正しさの尺度 —人はどう生きるべきか—
正しいとか間違いって、一体なんだろう?
絶対的な、宇宙的な、自然法に則った正しさとは、間違いとは、清浄とは、穢れとは、存在するのだろうか?
そんなことを言ったのは、私の魂の片割れ。15年近く人生を共にした幼馴染だ。私は、彼の言葉をとても美しく、そして真実に近いものであると感じた。
なにが正しくて、なにが間違っているのか。
神とはなんなのか。自然は、地球は、宇宙は、なにを望んでいて、どこに向かっているのか。
そんなこと、人間如きに分かるはずがない。なぜなら、神とは、自然とは、地球とは、宇宙とは、人知を超えた存在だから。
いくつもの次元を超えて、遥か彼方まで連れて行かれた去年の冬。正義と悪とが、次元を越えるごとに入れ替わり続け、最後にはすべてが霧散することを経験させられた、あの冬。
人間のちっぽけな脳ごときに、宇宙や自然の望みや向かう先が、わかるはずなどないことを理解させられた。
自然が破壊されている。
地球が苦しんでいる。
世界は穢れに満ちている。
この世は腐りきっている。
だから、私たちが救わねば。
愛と光でもって、この世界を浄化しなければ。
そういう流れが、色んな界隈で存在している。
使う言葉は違っているかもしれない。
政治や、科学や、精神世界や、経済の界隈で、使う言葉は違えども、その根底に宿るものは同じだ。
「自分達が、救わねば」
でも、なにが正しいカタチで、なにが間違ったカタチなのか。
なにをするのが本来の自然が望むことなのか。
本当に、私たち人間に、わかることなのか。
この世は、螺旋を描き続ける。陰は陽に転じ、陽は陰へと転じていく。その終わりのない螺旋の中を、反転し続けながら、どこともしれぬところへと、旅を続けている、大きなナニカがある。
私たち人間は、生命は、その「大きなナニカ」の上に乗った、ちっぽけな一粒でしかない。そんな一粒に、その「大きなナニカ」の真意を、目指す先を、どうして慮(おもんばか)ることができようか。
生命とは、生と死と再生の繰り返し。
生の次には死が来て、死の次には再生が来る。
それに意味なんてものを見出そうとすることすら、無意味なのかもしれないし。
生が正で、死が悪であり、創造が清浄で、破壊が穢れなのだというのは、人間にとっての主観と都合でしかないかもしれない。
そんなことを、最近思う。
そんなことを思うから、言葉はどんどん少なくなって、私は口を閉ざしていく。
じゃあ、どうすればいいの?と、あなたは問うだろうか。
この世には確かに悪や穢れが存在する。
不条理が存在し、痛みや悲しみが存在する。
それを見てみぬフリするのか、と。
壊れゆく世界を、自然を、ただ見るだけで、なにもしないでいいのか、と。
ならば、なぜ、私たちは生きているのか、と。
そんなこと、私には分からないし、知らない。
分かるはずもなければ、知る余地もない。
だって、私も、結局はただの人間で、ただの人間に理解できることなんて、皆無に等しいのだから。
じゃあ、どうしたらいいのか、とあなたはきっと問うてくる。
ただ、生きればいいんじゃないか、と私は思う。
ただ、自分の生命を、精一杯、誠心誠意、粛々と、生きていけばいいんじゃないだろうか。
山の奥深くに入っていけば、それが分かる。
花も、川も、木々も。
ただ、自然の流れの中でたゆたい、自分自身の生命を精一杯生きることに全力を注ぐのみ。
そこに、目的や大義名分や「生きている価値」があるかなんて、考えないし、関係ない。
ただ、花は花であり、川は川であり、木は木である。
そのことに、真摯に、ただ、在る。
人間も、それでいいんじゃなかろうか。
そんなことを、最近の私は、深いところで、感じているのです。
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