見出し画像

スピリチュアル業界について感じる違和感

私は、京都の奥座敷、レイキ発祥の地である鞍馬山で伝統靈氣道を伝授している。つまり、レイキヒーラーだ。

レイキを伝えているということは、一般的には「スピリチュアル業界に属している」とカテゴライズされるのだと思う。

でも、「スピリチュアル業界、しんどいな。」
「なんか、本質からズレてるんだよな。」

最近の私は、ずっと前から漠然と感じていた
そんな違和感を無視できなくなってきて
スピリチュアル業界から距離をとるようになっていたりする。


「全部愛だから♡」とか
アセンションとか、波動が高い・低いとか、
目醒めている人・目醒めていない人とか。

とても二元論的かつ排他的だな、と感じていた。

特に日本のスピリチュアル業界において
顕著な傾向なのかもしれないけれど。

それが、「スピリチュアル業界、しんど。」って
感じるようになった理由だ。


実際、わたしもそういう言葉を使っていたし、
そういう風に思っていたこともあるし、
「目醒め」や「アセンション」や「波動をあげる」
といったことを目指していた時期もある。
そのために自分を癒したり、環境を整えてみたり、
瞑想したり、セッションを受けたりしていた時期もある。

でも、苦しかったし、しんどかった。
「なんか、違う気がするんだよな」っていう
漠然としたモヤモヤ感を抱えていた。


でも、これは矛盾して聞こえるかもしれないけれど、
そういう考え方があること自体が
全体のバランスを保っているという意味で
大切であったりもする
とは、思っている。

だから、そういう考え方をする人を
否定するつもりは、別にない。
私は、そういう立ち位置じゃないところから
世界を眺めていたいなって思うだけの話であって。


ただ、最近のスピリチュアル業界、
そして、世界のさまざまな業界の傾向として、
二元論の前提の中での「善/悪」「光/闇」論が
どんどん顕著になっているなって感じている。

そして、いろんな考え方があっていい世界の中で
「これが正解!」「これが正しい道!」
と断言してしまうのは、ちょっと危ない、、、
というか、その考え方自体が、自然の調和を
乱していくことになるんじゃないかな、、

なんてことを思ったりする。

だって、二元論の宇宙に生きている時点で、
善も悪も、どちらもコインの両面として大切な要素であって、
なにが善でなにが悪なのかって、その人が立っている場所によって
簡単に反転してしまうものなのだから。


「今、時代は光へと進んでいる。
が、光が強くなれば、闇もまた深まっていく。
光だけを良しとして進んでいけば、
いずれ世界のバランスは壊れてしまう。
なぜならこの宇宙においては光と闇、
両方のバランスがあって成り立っているのだから」


これは、去年の秋頃に友人でもあり
先輩でもあり、師匠でもある朋美さん
セッションをしてもらったときに
自分の口から出てきた言葉たちだった。

自分のご先祖さまを癒すセッションをする中で
私はもっと遠く、もっと原初の "わたし" と繋がった。
(正確には、それは自我としての "私" ではない。)

そして、その存在から強く湧き出ていた想いが
「闇も大切にしなければいけない」というものだった。

なぜ?と問うたときに出てきたのが、
先ほど書いた言葉たちだ。

そのときのセッションについて書くと長くなるので
興味のある方はこちらの記事を読んでいただければと思う。


「全部愛だよね♡」という一元論的な考え方のはずが、
それを強制することで「愛」であるものと
「愛でないもの」という二元論をより強化させていたり、

「地球のために、人類のために、目醒めていこ♡」
「波動、上げていこ♡」という意識が、
"目醒めていない人" や"波動が低い人" を下に見てしまったり
"目醒められていない自分" や "光になりきれない自分" を
責めてしまって苦しくなっている人も多いなって感じる。

さらに、「善/悪」「正/誤」「光/闇」という二元論の
フィルターで世界や人を見てしまって、
無自覚にスピハラ(スピチュアルハラスメント)している
影響力のある発信者の方もいたりするのも事実。

それが無意識におこなわれていて、
相手は「愛」と思ってやっているからこそタチが悪い。


「闇」があるからこそ「光」が存在できるのだということ。
「波動が低い」人がいるから相対的に「波動の高い自分」が
存在できているのだという大切で見落としがちな事実に、
スピリチュアル業界の人たちが、もう少しだけでも
意識を向けていけるようになったら、
すごくいいんじゃないかなって思ったりする。


ここで書いたことは、多分
簡単には理解してもらえないだろうなって思う。

「ああ、あなたのエゴが出てきているのね」って。
「早くそのエゴを超越してこっち側においで」
みたいなことを無意識に思う人も出てくると思う。

(スピリチュアル業界よ。そういうところやで!!
 それ!!スピハラ!!自覚!!して!!!)


でも、別にすべての人が私と同じ考え方を
する必要はないと思っている。
まったく同じように、別にすべての人が
エゴを超越したり、光となる必要はないとも思っている。

というか、みんなが同じ境地/状態になったら、
二元論の世界は崩壊して一元論の世界へと戻っていく。
そうしたらこの世界は「無」へと還ってしまう。

(まあ、正確にいうと、既に「無」なんだけれど。
 「無」と「有」は同じことなんだけど。
 話が逸れるので、これについては、この辺で)


すべての人には役割があって、
一見「なんで存在する意味があるの?」と思うことにも
ちゃんと "宇宙全体" を構成する
大切なピースとしての役割があるわけで。

だから、結局ね。
そのままでいいと、思うのですよ。

スピハラしちゃう人も、その人の大切な役割をまっとうしているし、
エゴを抜けられない人も、その人の大切な役割をまっとうしている。

なんかね。
そんなことを感じています。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます! 「参考になった」「学びや気づきがあった」など感じていただけましたら、「スキ」ボタンで教えていただけると嬉しいです。