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『呪術廻戦』夏油闇落ちの理由と、正義とはなんなのかについて考えてみた

呪術廻戦という漫画(アニメ)の内容について、靈氣の師匠が何度か口にしていた。観てみようと思った。普段は漫画派なんだけれど、アニメを観てみた。

見事にハマった。

気づけば3日でシーズン2の2話まで観終わって、それでは足りず、劇場版呪術廻戦ゼロまで観た。

アニメのシーズン1の初期の段階から、私の推しは五条先生と夏油だったんだけれど、その理由が呪術廻戦ゼロを観終わって、なんとなく理解できた。


ここからはネタバレ含むので、気になる方はUターンでお願いいたします。



五条悟と夏油傑が目指す世界

私の所感だけれど、五条先生と夏油は、方向性が違うだけで、やろうとしていることの本質は同じなんだと思う。どちらも、「呪術師が人間らしく大切にされる世界」を作ろうとしている。

多数派の一般人を守るための「ただの駒」として呪術師が扱われることのない世界。

それを、五条先生は内側からの改革で。夏油は外側からの改革で、やろうとしているんだと思った。だから、最後まで2人は親友で、五条先生は最後まで夏油を信頼していたんだと思う。


弱き人を助けることは
強く生まれた者の責務です。
責任を持って果たさねばならない使命なのです。
決して忘れることなきように。


これは、「鬼滅の刃」に登場する煉獄さんのお母様が、幼い日の煉獄さんに語った言葉。

鬼滅の刃を読んで考えた「大局を生きる」については、こちらをどうぞ↓


煉獄さんのお母様の言葉は、正しいのかもしれない。
でも、強く生まれた者は、弱き人を助けるために、自分の生命を懸ける。痛みも、悲しみも、全部背負う。それを、弱き人は「当たり前」と思う。なんなら、自分達が守られていることにも、「強い者」が外からはそう見えないだけで、実際には自分達と同じように傷つくし、苦しむし、悲しむ、普通の人間なんだということに、気づくことすらしないのかもしれない。

そんな世界はおかしい。

そんな想いで動いているのが、五条先生であり、夏油なんだと思う。


夏油が闇落ちしたきっかけを勝手に推察してみる

シリーズ2は、五条先生と夏油が学生時代心の話からはじまる。「弱い奴らに気をつかうのは疲れるよホント」と愚痴をいう五条悟に対し、夏油は

“弱者生存”
それが社会のあるべき姿さ
弱きを助け、強きを挫く。
いいかい、悟
呪術は非呪師を守るためにあるのさ

と諭す。


つまり、学生時代の夏油は「強き者に与えられた力は、弱き者を守るためにあるんだよ」と考えていたということ。しかも、信念レベルで。


でも、シリーズ1では、夏油は呪術師ではなく、呪詛師として悪者側で登場する。(シリーズ1は、シリーズ2の6年後?くらいの話)。

夏油は、特級呪霊などを従えて、非呪術師である人々を守ろうとする呪術師たちの邪魔をする。そして、非呪術師である一般人を殺していくことを厭わない。

劇場版では、夏油は非呪術師のことを「猿」と呼び、非呪術師(=一般人)を殲滅して、呪術師だけの世界を作ろうと暗躍する。

なぜ、極から極へと振り幅を変えてしまったのか。その理由は、心が壊れるきっかけは、なんだったのだろうか。


夏油は、シンプルに、自分の身をすり減らしながらも弱き者を助け続けることに疲れたんだと思う。それは、天元様の次の受け皿となる天内理子がきっと関わるんだろう、とシリーズ2の冒頭から推察できた。天内理子が非情な方法で殺されたのか、呪術師が駒として扱われ、大切な仲間が死んでいくのを目にしたのか。

呪霊や呪物といった「呪い」は、人々の負の感情から生まれ出でる。いわば、呪術師たちは世の中の大多数の人が吐き出した「穢れ」を掃除する役目。一般の人がやらない、やりたくもない、汚れ仕事を一手に引き受けるのが、呪術師ということだ。

でも、弱き者を守ることが責務の「強き者」である自分達だって、傷つくし、血を流す。大切な仲間を失えば絶望する。そして、強いからといって、闘うことは、それが呪いであれ呪詛師であれ「殺す」ということだ。

その痛みも苦しみも全部飲み込んで、夏油は弱き者を助けるのが強き者の責務だ、という正義感で走り続けてきた。でも、その「弱き者」である非呪師たちに、自分たちが呪いを作り続けていることに対する認識も罪悪感もなく、変わるつもりもなければ、その尻拭いで血を流しながら闘い続ける「強き者」への感謝の心もないとなれば、どうなるだろう?

そりゃあ、潰れるわな。
闘う気力も、自分の生命をかけて仲間の屍を乗り越えて走り続ける意志も、なくなるだろうな。

個人的に、私はそう思う。だから、夏油の「非呪師がいない、呪術師だけの世界を」という理屈も理解できるし、それを大義だという気持ちも、なんだかんだ分かるなぁ、と思う。

(後からネットで夏油闇落ちの理由を検索してみた。大方、私の当初の推察通りだった。)


「悪者」は、本当に存在するのだろうか?

本当の意味での「悪者」とは、一体だれなんだろう?一見、悪者に見える夏油の行動にも、こんな風に背景があり、歴史があり、心の傷があった。それは、先述した「鬼滅の刃」で描かれる鬼たちも同じだ。

(詳細は、先ほど紹介した鬼滅の刃の解説記事をどうぞ)

日本の歴史の中でも、土蜘蛛や鬼として描かれたものたちが存在する。彼らは、当時の権力者に抵抗し、負けた人々のことだ。「歴史とは、常に勝者が書くもの」ということ。

基本的に、一般の大多数の人は、「自分達が信じる現実世界においての自分」にとって都合がいいか悪いかで、善人と悪人を分ける。自分たちにとって都合がいい存在は「善人」だけれど、自分たちにとって都合が悪くなれば、あっさり「悪人」へとすり替えられてしまう。

そのことが、とても良くわかる「人柱案山子」という話がある。ぜひ、一読してみて欲しい。ちょっと表現とかキツイけど。


終わりに

正しさとはなんなのか。強さとはなんなのか。そして、正義とはなんなのか。本当の平等とは、博愛とは、なんなのだろうか。

そんなことを、夏油のストーリーを色んな人々に重ね合わせながら、考えた。

鬼滅の刃もそうだけど、五条先生とか夏油とか、賢すぎて、すべてを俯瞰しすぎてしまうからこその葛藤を抱えてるキャラって、好きなんだよなぁ。


色んな「視える」方曰く、私は過去世において巫女や人柱を経験したことが多いらしい。自分自身、そうなんだろうなって思ったりする。だからこそ、「人柱」としての目線で物事をナナメに見るクセがあるなぁとは、自覚している。

その辺りについては、以下の記事を読んでみてください。

こちらは、自分の体験を綴ろうとしたら、私を媒体にして言葉たちが自然と降りてきたもの↓

こちらは新海誠監督の映画と絡めながら、人柱にとっての救いについて考えてみた記事です。


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