見出し画像

「私の履歴書」。過去は自由に変えられる。ハッピーに表現したらいいですね


1.私の履歴書(暗いバージョン)


幼稚園:
東京から兵庫に引越し。よくわからなかったが、去る人として注目され、新しい人として注目され、疲れる日々だった。幼稚園も束の間ですぐに小学生。また新しい環境。下痢気味だった。。。

小学校:少年野球部に入る。が、くだらない先輩後輩関係に子供ながら辟易。野球部を辞めて入った塾も点数で人間の”質”を決める風潮。これまた辟易。運良く小学5年生の時に父親の転勤で兵庫から神奈川へ引越し。野球部も塾も抵抗。何もしなかった。

中学校:公立の中学校。不良が多く、先生も暴力的で低レベル。先生によく殴られたし、お前の受験を邪魔してやる、と言われた。今の時代ではありえない。こんな世界だった。まったくつまらなかった。

高校:高校はまとも、だったが、同じクラスの仲間となぜかあまり仲良くなれず、野球部に入るも事故があって廃部になり、その後、部活にも入らず、なんだか淡々としていた。。。

大学:志望の大学学部には行けた。が、イマイチ勉強についていけず、バンドサークルに入ったが、全然うまくならなかった。アメリカに興味があったので交換留学に応募するもTOEFLの点数がなかなか出ず、最後のチャンスでギリギリ合格。が、なぜ突然に点数が上がったかわからず、もやもや。留学中はとにかく勉強が大変でしんどかった。読書とレポートばかり。ヒアリングもスピーチ力も向上しない。悔やまれる1年だった。

会社:留学から戻り、就職活動を始めるが不況。留学の1年が重くのしかかる。行きたい会社ではないが、とりあえず行きたい業界に。が、配属初日から深夜2時まで働く。それからほぼ毎晩深夜過ぎまで残業し、タクシー帰り。専用タクシーが付く。労働時間が長い会社を5年で辞めた…

こう振り返ると「不運」と「つらいコト」ばかりかな。


2.私の履歴書(明るいバージョン)

幼稚園:東京から兵庫に引越し。小さいながらに、標準語と関西弁、幼稚園のあり方の違いに触れ、社会の「違い」「差」というものに気がついた。そして、何より変化の中で”意図的”に近寄って友達ができるという喜びを知った。

小学校:少年野球に入る。あれ、結構、運動神経が良いのかも。自信になる。数年して受験勉強してみるか?と親から言われ、少数精鋭の塾を受けることにした。合格したら勉強がんばるか、ということだったが、受かってしまった。母親も喜んでいた。あれ、勉強もちょっとはできるのか。これまた自信に。ところが、親父の転勤で小学5年生で兵庫から神奈川へ引越し。勉強がつらかったのでちょっと遊びたかった。中学は公立でいい!という人生初のボクの主張が親に通った。友達と遊んでいるのが本当に楽しかった。

中学校:公立の中学、ここは酷かった。不良も多く、先生のレベルも低い。殴られたし、お前の受験を邪魔してやるよ、と担任と数学の先生に言われた。ありえる? が、自分が選んだ道。しょうがない。反骨精神が燃え上がる。「だったら邪魔してみろよ! 内申が関係ない私立の偏差値高い高校に合格してやるよ!」と勉強。結果はボクの勝ちだ。

高校:狙い通りに志望の高校へ行く。野球部に入るも事故があって廃部になったし、同じクラスの仲間とあまり仲良くなれなかったが、読書が好きにななり、良い本にいっぱい出会えた。アメリカに留学したいという思いも強くなる。

大学:運良く大学も志望通りで、更には運良く交換留学にも合格。留学時代に英語は一定のレベルで上達したし、とにかく色んな国の学生と友達になれ、今でも続く良き仲間に出会えた。それに、親とは1回も電話せずに過ごしたことがなんかちょっとした自慢。独り立ち的な大人な気持ち。

会社:留学から戻って就職活動を始めるが、不況で厳しかった。が、とりあえず行きたい業界には入れた。ありがたい話。そして、なぜか社長秘書の先輩と付き合えた。毎日タクシー帰りだったが、なんかしんどくなかったし、長時間働けるものだ、と無駄な自信がついた。色んな国にも出張でき、ユニークな経験もできた。5年で辞めたが、更に厳しい環境に飛び込んだと思っている。転職や変化への抵抗がなくなり、どこでもやる気があればどうにかなる、なんて”勘違い”力もついた。ま、いいことかな。

こう振り返ると「幸運」と「努力」で、まぁハッピーかな。


3.自分と未来は変えられる。他人と過去は変えられない?


と、深みのない2つの履歴書ですが、何が言いたかったかというと過去は変えられる、ということ。だから、自分の好きに捉えたらよいのかなと。love myself/yourselfになるように。

さて、本を読むと、人間関係の改善や部下などに行動変容を促す背景で、「自分と未来は変えられる。他人と過去は変えられない」という表現・考えに多々出会います。

この考え、嫌いなのです。

うがった理解かもしれませんが、自分の都合の良いように相手を変えようとしても、それはなかなか上手くいかないよ。そんな時は自分が変わろうって、なんか、自己中心的な感じがします。

だから嫌い。「他人」と「過去」が変わらない、なんて言う必要ないし、そもそも変わりますもの。

ま、どっちが先か、という優先順位の議論だとは思いますが。つまり、後で、他人と過去も変わる。先に自分が変わるけど。これならば、すんなり納得です。


4.過去も他人も変えられる

ということで、自分から変わるべき、に賛成だし、過去に固執せず未来をつくろう、も賛成。でも、過去も他人も変えられる、と信じます。

過去の出来事をどう形容するかはまさに自分次第。自分が変わるならば過去も変わる。どんな出来事でも、単純ではなく、とても複雑。複雑と捉えられると、つまり、良い点があるはず。そこに焦点したら、良い過去にもなりえます。

それに、イヤだった過去のお陰で今の成功がある、なんてことも普通にあります。イヤだった過去が感謝の存在。万事塞翁が馬を、いつも良かったことを最後で終わらせてしまうのです(なかなか変えられないトラウマ的な辛い過去もありますけれど)。

同じく、他人も変わります/変えられます。そもそも自分だけに変わる特別な能力が備わっていて、残りの人口全てにはその能力が無いなんてわけないですもの。自分が変わるなら、同じ人間の他人も変わります。

大切なのは、どうして変えたいか、であり、それがその人のことを真に正しく想っているか、です。信じて、自由を与えて、支えて、見守って、鼓舞して、希望を運ぶなら、変わります。

ということで、未来は変えられます。自分が変われば、どうにでもなります。同時に、自分が変われば過去も同時に変わります。ハッピーな私の履歴書、不幸な私の履歴書のように。そして、自分の言動が変われば、相手だって変わります。当然に変わります。自分がハッピーに生きて来たと捉えられたら、他人を見る目も変わりますものね。

一朝一夕ではないかもしれませんが。


読んで頂きましてありがとうございます。
(v8_62)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?