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正しさの尺度

正しさとはなんだろう。


たとえば、自分の意思で特定の宗教に改宗してその道を生きると決めたとき。その道を選んだことに対して拍手を送る人もいれば、宗教なんて言語道断時代錯誤だと弾糾する人もいる。

たとえば、巻きタバコを吸うという選択をしたとき。それをスピリチュアルでコンシャスな選択と捉える人もいれば、ドラッグ的なものや精神性の低さと結びつけて否定的な感想を抱く人もいる。


たとえば、タトゥーを入れることを決めたとき。それを自由や表現のあり方として肯定的に捉える人もいれば、暴力的なものとして嫌悪感を抱く人もいる。

たとえば、シャーマニックなリチュアルに参加したとき。それをスピリチュアルなジャーニーを歩んでいる人であると称賛する人もいれば、ドラッグ的なことをやってるヤバいやつと捉えて離れていく人もいる。

たとえば、自身のネガティヴな想いや弱さ、不完全さをありのままに表現したとき。それを強さの表現や自身にとっての救いとして捉える人もいれば、感情をコントロールできない精神的未熟さや危うさであると意見する人もいる。


結局のところ、正しさとは相対的かつ主観的なものなのだ。なにが正しく、なにが正しくないのかは、受け手の世界の捉え方や認識の仕方、どんなバイアスを持っているのかや、そのことに対する先入観、意見、どんな世界線で生きているのかによって変化していく。

それでも、普遍的な正しさというのは存在するのではないだろうか。宇宙には普遍的な真理というものが存在するのではないか。そんな想いで学び続け、探求を続けてきた。


でも、結局のところ、普遍的な正しさは、人間が人間として存在している限り、存在しえないのだと理解し始めている。なぜなら、人は「良い・悪い」や「善・悪」「光・闇」といった二元本の世界の中で生きている存在だから。

じゃあ、私たちはなにを指針に生きていけば良いのだろうか。どんな正しさを基準にして選択していけば良いのだろうか。

結局のところ、その問いに対する答えは存在しない。自分自身で、勇氣を出して、選択し続けていくしかない。そのためには、自己の心の声を信頼し、自分の感覚を信頼するしか方法はない。


だから私は、両極のどちらをも、そしてその間にたゆたうすべてを、経験したいし知りたいと思う。そのすべてを吸収し、感じ、体験しながら、そのどれにも「正しさ」というラベルを貼ることはしたくないと思う。

光も闇も、善も悪も、相対的なものだから。本来フラットなものだから。もしかしたら、それこそがこの宇宙における普遍的真理の片鱗なのかもしれない。

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