見出し画像

映画 ニトラム/NITRAM

1996年4月28日にオーストラリア・タスマニア島で起きたポート・アーサー事件。

銃乱射による犠牲者は死者35人、負傷者15人。

犯人はマーティン・ブライアント。

家族、愛する者、彼の周りはみんな不幸に…彼自身も。

大阪池田、八尾の歩道橋投げ落とし、神戸、新潟など。

日本でも最悪のケースは起きている。

オーストラリアの映画。

監督、製作を務めたのはジャスティン・カーゼル。

第11回オーストラリア・アカデミー賞で作品賞ほか最多8冠の快挙。

主演のケイレブ・ランドリー・ジョーンズはこの作品で第74回カンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞した。

それはコロンバインの悲劇の三年前、1996年4月28日に起きた。

オーストラリア・タスマニア島にある世界遺産、ポートアーサー流刑場跡での惨劇。

犯人は島に住む青年マーティン・ブライアント(当時28歳)

彼は観光しか主な産業のない閉鎖的なコミュニティで母と父、三人で暮らしていた。

彼の本名を逆さに読んだ“NITRAM(ニトラム)”、それは同級生たちが彼を馬鹿にしてつけたあだ名。

孤独な日々を送るニトラム。

彼の人生は何ひとつ上手くいかず、思い通りにならない。

“僕は、僕以外になりたかった”

この惨劇は紛れもない実話、現実世界で起きた途方もない悲劇。

ジャスティン・カーゼル監督が今、世界に伝えたいこと、作品に込めた思いとは…?

絶望、鬱になりそうな映画。

ただただ真実を忠実にリアルに描いた救いようのない話。

自分は映画やドラマを観るときはまったく前情報を入れない。

映画なら見るのはトレーラー、予告まで。

観る観ないは直感で決める。

予告を見て自分が思ったのは

“頑張っても、努力しても、どうにもならない絶望、無力な自分への怒り。
そんな男が希望を見つける、だが、それすらも周りの手によって理不尽に奪われてしまう。
復讐、ついに男は暴走してしまう”

…全然違う。

この事件の犯人マーティン・ブライアントに対する共感、同情など皆無だ。

わいてくるのはただただ嫌な気持ちと腹立たしさだけ。

マーティン・ブライアントが凶行にでた動機、理由は現在も不明なまま。

映画を観る限りではまったく理解できない。

仕方ないもかわいそうもない。

悪気なく笑う姿はまさに生ける悪魔そのもの。

この男はただただ凶悪で不気味の一言に尽きる。

マーティン・ブライアントが起こした未曾有の惨劇はシースケープでの逆恨みによる殺人からはじまる。

シースケープの宿泊施設での凶行→ブロードアローカフェ(ポートアーサー)での凶行→ギフトショップでの謀殺(ポートアーサー)→駐車場での殺害(ポートアーサー)→料金徴収所での謀殺とカージャック→サービスステーションでの謀殺と誘拐→シースケープの道路での凶行。

被害者の数は…数えるのもおぞましい。

マーティン・ブライアントは知的障害者だ。

彼は子供の頃から花火が大好きで、火遊びで火事を起こしそうになったこともある。

病院でのインタビューで、火傷をして懲りたが、火遊びはやめないと宣言している。

カーペットの隙間に隠れるゲーム。

必死に探す母親の慌てる姿、苦悩する姿を見て不気味に笑う。

青年になってからも家の庭で花火を上げ、大きな音で音楽を鳴らし、目覚ましを鳴らす。

近所からは迷惑がられ、厄介者扱いされている。

彼を心から愛し、なんとか守ろうとする父親をボコボコにする。

言葉を選ばなければヤバイやつ、地域の危険人物だ。

監督が伝えたいことは二つあるのではないか?

一つは無責任な銃社会への怒りと警鐘。

銃がなければ、被害はもう少し抑えられたかも知れない。

二つ目は知的障害者、精神、心を病んでいる人たちの問題。

この問題は多くの人が目を背け、自分とは関係ないと見て見ぬふりをしている。

だが、日本含め世界には家族や周りにそういったハンデを負った人たちがいて、共に暮らしている人たちが沢山いる。

この問題はたしかに存在する問題で、人が向き合わなければいけない問題。

“フォレスト・ガンプ”が理想、希望なら“ニトラム/NITRAM”は現実、絶望だ。

知的障害、精神障害。

これらはとても複雑で千差万別。

症状など健常者との違いも人によって様々。

怪我でいえば重症、軽症があるように、知的障害、精神障害にも重い、軽いといった“程度”がある。

知的障害でいえば、少し人より計算に時間がかかるなど比較的“軽度”な人もいれば、理性がきかず、他人に危害を加えてしまう“重度”の人もいる。

周りの人間や、福祉によるサポートの方法や内容は当然、これらによって分けるべきだ。

これは持論だが。

はっきりいえば、自分を自分で抑えることができないレベルの症状の場合は自由に行動させてはいけないと思う。

他人をみずからの欲望のままに襲い、攻撃し、傷つけてしまう人。

それはまさにマーティン・ブライアントのこと。

彼は犯行時には知的障害に加えて、みずからの人生に対する様々な不満で心の病も抱えていたのではないか?

“施設に入れる、閉じ込めるなんてかわいそうだ、人権の侵害だ、やめろ!”

そんなことは偽善だ。

もし、あなたの家族が、友人が、愛する人が傷つけられたら。

ポート・アーサー事件のように大量殺人に発展してしまう最悪のケースが起こってしまったら。

かわいそうどころの話ではない。

ハンデを負っている本人にとっても不幸だ。

家族など愛すべき人、そして他人を、自分の意思とは関係なく傷つけ、犯罪者になってしまう。

自分は昭和56年生まれで地元は京都府北部の田舎。

子供の頃に知的障害者による“恐怖”を体験している。

時代なのか、田舎だからだったのか。

小学校に登校するときの恐怖。

特別学級にいる上級生で、重度の知的障害を抱えた体の大きな男子がいた。

彼と登校がかぶるのがとにかく怖かった。

腕を振り回しながら無差別に襲いかかってくるからみんな逃げまどう。

あれは…不謹慎なたとえをするなら進撃の巨人そのものだ。

女の子なんか相当怖かったろう。

今思えばなぜ、あんなことが放置されてたのだろう?

小学校5年生のときに地元の子供たちを恐怖のどん底に陥れた“ももさわり”と呼ばれた変質者。

その変質者は基本的に夕方以降に現れ、自転車で近づいてきて、ももさわらせて〜と性別関係なく触ってくる。

当時の地元の子供の間では口裂け女のような都市伝説的存在。

田舎で、時代もあって夜は暗い。

夕闇に浮かぶ不気味な姿を見たらみんな一目散に家まで走って逃げる!

あれは人間ではないんじゃないか…。

地元で大きな騒ぎになり、警察、先生、親たちが力を合わせて調べた結果。

犯人は近所に住む30代半ばの知的障害がある一人暮らしの男性だった。

作業所で働き、その帰りなどに犯行におよんでいたそう。

こういった事件はニュースになりにくい。

他の障害を抱える人、心に病を抱える人たちへの偏見など、社会への影響が大きいためだ。

また、職場、学校、家族など、身内の間で恥や外聞を気にして隠蔽されることも多い。

傷害、性犯罪、窃盗など表沙汰になっていない事件は山ほどあるだろう。

マーティン・ブライアントが暮らす地域の警察など行政は少なからず彼のことを把握していたはずだ。

把握はしていたが、人権などの倫理、法律が邪魔をしたのか、単純にめんどくさかったのか…彼を放置した。

その結果がポート・アーサー事件だ。

言葉を選ばなければ、自分のなかの欲望や衝動を抑えられずに行動に移し、他人を傷つける者は人間ではなく獣だ。

これは健常者も変わらない、到底社会では認められない。

傷つけられた者、奪われた者にとっては相手が健常者だろうが、知的障害者だろうが関係ない。

心を病んでいるから、薬物やアルコールでまともじゃなかった。

だから。

“仕方ないでしょ、許してあげなさい”

ふざけるな。

被害者が心や体に負った傷、痛みは同じだ。

国はポート・アーサー事件が起こる前にもっとやれることがあったのではないか?

マーティン・ブライアントとその家族に。

ポート・アーサー事件は責任能力の有無が争点となった。

マーティン・ブライアントは明らかに普通ではない、ヤバイやつだ。

だが、劇中でも自分を守るための行動をとる。

都合のいいときだけ知恵が回るのだ。

これは生き抜くための本能がそうさせるのか…。

このへんが知的障害者、精神障害者の難しいところだろう。

“都合のいいときだけまともになるって、小賢しくてタチが悪い”

短絡的だが、どうしても思ってしまう。

結局、判決は35回の終身刑。

終身刑とは死ぬまで刑務所に入れられること、日本の無期懲役とは違う。

35回って…ね(オーストラリアは死刑に反対している国で、死刑制度がないのでこれが極刑になる)

先に書いた通り、個人的には責任能力の有無とか関係ないと思う。

“犯した罪は同じなのだから”

ここまで書いた内容を差別的だという人は偽善者だと思う。

綺麗な言葉を並べることは容易い、だが、現実はそんなに容易くない。

ジャスティン・カーゼルはタブーに切り込んだ。

その賭けにのったケイレブ・ランドリー・ジョーンズは評判通りの役者だ、素晴らしいです。

観る者に“記憶に残る絶望”を与えてくれる。

↑画像をクリックで飛べます!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?