューするまでのプランをまとめたチラシと、デビューする曲を収録したCDだった。CDの面には「ロールド・オムレット・ストラータ」と書かれていた。デビュー名は、この町の通り名、カーディガンだった。
「いつ決まったんですか」
「話は前々からあったんだけど、本決まりは昨日。CDは前にわたしが録ったものだから、音が荒いかもしれないけど、聴いてみて」
もちろん、と僕は頷いて、チラシに目を落とし、「これコピーとってもいいですか」と訊くと、カーディガンさんは心得たように、「いいよ、それあげる。コピーだから」とちょっと気恥ずかしそうに笑いながら言った。
「これ、記事にしてもいいですか」
「ええ。それを頼もうと思って待ってたの。事務所からも了承はもらってるから。お願いできる?」
明日一番に! と僕が宣言すると、カーディガンさんはいつも雨の日の紫陽花のような雰囲気を湛えた人だけれども、向日葵のような眩しい笑顔を浮かべた。
「それじゃあお願いね」
カーディガンさんは眠たそうに大きな欠伸をすると、ひらひらと手を振って帰って行った。その後ろ姿に陽が差して、きらきらと光の衣をたなびかせているように見えた。
僕はすぐに事務所を開けて、記事の制作にかかる。一番目立つスペースに大きくカーディガンさんのデビュー記事を割くとして、他の記事をどうするか。父の七回忌でしばらく留守にしていたので、町の最新の状況が分からない。とりあえずカーディガンさんの記事だけに注力して執筆する。
デビューの記事を書き上げたのは十時頃だった。僕は唐突に空腹を覚えて、まだランチには早いけれどハルさんの定食屋に行ってみることにした。ハルさんのところには色々な情報が集まる。ひょっとしたら記事になるような情報もあるかもしれない。
事務所を出ると、自転車に跨って町の中心部に向かう。
自転車で走っていると、道の向こうから少年がやってくる。目を凝らしてよく見ると、少年はコハクくんだった。
コハクくんは、玉子焼きの地層から、羽虫が入った琥珀を発見したことから、コハクくんと呼ばれるようになった。小柄だけど賢い少年で、いつも背中のリュックに植物や虫の図鑑をしまっていて、歩いていて何か発見すると図鑑を開いて観察し出す、そんな子だった。だからトシゾウさんとは馬が合って、トシゾウさんのゾウの骨の研究も手伝っていたし、逆にトシゾウさんが琥珀探しを手伝ったりすることもあった。
「やあ、コハクくん。何かいいもの見つけたかい」
自転車を停めて訊ねると、コハクくんは人懐っこい笑みを浮かべながら、「ああ、新聞屋さん。僕も学校で新聞を出すことにしたんですよ」と照れ臭そうに言った。
「へえ、いいじゃないか。どんな新聞?」
コハクくんは鼻の下をごしごしと擦り、「町の植物や生き物を紹介するんです」と胸を張った。
「この間近所のおばさんが、ヤマゴボウを採ってきて食べたんですけど、売られているヤマゴボウとは別種のヤマゴボウを食べちゃったみたいで、中毒で病院に駆け込むことになっちゃたんですよ」
そいつは大変だったね、と僕は顔を顰めた。食中毒、と聞くだけで僕までお腹が痛くなってきそうな心地がするのだから、不思議だ。
「だから、そう言った有毒な植物の注意喚起とか、そういうことをやっていきたいなって」
立派だなあと僕は嘆息することしかできない。僕がコハクくんぐらいの年の時、周りのために、なんて考えて行動しただろうか。いや、自分のことで精いっぱいだったはずだ。学校とか、家の中とか、そういった自分を、よく言えば包んでいる、悪く言えば、締め付けている環境に順応し、そして抗うだけで、他のことを考える余裕などなかった。
「それで新聞屋さん、僕はWEB上で新聞を公開しようと思うんですけど、例えば新聞屋さんの作る新聞にQRコードを載せてもらって、情報を共有することとかって、できますか」
う、僕なんかよりも考えがしっかりしている。僕はコハクくんの記事を参照して転記するぐらいしか考えなかったけれど、今の子たちはしっかりしているというか、抜け目がないというか。とにかく頼もしい。きっと彼らが大きくなる頃には、この町も変わっているのだろうなあと怖いようにも、楽しみにも思えた。
「大丈夫だと思うよ」と親指を立てて答えると、コハクくんは「やった」と控えめにガッツポーズをした。
「それじゃあ明日の新聞に、そのお知らせを載せるよ。この話って、先生には?」
「了解いただいてますから、載せてもらって大丈夫です」
「分かった。もし分からないことがあったら、連絡させてもらってもいいかな」
もちろんです、とコハクくんは頷く。
それじゃあ、とコハクくんに別れを告げると、再びハルさんの定食屋に向けて自転車を走らせる。
緩い坂道を、足をペダルから離して下って行く。過ぎ行く風が心地いい。頬を撫で、髪を吹き上げる風を顔で感じながら、坂を下って、そして上った向こうに見える丘を眺めた。丘には古く大きな桜の樹があって、春になると花が咲き乱れる。その樹下でみんなシートを広げて酒や肴に箸を伸ばしつつ花見をする。今年の春は、ハルさんと、タカさんとトシゾウさんと花見をした。本当はハルさんと二人で花見がしたかったが、その勇気がでなくてタカさんたちにも来てもらった。タカさんは呆れていたけれど。
桜の樹は、恋人たちのスポットにもなっていて、あの桜の下で愛を告白し、受け入れられたら永遠の絆で結ばれるけれども、断られたら誰とも縁を結ぶことができず、生涯独り身になると言われている、ちょっと怖い曰くがあった。
町の中心部に入り、商店街に向かうと、すぐにハルさんの店に辿り着く。自転車を停めて戸を開けると、ハルさんが仕込みの準備をしているところだった。
ハルさんは顔を上げて、穏やかな笑みを浮かべると、「おかえりなさい」と言った。
僕はその声と顔に心臓を締め付けられる思いがしたけれど、気恥ずかしさに誤魔化して、照れ笑いをしながら「ただいま」と答えた。
「いつものでいいですか?」
「ええ。もういいんですか」と訊ねながら、カウンターのいつもの席に着く。「新聞屋さんは特別です」とハルさんが目配せをするので、僕は顔が熱くて赤くなったような気がする。
ハルさんが仕込みと並行しながら僕の料理を手早く作り上げていくのを眺めながら、「何か変わったことはありました?」と訊ねる。
「そうねえ。この町の高校生のタイガさんが短距離の学生大会で新記録を出したこととか、町の将棋大会と囲碁大会をトネさんが制して二冠をとったこととか、後は小説家さんが新作の紙芝居を完成させたらしいわ」
僕はメモ帳を取り出してそれぞれメモをする。タイガさんは町の外の高校に通っているから、学校の方に連絡をして、許可を得てからにしようとか、トネさんは、昼間はずっと家にいて、詰め将棋や囲碁と睨めっこしているはずなので、自宅にかけてみようと考えた。小説家は気難しい人なので、電話だとうまくいかない可能性が高い。彼の家は町の外れの方で手間だけれども、直接訪問しようと決める。
「新作の紙芝居、ということは、フクロウさんの?」
そうみたいよ、と小鉢に牛肉のしぐれ煮を盛りつけながら、あ、と思い出した顔になって、「そういえばこの間フクロウさんが新聞屋さんを探してたな」と言う。
「フクロウさんが、僕を」
そう言えば、興行が近々あるんだと言っていた気がするから、チケットの件かもしれない。フクロウさんのステージは人気だから、大人はチケット制にせざるをえないのだが、それを振り分けているのが僕の仕事だとは町のみんなにばれているので、問い合わせが僕のところにくる。ひっきりなしに電話が鳴り続けるものだから、僕も仕事にならない。そのため、チケット配布の一週間前ぐらいから、電話番としてセセラギさんという女性に来てもらっている。
セセラギさんは声が穏やかで優しく、安心する響きがあって、どんなクレームでもたちまち沈静化してしまうということもあって、その声の特徴からセセラギさんと呼ばれている。チケットのことで興奮した大人たちをなだめすかして、大人しくさせてくれるのだから、彼女ほど頼れる存在はいない。普段はラジオのパーソナリティをしているのだが、昼間は空き時間が多いので僕を手伝ってくれている。
「多分、小説家さんのところにいるんじゃないかな、フクロウさん」
行ってみます、と答える。ハルさんは玉子焼きを焼き始める。
「久しぶりのご帰郷はどうでした?」
ハルさんはそう訊ねる。玉子焼きに視線を落とし、俯きがちなため、表情の細かなところまでは分からなかった。
「親戚付き合いが得意じゃないので、難儀でした」
僕は頭を掻いて苦笑する。
「それじゃ大変でしたね。わたしも得意な方じゃないので、お気持ちは分かります」
意外です、と率直に僕が驚いて見せると、ハルさんは玉子焼きを返しながら、目線を上げず、「この店のことを快く思わない親戚もいますから」と淡々と言った。
僕は何と言葉をかけていいのか分からず、はっと思いついて明るいトーンで声を上げる。
「従姉が、僕の新聞屋の仕事を、認めてくれたんです」
僕がそう切り出すと、ハルさんは黙って頷いた。
「嬉しかったです。誰かに認められるっていうことが。僕らは、僕はこの町にハルさんがいてくれて、この店をやっていてくれて本当によかったと思っています」
ハルさんは火を消して、玉子焼きをまな板の上にひっくり返すと、「ありがとう」と静かに、だけど波が引いてはさらに高く押し寄せるように、高まる感情を込めて言った。
「町の人たちの支えがあるから、わたしはお店をやっていけるんです」
包丁で玉子焼きを切り、器に盛りつける。
ハルさんは何かを考え込んでいるようで、しばし沈黙した後で思い切ったように口を開く。
「故郷には、誰かいい人がお待ちじゃないんですか」
感情を排した声で訊きながら、どうぞ、と料理の載った盆を僕の前に並べる。
僕は質問されたことが一瞬理解できず、ぽかんと口を開けて呆けた。ハルさんがすっと目を伏せたのを見て慌てて、「いませんよ、そんな人」と否定した。
「……そうですか」と言ってハルさんは黙り込んで仕込みに戻った。僕もそれ以上否定する言葉が見つからず、否定すればするほど嘘くさくなりそうで、何も言えずに口を噤んでしまった。やむなく、しぐれ煮をつついたりしてみたが、ハルさんに誤解されたままで玉子焼きを食べるのは残念だった。
なんでハルさんに誤解されたくないのか。そんなことは決まっている。でも、僕はその気持ちを口にできないでいる。僕は町にようやく慣れてきたところだ。うつもその爪牙をひっこめてうたたねしながら僕を眺めているようなものだったし、薬の量もだいぶ減った。主治医の鼻先生にも随分いい調子だね、と褒めてもらった。
鼻先生は心療内科の先生で、その名のとおり鼻が大きく、彼の顔を忘れても鼻を忘れないところから、鼻先生と呼ばれるようになった。
その鼻先生が言ったのだ。
「調子がいいからこそ、強いストレスやショックは避けた方がいいね」
僕は強いストレスやショックから解放された生活を送っているつもりだった。でも、最も身近なところに強いショックとなり得る要素が転がっていたのだった。
もし、ハルさんの心に触れて、その隣に寄り添うことができなかったら、僕はきっと仕事を辞めるときよりも強烈なショックを受けることになるだろう。新聞屋の仕事も継続できなくなってしまうかもしれない。
でも、自分から踏み出さなければ何も変わらないことを、僕はこの町に来て知った。
踏み出すことは怖い。一歩先に確固たる足場があるか、何もない暗闇の淵かは、踏み出してみるまで分からない。傷つくことを恐れるなら、動かないことが一番だ。だけど、僕が新聞に記事を載せてきた人たちはみな、一歩を踏み出す勇気をもっていた人たちだった。怖れに打ち勝ち、一歩を踏み出し戦ったからこその栄誉だった。だから僕も、大事な時には勇気を振り絞って一歩を踏みだそうと決めていた。例え踏み出す先が深淵の闇の底だとしても。
「ハルさん」
僕は彼女の名を呼んだ。春風とともに町にやってきて、雲一つない晴天の空のような彼女を、誰からともなくハルさん、と呼ぶようになって、今ではすっかり彼女の身に馴染んだその名前を。
ハルさんは顔を上げた。涙ぐんでいて、目を擦った。「いやだ、玉ねぎが」と彼女は言ったけれども、まな板の上には何も載っていなかった。
「今日の午後六時、丘の桜の樹の下まで来てくれませんか」
ハルさんは涙を拭い、ただ「はい」とだけ答えた。そこからは何か特別な感情は読み取れず、僕は沈黙していることにいたたまれなくなって、急いで飯をかきこみ、玉子焼きを口に放り込んだ。
折角ハルさんが作ってくれた料理なのに、味わうこともなく、そもそも緊張で味なんて感じなかった。ただ腹に流し込んだことがハルさんに対して非常に失礼な気がして心が痛かったのだが、仕方ないことだと自分に言い聞かせた。
ごちそうさま、と手を合わせると、カウンターに勘定を置いて、「待ってます」と告げて逃げるように店を出た。
ハルさんは来るだろうか、と考えながら自転車を走らせる。商店街を西に横切り、町外れの小説家の家まで向かう。
ハルさんは律儀な人だ。来ない、という選択肢はないだろう。でも、来たからと言って僕の気持に応えてくれるとは限らない。ハルさんは町の人気者だ。想いを寄せているのは僕だけじゃないはずだ。
ハルさんが、誰か僕じゃない男性の隣にいて微笑んでいる、そんな光景を想像するだけで胸を麻縄で締め付けられたように苦しく、痛んだ。
小説家の家は、西の住宅地を越え、だらだらとした坂道を抜けた先にある。道の脇には雑木林が広がっているような鬱蒼としたところで、小説家の家以外、民家はない。
僕は舗装されていない砂利道を、タイヤをとられないように注意しながら走り抜けると、やがて土道に変わり、滑らかに走ることができるようになる。
やがて西洋のミステリーにでも出てきそうな洋館が道の終点に建っていて、バルコニーのところで椅子に座ってパイプをふかした男がいた。彼が小説家だ。
小説家は僕が近づくと表情を変えずに「やあ」とパイプを掲げて、煙を吐き出しながら言った。
小説家はエンジのベストにシャツ、濃紺のスラックスといった出で立ちで、髪はオールバックに撫でつけて彫刻刀で掘ったような切れ長の目を油断なく巡らせていた。年の頃は四十台前半といったところで、徹夜で仕事をしていたのだろう、無精ひげが伸び、頬もややこけていて、疲れた印象を受けた。
「新作の紙芝居が完成したとか」
僕はバルコニーに上がり、小説家と握手をするとそっと部屋の中を覗いてみた。そこは彼のアトリエになっていて、大きなテーブルの上に紙芝居の原本を広げたフクロウが真剣に見入っている姿が見えた。
「ほう。もうお耳に入っているとは。新聞屋は違うね」
「それが仕事ですからね」と愛想よく言うと、同意を求めて小説家の正面の椅子に掛けた。
小説家は小説を書く以外に、紙芝居屋であるフクロウのために、紙芝居の制作も行っていた。彼は小説家になるまえは画家になりたかったらしく、絵も巧みだった。写実的な、古典的な匂いのする画風が特徴的だった。その画風が古臭いと批判されて、彼は自信を喪失して絵筆を折り、小説家になった。小説家になったのは、絵画と違い小説家の書いた文章は読者の頭の中で想像される。そこには印象派もキュビスムもない。読者にとって理想的な絵を描いてくれるはずだ、と考えてのことらしい。現実はそう単純なものでもないのだろうけど、彼は今小説家だと人に認められて、ここにいる。
「どんな話なのですか」
この町で紙芝居は小説家の小説と同じくらい心待ちにされている大きな娯楽だ。その内容を記事にできたなら、ビッグスクープとなるだろう。それに紙芝居を書き上げて、小説家がこんなにも疲労している姿を見るのは初めてだった。プライドの高い彼は自分の弱みを決して人に見せず、取り繕った仮面じみた表面的な態度しか、許さないのだった。その彼が弱みをみせている今の表情は、どこか晴れやかな、解放感に満ちたものだった。その清々しそうな顔に、僕は大作の匂いを感じ取った。
そうだな、と小説家は勿体つけて、パイプを置いてウイスキーを呷ると、「見た方が早いな」と立ち上がって扉を開ける。小説家に続いて室内に入ると、フクロウが顔を上げて、目が合った。
「帰ってきたか」
ええ、と頷いて彼の隣に立つ。「これが新作ですね?」
「そうだ。私の渾身の作『ロールド・オムレット・ストラータ』だ」
小説家が大仰な身振りで自分の作品を差し示すが、そんなことよりも僕はタイトルが気になった。
「ロールド・オムレット・ストラータ、ですか」
フクロウもはっとしたようだった。僕はリュックの中からカーディガンさんにもらったチラシを出して眺める。彼女の曲も、「ロールド・オムレット・ストラータ」だった。
「そのチラシは?」とフクロウが覗き込みながら問う。
僕はフクロウがカーディガンさんの路上ライブを熱心に聴いていたのを思い出した。僕も足繁く仕事の合間に通い、彼女の歌を聴いていた。いつでも、フクロウはカーディガンさんから離れたところで彼女を見守っていた。
「カーディガンさんが、デビューするんです。明日の一面です」
だがひょっとすると、一面の書き方は変わるかもしれないぞ、と机の上の紙芝居を眺めてそう思った。この符号は偶然なのか。
フクロウは紙芝居の中の一枚を選び、僕の前に広げる。
「昔々の話だ。この町にはゾウがいた」
紙芝居の絵の中には、大きな地層の山の麓に広がる町と、大きな灰色のゾウが描かれていた。ゾウの傍らには、派手な赤いスーツを着た男が立っている。
「ゾウは奇術師と一緒だった。奇術師はゾウと一緒に町のみんなを楽しませていた」
だが、ある日。とフクロウは別の一枚を僕の前に広げる。
「ゾウは死んだ。奇術師は悲しみ、嘆き暮らしていたが、ある日大地震が起きて地層の山が崩れ、山はゾウの死体を飲み込んだ」
フクロウは迷うことなく紙芝居を選ぶと順番に僕の前に提示していく。
「奇術師は途方に暮れたが、地震の後の町で、魔法使いの少年を見つけた。奇術師はその少年が自分の力ゆえに迫害されないよう、旅をしながら奇術師として育てた。やがて成長した少年は師匠の元を去り、この町に帰って来た。そしてゾウがいたかいないかで争いになっている故郷に、魔法の力を使って古い地層の中に埋もれたゾウを蘇らせ、ゾウの実存を示して見せる」
フクロウは最後の一枚を並べる。
「魔法使いは奇術師として、ゾウと一緒にこの町だけでなく、世界を旅した。そして世界を巡って町に帰り着いたとき、古い地層の傍で、魔法使いとゾウはともに静かな眠りについた」
僕はフクロウさんが語るのを黙って聞き、ただひたすらに絵を見つめた。そこに描かれたリアルなゾウには魂が宿っているように見えた。物語と一緒に足踏みを始めそうなほどに。瞳はじっと僕の心を見透かすかのように濡れていた。
「まるでフクロウさんのようですね」
僕がそう言うと、フクロウは「別に。気のせいだろ」と肩を竦めた。
「あながち間違いとも言えない。この物語はフクロウを見ていて思いついたのだからな」
小説家はデスクの上の小さな地球儀を指で弾いて回した。
「おれは魔法使いじゃない。それに町のためにそこまでする義理もない」
フクロウがポケットから手を出して振ると、手には一枚のコインが握られていた。そのコインを指で弾いて小説家に向かって放る。
小説家はグラスを置いて慌てて受け取ると、コインの表面を眺めて、「ゾウだな」と頷いてそれを僕に投げる。僕も両手で落とさないようキャッチすると、眺めて「ゾウだ」と呟く。
その硬貨にはゾウが描かれていた。
「おれにできるのはゾウが描かれたコインを出すことぐらいだ」
だが、とフクロウは僕の横を通ってバルコニーの方へ出て行こうとする。
「魔法使いなら、ゾウだって出して見せるだろうな。町のために。誰かのために」
行くのか、と小説家が訊ねると、フクロウは振り返って、「おめでとうと言ってやりたいんでな」と微笑んで去って行った。
「あいつは不思議な男だよ」
小説家は壁の肖像画の下に置かれた椅子に歩み寄って腰かけると、再びウイスキーのグラスを傾け始めた。
「私はあいつが魔法使いでも驚かないね。むしろ納得する」
「僕もです。なんだか、この紙芝居が本当になりそうです」
本当になっちゃ困るがね、と小説家は肩を揺すって笑う。
「私は虚構を売り物に商売している。虚構が現実になってしまったら、もう売り物にはならなくなってしまう。いや、物好きは買うだろうからな。私に売る気がなくなってしまう、と言うべきか」
そう考えると、僕は小説家の対極にいるような気がしてくる。僕は虚構を売ってはいけない。現実を売らなければ。だから真偽の確認には時間をかける。
「君とは本来相容れないのだが。私は君のことも嫌いではないよ。フクロウほどでないとはいえ、何か普通じゃないものを感じる」
僕は平凡ですよ、と頭を掻く。簡単な仕事だってこなせなくて辞めたような、凡庸極まりない人間だ。フクロウのような特別な人間とは違う。
小説家はウイスキーを飲みかけていた手を止め、ふうむ、と僕の顔をまじまじと見る。
「君は選ばれたのだよ」
「何にです」
小説家は両手を広げて天井を仰ぎ見、「我らを作り、動かしたもう者にさ」と言って顔を下ろし、にっと笑う。
「私が小説の中で登場人物を創造するように、私たちも創造された存在なのさ」
くっくと小説家は笑う。だいぶ酒が入っているようだ。「奇跡とて、君のためには起こる。主が起こす」
小説家はまだ何か言いたそうだったが、僕はその場を辞して外に出た。行く当てもなく自転車で走り出し、来た道を辿った。
僕に特別なところなどない。自転車をこぎながら考えた。でも考えれば考えるほど自分の平凡さを見つめることになりそうで、うんざりした僕は考えることをやめた。僕は僕であり、僕以上の何かにはなれない。なら、僕が僕であることに、満足するべきだ。
自転車を気ままに走らせていると、駅前広場に辿り着いた。すると、路上にカーディガンさんが座ってギターのチューニングをしていた。今日はカーディガンさんの日じゃないのにおかしいな、と思っていると、向こうでも僕に気づき、手を振ってくれた。
自転車を停めて近づくと、ギターを弾いて確かめながら、音の調整をしていた。
「無理言って、一曲だけやらせてもらうことにしたの」
新曲ですか、と訊くと彼女は頷き、「勇気が欲しいの」と何かを決意した顔で言った。
「勇気……」
「そう。わたしは、今日自分の気持ちを伝えようと思う。好きな人に」
じゃらん、とギターをかき鳴らす。そして発声の練習をする。かすれた声が、歌うときになると濡れた珠の弾けるような瑞々しさを帯びるのだから、不思議だ。
「でも、一歩を踏み出すのが怖い。だから歌うの。自分に勇気を与えられない歌に、人に勇気を与える力はないもの」
僕はカーディガンさんの目の前に腰かけた。「僕も怖いです。一歩を踏み出すのが」
「僕も、好きな人に思いを伝えます。カーディガンさんの歌に勇気をもらって。だから、一緒に飛んでください」
カーディガンさんは決意を込めた眼差しを向け、はっきりと頷いてタイトルコールをする。「ロールド・オムレット・ストラータ」
僕は丘の上の桜の樹の下に立っていた。風が葉を揺らしてざわめかせ、丘の草花のこうべを風になびかせる。まだ六時だと辺りは明るい。町の方まで道は見渡せるのだが、僕は見るのが怖くて町に背を向けて立ち、樹に寄り掛かっていた。
この丘からだと、はっきりと古い、玉子焼きのような地層の山が見渡せる。トシゾウさんはあの山からゾウの骨だと考えるものを見つけ出し、今鑑定に出しているが、結果がくるまでもう数日かかるだろう。もし、それがゾウの骨ではなかったら。小説家の書いた紙芝居は、その意味を失ってしまうのではないかと思った。ゾウがいなかったのなら、物語でそれをひっくり返すことなんてできないのだから。
でも、トシゾウさんはきっと諦めないだろう。ゾウの痕跡が見つかるか、トシゾウさんが死ぬまで、彼は山を掘り続けるに違いない。
僕はどうだろう。この町で、死ぬまで新聞屋なのだろうか。前の仕事をしていたときは、死ぬまで同じことをする、と思うとぞっとしたのだが、今の新聞屋という立場や仕事は、悪くない。ずっと続けていってもいいとさえ思える。
だから僕は、この町にきたことで、何者かである僕を見つけたのだろう。
「お待たせした、かな?」
肩を叩かれて振り返ると、そこにはハルさんがいた。
お店は、と僕は自分で呼び出しておきながら訊く。ハルさんは悪戯っぽく「臨時休業」と言うと、風に揺らされる髪を押さえながら、「いい風ね」と呟く。
何を言おう、どう言おう。丘の上でハルさんを待ちながら言葉を準備したつもりなのに、ハルさんを目の前にするとすべて飛んで行ってしまって、僕の中の言葉の財布はすっからかんの一文無しだった。ない袖は振れぬ、と僕は黙り込んでしまう。
「座らない?」
ハルさんが覗き込むようにそう言うので、僕は頷いて座った。その僕にぴったりと寄り添うようにハルさんは腰を下ろす。
「玉子焼き」と僕は思ってもいないことを口にする。
「あの山の地層、玉子焼きみたいですよね」
ハルさんはああ、と納得したように声を上げて、くすくすと笑う。「本当ね」
「だからあの地層を見ると、ハルさんを思い出すんです」
「わたしを?」
僕は頷く。
「玉子焼きと言えばハルさんですから」
ふふふ、と笑って、ハルさんは「ありがと」と囁くように言った。
ちょっと無理矢理な流れだけど、このまま勢いで乗り切って伝えるしかない、と思ったけれども、言葉が口の中でせき止められてしまって、「玉子焼き」しか口から出てこなかった。ハルさんも怪訝そうに首を傾げているし、僕は顔から火を噴きそうな思いだった。
そこで僕が口ごもっていると、不意に風が止んで、辺りにしんと静謐さが漂った。するとその空気を切り裂く雷鳴のように、甲高い獣の鳴き声が鳴り響いた。それはここにいるはずのない動物の声だった。
「ゾウ?」とハルさんは顔を上げて周囲を見回していた。
そんな馬鹿な、と思ったが、ゾウのいななきは再び聞こえてくる。どこから来るのだろうと立ち上がると、ハルさんも立ち上がって僕の腕を掴んだ。僕は彼女の手に手を重ねて、力強く握りしめた。
再度いななきが聞こえると、丘の向こう、地層の山の方から、何か大きな灰色の塊がやってくるのが見えた。唖然としながら眺めていると、灰色の塊はまごうことなきゾウだった。ゾウがゆっくりと大地を踏みしめ、揺らしながら歩いてくる。
地層の山の中にはゾウの亡骸が眠っていて、魔法使いがそれを蘇らせる――。
小説家の紡いだ物語と同じことが起きていることに、僕は動揺というより感動を覚えていた。現実ではありえない、虚ろな空想。大人は物語をそう言って軽視しがちだ。でも、物語には力がある。現実を超えて、虚構のような現実を顕現させるような、そんな力が。
ゾウはゆっくりと僕たちの前にやってくる。そしてそのつぶらな瞳でじっと見つめると、その場に足を止めた。僕とハルさんは恐る恐る手を伸ばすと、ざらざらとして固い、ゾウの皮膚の感触があった。確かに、目の前に存在している。
「ゾウだね」とハルさんが言うので、「本当にね」と苦笑しながらゾウを撫でる。ゾウは大人しく僕らに撫でられるがままになっていて、ゆっくりと瞬きをしていてその緩慢さに眠ってしまいそうだ、と思った。
「ハルさん、ずっと僕のそばにいてください。僕は、僕の人生にはあなたがいなければだめです。あなたを愛しているから」
ゾウを撫でたまま、ハルさんの横顔を見つめて言う。
ハルさんは頬をほんのりと染めて目を伏せると、ゾウを撫でる手を止めて、そして僕を見た。
「知ってるわ。いつ言ってくれるか、ずっと待ってた」
僕はハルさんに正面から向き直って、「僕に勇気がなかったから」とかぶりを振った。
ううん、とハルさんも苦笑いして首を振った。
「勇気がなかったのはわたしも同じ。傷ついたあなたの心に踏み込むことができなかった」
でも、とハルさんは初めて会った日のような、日向で咲くたんぽぽのような笑みを浮かべてくれた。
「あなたは勇気を出してくれた。それは、何より立派なことだわ。わたしは、そんなあなたを、愛しているの」、ハルさんは微笑んで、目を閉じる。
勇気はもらったんだ、とカーディガンさんの歌を口ずさむ。風に乗って舞い上がるその歌を聴いて、いい歌ね、と目を瞑っていたハルさんが歌うように言う。
僕は彼女の肩に手をかけて、そっとキスをする。ハルさんは驚いたように目を見開いたが、おもむろに閉じていく。
桜の樹の下に、一羽の梟が佇んでいた。梟はゾウのようなそのつぶらな瞳を細めて僕を見たかと思うと飛び上がり、ゾウの背中に止まった。するとゾウが前足を上げて鼻を振り上げ、大きくいなないたかと思うと、再び行進を始めた。
どこからかギターの音色が響き、カーディガンさんが水晶に水の雫が跳ねたような声で歌うのが聴こえてきた。
歌とともに、ゾウは町へと向かう。紙芝居のように。僕にはゾウの背の梟が、コートを着た奇術師に見えた。
僕もハルさんも、抱き合いながら一緒に口ずさんだ。僕らが歌うその歌は「ロールド・オムレット・ストラータ」。
〈了〉
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