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鬼滅の刃と呪術廻戦を比較しつつ、水瓶座時代に「どう生きるべきか」を考えてみた

以前に『鬼滅の刃』の漫画を読み、そして最近『呪術廻戦』のアニメと劇場版を観て考えたことを記事にまとめていました。

この記事では、『鬼滅の刃』と『呪術廻戦』の根底にながれる価値観の違いを比較しつつ、これからの水瓶座時代における「本当の意味での博愛」とはなんなのか、そして、これから私たちはどんな風に生きていけばいいのかについて書いていきたいと思います。


どちらかというと、ニヒリズムやディストピア的な考え方に感じる方もいるかもしれません。感じ方は人それぞれですので、苦手な方はUターンをお願いいたします。



『鬼滅の刃』と『呪術廻戦』の見過ごされやすいけれど、決定的な違い

鬼滅の刃は、大正時代初期を舞台にした話だ。一方の呪術廻戦の舞台は、明らかに現代社会。スマホも普及して居るので2000年代と考えられる。つまり、鬼滅の刃と呪術廻戦の時代設定には、約100年近くの差異があるということになる。

それがどうした?と思われそうだけれど、意外とこれが、鬼滅の刃と呪術廻戦の根底にながれる価値観の違いを理解するための大切な差異だったりするのだと思っている。

大正時代は、第二次世界大戦よりも前の時代だ。その頃、日本にはまだ「日本人らしさ」が根深く残っていた。ある意味、現代風にいうならば "縄文意識" が残っていたといってもいい。それはつまり、利他の精神であったり、自分自身が大いなるものと繋がり生かされているという畏敬の念や感謝の心、そして自分が連綿と繋がり続ける命のひとつの雫でしかないという考え方でもある。「個」としての自分ではなく、「全体」としての自分で世界と自分の関係性を捉えたときに、人は大局を生きることができるようになる。

言うなれば、鬼滅の刃の主人公たちが生きた時代は、まだ社会全体的に「人のために自分の命を投げ出すこと」の美徳が生きていたということができるかもしれない。さらに、鬼滅の刃においては、「鬼」と「人」という、わかりやすい「善」と「悪」の二元論が存在していた。(といっても、鬼にも鬼の事情があったりするわけで、心優しい主人公の炭治郎は、そのあたりで悩むわけなのだけれど)

そのことについては、こちらの記事で以前詳細に書いていた。


鬼滅の刃で鬼と戦う部隊を鬼滅隊と呼ぶ。鬼滅隊の上層隊員は「柱」と呼ばれている。それは、神を数えるときに使われる言葉であると同時に、「人柱」という意味をも連想させる。

つまり、鬼滅の刃において、主人公たちはよりよい未来のために自分たちの生命を犠牲にして「人柱」として戦うことができていた。自分たちが前線で戦うことで、救われる生命があり、守れる笑顔や生活や、優しい未来があるのならば、自分の生命をかけても構わない。そんな想いが、鬼滅の刃全巻の根底に流れ続けていた。

でも、呪術廻戦は現代の話だ。
大正時代を生きていた「古きよき昔の日本人魂」をもっていた炭治郎たちと、現代社会を生きているミレニアル世代の五条悟や、Z世代の虎杖悠仁や伏黒恵たちとは、生きている環境も価値観も、まったく異なる。

それが、見過ごされやすいけれど決定的な、ふたつの話の違いである。

そして、これからの時代における「本当の意味での博愛」これから私たちはどんな風に生きていけばいいのかについてのヒントが、この瑣末だが決定的違いの中に隠されているのだ。


ミレニアル世代/Z世代が抱える葛藤と絶望感

私自身、いわゆるミレニアル世代とZ世代のはざまで生まれている。呪術廻戦に登場する五条悟と虎杖悠仁/伏黒恵たちの真ん中くらいの年齢だ。だからこそ、現代社会を生きる20代以下の若者が漠然と抱いている絶望感や諦めのようなものを理解できるし、自分自身も多かれ少なかれ、そういった感覚を抱えて生きていることを自覚してもいる。

この感覚をわかりやすく伝えるために、最近読んでいるお気に入りの本の一部を引用したいと思う。引用としては少し長いが、ぜひ読んでみてほしい。

真人の知るかぎり、多くの学生たちは一様にまじめだった。世界的な不況の中で、就職もままならず、かといって自分のほんとに進みたい道があるわけではなく、1日1日をつつましく生きている学生がほとんどだった。この世界そのものにも輝かしい未来があるわけではなく、高齢化社会を迎えるというこの国の老人たちを、やがて荷重ともいえる税金で養っていかねばならない世代だった。託された未来は、終末思想やら地球環境汚染やら、宗教的な紛争やら民族紛争のテロやら、荒地で霖雨にさらされたように逃げ場のない者だった。[中略]

いじめや非行やいろいろなことをいわれてきた世代だが、いじめた者も、いじめられた者も、非行に走った者も、まじめな者も、みんな等しく傷つき苦しんできた。心の底からのよろこびと希望を感じながらここまできた者は、おそらくほとんどいないだろう。それが人生だとおとなはいうかもしれないが、彼らおとなが通過してきた苦しみや痛みとは、現代の若い世代が味わっているものとは本質的にちがう気がした。おとなたちの世代の苦しみは、仲間とともにはげましあい、共感しあうことでのりこえていこうとするものだった。だが、自分たちの世代の不安や苛立ちは、この六月の雨にふられながら、傘をひとりでさしてとぼとぼと歩く姿に似ていた。

『水の精霊 第Ⅲ部 呪術呪法』横山充男 p.390-p.391

何度もいうが、呪術廻戦は現代社会を舞台にしている。そして、現代社会のミレニアル世代もZ世代も、ある意味この世界の「善/悪」に対して期待をしていないし、そんなものが存在しないことも薄々気づいている。

実際に、SNSやインターネットが普及した時代だからこそ、多角的な情報を得ることができるので、お上がテレビや新聞でながす一方的な「〇〇は悪で、△△が善なのです」といった情報操作や情報精査は、若者には効かない。わかりやすい例は、例えばこのYouTube動画ではないだろうか?


このYouTubeの情報が絶対的に正しいといっているわけではない。ただ、今までは一方向からの情報しか与えられず「だから〇〇は悪で、△△が善なのです」と言えていたし、それを情報を与えられる側の人間は素直に信じてきた。

でも、今は、多角的に情報を得られる時代なのだ。多方向から情報を得ていくと、このYouTube動画の内容のように「本当に〇〇は悪で、△△が善なのですと言い切れるのだろうか?」と考えるようになる。

つまり、今の時代において、「なにが正しくて、なにが正しくないなんて、わからない」「正しさなんて、人の数ほど存在する」ということだ。

さらにいえば、すべての情報には少しずつの真実と虚偽が混ざり合っている。それは言い換えれば、完全なる善人も、完全なる悪人も存在していない、ということになる。そしてインターネットやSNSが普及した現代において、こういった多角的な視野は簡単に手に入るようになった。

このことについては、呪術廻戦に登場する夏油闇落ちの理由について考察した、こちらの記事で詳細に書いている。


現代社会とは(ひどく雑な言い方をしてしまえば)、鬼滅の刃の主人公たちのように、その他大勢の生命を救うため、ある意味で人柱となって、自分の命を賭して戦う覚悟がある時代ではない。なぜなら、自分の生命をかけた先に、輝かしい人々の笑顔にあふれる世界を想像することが、もはやできないところに、既に人類は到達してしまっているから。

上記記事の中で解説していた夏油も同じだ。シンプルにいってしまえば、「もう、自分を犠牲にして、人柱となって戦うことには疲れた」ということじゃないだろうか?

今まで通りの「善と悪」という二元論の考え方を前提においてしまっては、結局のところ、闘いはいつまでも終わることはないんじゃないだろうか?

それでも、理不尽に人は死んでいくし、弱者を痛めつける者も存在する。市民を守るはずの社会が弱いものから搾取したりするのも、既に知られた事実なのかもしれない。その中で、そんな時代で、どうやって生きていけばいいのか。


「正しさ」は自分で見つけるしかないけれど…


「なにが正しくて、
なにが正しくないなんて、わからない」

「正しさなんて、人の数ほど存在する」

この考え方こそが、呪術廻戦の中において一貫して流れている根底意識であり、主人公を含めた登場人物たちは、「では、自分にとっての正しさとはなんなのだろうか?」という問いと向き合い続けている。


呪術廻戦のストーリーの中で、主人公たちは何度も「自分には、どれが救われる価値のある命で、どれが殺す(見殺しにする)べき命なのかなんてわからない。分からないから、そもそも答えなんてないから、だから、自分の価値観を押し通す。それが、他の人から見て間違いであったとしても」という趣旨の発言をしたり、考えたりしている。

例えば、伏黒恵という人物は、

「どのような善人であれ
理不尽な不幸は平等に訪れる」

というこの世の真理を10代にして既に悟っている。

すべての善人を幸せに、と思ったとしても、自分に救える範囲なんて限られている。そもそも、誰が善人で、誰が悪人かなんて、自分にどうやって判断できようか。見方を変えれば、善人は簡単に悪人になるし、悪人だって善人になることもあるのだ。

だからこそ、伏黒は

「少しでも多くの善人が
平等を享受できる様に
俺は不平等に人を助ける」

と言う。それを自分の信念とし、自分の行動指針とする。それが「結局は我儘な感情論」にすぎないことは、伏黒自身がちゃんと自覚している

「でもそれでいいんだ
俺は正義の味方【ヒーロー】じゃない
呪術師なんだ」

それが伏黒が悩み、葛藤した末にたどり着いた、自分なりの正義であり、正しさの尺度なのだ。


一方、主人公の虎杖悠仁は「正しい死」とはなにかについて問い続ける。自分自身が呪術師である限り、呪詛師と呼ばれる人間を殺すこともあれば、呪詛師によって呪霊に変容させられた元人間を殺さなければいけないこともある。

そこで自分が与える死は、果たして「正しい死」なのだろうか?自分には、なにが「正しい死」で、なにが「間違った死」であるかを判断する権利はあるのだろうか?

そうした葛藤を、彼は抱え続ける。それでも、闘わなければならない。だからこそ虎杖は、

「せめて自分が知ってる人くらいは
正しく死んでほしいって思うんだ」

と言葉にする。
それはある意味、「自分が知っている人さえ守れればいい」という排他的な物差しであるということもできるかもしれない。でも、この終末を叫ばれる世界の中で、善と悪とが混沌とし、その境界線も曖昧で、立ち位置や環境によって簡単に光と闇が反転し続ける世界に生きるしかないのならば、これがこの世代にできる最大限の「正しさ」であり、「優しさ」なのかもしれない。


自分が納得できる答えを見つけていく時代(それが他人から見たときに間違っていたとしても)


この混沌とした時代において、「正しさ」や「生き方」の答えは、道は、自分自身で見つけないといけない。自分よりも先をいっている師匠や先生のような立場の人に受け身の姿勢で教えてもらい、導いてもらう時代には、わたしたちはもういない。


自分自身が葛藤や悩みの末にたどり着いた「正しさ」の答えや生き方にたどり着いたとしても、それが一般社会から見て間違っているか、正解なのか、この時代、もう誰にもわからない。なぜなら、人の数だけ「正しさ」は存在しているし、人の数だけ「間違い」も存在しているから。

結局のところ、この時代において、本当の意味での正解を知っている人は、誰もいないのかもしれない。

だから、人の意見ではなく、「自分がその選択をする/しないことで何を感じるか」だけを指針として、自分の感覚を信じて進むしかない。それは、とてつもない不安や迷い、葛藤を生むかもしれない。その他大勢の人たちと対立することになるかもしれない。

それでも、自分で自分の選択を信じるしかないのだ。最早、誰も「どの角度から見ても絶対的に正しい」道は教えてくれない。そんなものは、この時代、この世界においては、存在していない。

太古の昔に教えられてきた「道」というものは、時代の流れの中で消えていったり失われてしまった。それでも、現代の若者は生きていくなければいけない。指針がどこにあるのかも分からないまま、それでも生きていく。それは、とても大変なことなのだと思う。

それは、かつてセゴシと呼ばれたひとびとが、成人として認められるために修養しなければならなかったミズチの行をも意味している。だが、セゴシと呼ばれたひとびとがほとんど消滅した現代において、その修養の方法を正しく伝えられる者もすでにいない。よって、真人とみずきは、みずから手探りでミズチの行を遂行しなければならない。[中略]

本来のそうした儀式や修練がいいかどうかはべつとして、すくなくとも昔の若者たちは、どうすれば成人になれるかを具体的に目標として持っていた。しかし現代の若者たちは、真に成人になろうとするならば、自分たちで基準をもうけたり修練の方法をつくりだしたりするしかない。さらにやっかいなのは、若者たちの目に映っているおとなたちは、年齢的にはおとなであっても、尊敬すべき成人としては映っていない。つまり、現代のおとなたちも、真に成人するための儀式や修練をおさめていないのだ。[中略]

真人とみずきが歩いている道は、だれかが敷いてくれた道ではない。古い道が消滅してしまった以上、自分たちで踏みしめ切り開いていくしかないのである。

『水の精霊 第Ⅱ部 赤光』横山充男 p.469-p.470

上記の引用が、すべてではないだろうか。
そして、呪術廻戦は、現代を生きるミレニアム世代やZ世代の若者たちが抱えているこの葛藤を、等身大に、ありのままに、見事に表現しているアニメなのだと思う。


水瓶座時代と本当の意味での「博愛」

今、時代は大きな転換期にある。風の時代と言われる250年余り続く大きな時代の中の、トップバッターの約25年間は、水瓶座時代と呼ばれる。簡単にいうと、水瓶座がもつ性質が色濃く現れる時代ということだ。

水瓶座がどんな性質を持っているのか、ご存じない方も多いと思うので、以下にキーワードをいくつか並べてみる。

人道主義者 / 進歩的 / 独創的 / 誠実 / 偏見がない / ユニーク / 独立心 / 自由奔放 / 発明の才能 / 科学的 / 論理的 / 理想主義 / 普遍的 / 博愛精神 / 抽象的なものへの理解 / 伝統にとらわれない / 友好的 / クール / 独自の価値観を持つ / 反骨精神

https://astroquest77.com/sinnrisennseizyutu-mizugame-kihon01.html


水瓶座時代を表現するときによく使われる言葉に「博愛精神」がある。これからの時代は、個々の違いを尊重して、博愛精神でもって生きていくことが当たり前の世界になるという考え方だ。

でも、水瓶座性質が強い私は、この「博愛精神」を部分的にしか理解していない人が多いような印象を受けている。

博愛とは、単純に「全部愛だよね♡」で丸っとまとめることではない。その言葉の裏には、「愛」を善とし、すべての「愛ならざるもの」を「愛」に還していこうとする働きがある。

でも、本当の意味での博愛とは、「すべてのものを善/愛」に還そうとすることではなく、「清濁合わせのみ、そのすべてを良しとすること」なのだと、最近しみじみと感じる。


善は存在する。悪も存在する。光も、闇も、確かに存在する。でも、なにが善であり、なにが悪なのかは、あくまでも自分が立っている場所からどう見えるかに依存する。自分が立っている場所が変われば、悪は善に転じ、光は闇に転じ得る。

だから、善と悪という尺度自体を手放す。

善も、悪も、快も不快も、ただそのままに、変えようとせず、理屈をごねて自分なりの解釈に落とし込めて理解しようとしないということ。それはつまり、「善」に変換しようとしていることであって、つまりは「善」はいいモノで「悪」は悪いモノだ、という二元論の意識が根底にあることに他ならない。

悪は悪のままで。善は善のままで。
なにを悪とし、なにを善とするのかは、自分の心で決めていく。絶対的かつ普遍的な善も悪も存在しないのだから、そうしていくしか方法はない。


これからの時代の生き方

長くなってしまったが、結局のところ、これからの時代は、「誰かを、なにかを自分の上に置くことなく、下に置くこともなく、フラットに見る」ということ。そして、自分自身で覚悟を決めて、指針を定める。

それ以外に、きっと、道はない。

そして、この記事で書いた考え方自体が、正しいかどうかなんて、見方次第で簡単に反転してしまうのだ。

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