身体感覚から考える~春の小川はいずこ?
~春の小川はいずこ?~
代々木八幡駅の側、立体交差の道路に階段あるんですけど、そこの壁に、童謡『春の小川』の歌詞が書いてあります。
15年前、東京へ来て一番最初に間借りしたのが、渋谷の初台という場でした。仕事場へ自転車で通う途中に、その壁の文字群に目が留まった。
あ~ひょっとして、この近くに歌のモデルとなった川が流れてるのかと思った途端、冒険が始まった気がしてちょっとテンション上がりましてね。
しかし、川なんてあったっけ?、見当たらんよねえ、なんて首傾げつつも、自分が立っている、見知らぬ街角に、俄然興味が湧いてきたんですね。
音だけは、確かに聞こえてきそうな感じがする。
しっかし、どこにあるんか、わからない。
気になる。一度、気になると、ずっと気になる。・・・お!そういえば、、
仕事場の西口から出た先の路地に、くねくねした遊歩道がある。ちょっと日陰になっていて、その分、夏でも涼し気なんですが。どうやら、その舗装された道の下に、『暗渠』としてまだ流れていることに行き着いた。
早速、その歩道を踏みふみしながら、何気にメロディが浮かぶまま、歌詞を口ずさんでみると、そのコトバから想起される当時の風景と、現状の違いに形容しがたい気持ちになり、、まあ、しょうがないんですが。笑
話、戻します。
今思うと、コンクリートとアスファルトに覆われた春の小川の息吹って、まるで都会生活に慣れた自分自身の身体そのもののような気もしてくる。
生活する上で、どこかで生身の感覚をコーティングして、半ば麻痺させることで生き永らえてきてやしないか。通勤時の電車内とか、そうしてな居合わせられず、感覚遮断するのにイヤホン付けすぎで耳の皮膚カブレるとか。笑
それってたぶんその時には、自分自身をまもるために必要ではあったんやろうけど、もしかすると、今はもう必要ないかも知れない。もしかすると、もっとよい方法があるんかも知れない。
令和4年、春。これまで、まあ色々ありましたねえ。そして今も、ぼくらの生活は継続中です。何を見て、何を聞き、何に触れ、何を思うのか。
街の雑踏に、途切れたり馴染んだりして、まぎれながらも、春の息吹を感じつつ、季節に呼応して流れ続ける自分の身体の音に、耳をすませたいと思うんですよ。見えない川を、感覚するように。
そうすると、きっとそこには未だ見果てぬ風景がずっとあって、これからもあるだろうと思う。そう思うと内からほのか~に気分が上がってくる。
追伸:『春の小川と暗渠』で検索すれば、とても詳しいレポートをネット上で見つけられます。ご興味があれば、ぜひ。
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