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楽園のイヴ|短編|ブライアン・サイクス『アダムの運命の息子たち』(進化遺伝学)感想に代えて


🌱 楽園のイヴ|短編(約2,100字)


 地球上から《男性》が消滅した後の遠い未来──。

 花々が咲き乱れ、七色に透き通るガラスややわらかなドレープなど女性好みの優しく繊細な装飾で満ちあふれた街を、長い黒髪の女性が歩いている。
 川べりのカフェに座を占め、黒いレースのすそからこぼれるすらりとした脚を組み、つややかな黒髪を傾ける。ラベンダー色の、えりぐりの深いブラウスから、匂い立つような白い胸もとが覗き、そこからつづくシェルピンクのつぼみがほとんど服の上から透けて見えそうだったが、誰もそのようなことは気にも止めない。みな思い思いのよそおいに身を包み、ゆったりとくつろいでいた。
 切れ長の黒い眼が、テーブルの隅の小さなフルートグラスに向けられる。スノードームのように、かすみ草をふわりと照らし出す白色の光源。

 レーザー核融合による無窮むきゅうかつクリーンな発電が主流だったが、彼女は風力エネルギーを使用しているこのカフェを好んでいた。
 甘く煮詰めたりんごのカラメリゼミルクの湯気に鼻をうずめてほっこりしながら、アイグラス様の情報端末をかけ、争いごとの載らないニュース画面を見つめる。
 かつて消失の危機にひんしていた熱帯雨林も今や豊かに栄え、海洋汚染も空をかげらせる浮遊粒子状物質汚染もない。熱波も暴風雨も飢餓も遠い昔のことだ。すべて、男性の衰亡すいぼうとともに人新生じんしんせい終焉しゅうえんげた後、女性のみの手で長い年月をかけひとつずつ地球ガイアを修復した結果である。

 ああ、よかった。こんな穏やかな日常で。いつも空に虹が輝いているようなやわらかな世界にいられて。

 歴史の教科書の中で語られるところによると、かつて人類は争いを繰り返し、殺戮さつりく兵器を開発しては大量虐殺を行っていたという。フェミサイド女性であることを理由に殺害されることの章はほんとうに怖ろしかった。


 そのようなことを思い巡らせながら、街の片隅にあった書店で買い求めたばかりの本を開く。遥か昔、まだ男性という種が存続していた頃の小説や詩集を、電子データから復元した書誌である。発禁ということではないものの、それらは今やほとんど省みられることはない。データは場所を取らないから邪魔にもされない程度の扱いだった。
 指先に触れる、少し黄ばんだ紙の質感、風変わりな匂い。透けたような虫がページの合間からすっと姿を消していくのを目で追う。なにもかも忠実に再現されているそうだ。

 かつて、半分もの人間が男性だったことを実感し、目を丸くする。しかも、男性によって書き残された物の方が、どうやら多いらしいのだ。このひとたちは何を考え、なにを欲して繁栄し、それから自滅したのか。なぜそれらを執拗しつように書き残したのだろう...そんなことを思いながら、そこに書き記されたあまりにもドラマティックな人生、めくるめく恋愛たんなどを、なぜか胸苦しい思いとともに読み進めていく──。

 やがて、女性は、本を静かに閉じた。人魚の身ごなしでしなやかに立ち上がる。
 店番をしている幼げな少女に目で微笑むと、柔和で華やかな大通りを横切り、石畳いしだたみにヒールを鳴らしながら緑滴る敷地をまっすぐ奥へと向かった。赤い実をいくつもらせたりんごの木のそばを通って。
 ガラスのエレベーターで最上階に上がる。ガイアに抱かれた緑の地平線を見晴みはるかす研究室である。資料保管庫のロックを解除し、保存されている"男性遺伝子パッケージ"を取り出す。はるか古代に冬眠処理をほどこされたY染色体のサンプルから、彼女自身が取り分けておいた塩基えんき配列である。
 謎めいたまなざしで、透明な液体に浮かぶパールグレイのもやをしばし見つめた。
 これから、SRY遺伝子マスタースイッチを入れ、人間の男性と成るべく細胞分裂の岐路きろを曲がった小さな細胞の塊を、シャーレゆりかごの上に再創造するのだ。もはや、Y染色体に頼らずオスを生み出すよう進化したモグラレミングのように、あらたな染色体に乗り換えた"男性"の胎芽たいがを。

 長く慎重な操作の後、女性はピペットを培養ばいよう液のビンの脇に置き、甘やかに微笑んだ。
 試験管を目の高さに持ち上げ、あやすように優しく揺らす。うすももいろのやわらかな唇が、さざ波の優しさでこう告げた。

「あなたの名前は、アダムよ。あなたの脳には、かつての男性たちが書いたものすべてを読み込ませてある。細胞分化のスピードを操作してあるから一年もすれば立派な男性になるわ。その暁には、私と語り合い、愛し合いましょう。お互いに、心ゆくまで。私は人間のすべての姿が見たいの。たとえ、あなたの子種が世界に衝動と支配と戦乱をもたらすとしても、愛と祈りがあるなら、私はそこを楽園エデンと呼ぶわ──」




🌿 ふつうの「読書感想文」(約1,200字)


ヒトは発生段階初期にはすべて女である。
そのうち約半数は、妊娠6週目に、SRY遺伝子スイッチによって、男に作り変えられていく──。

男性のY染色体は息子にのみ受け継がれ、女性のミトコンドリアDNAは娘を産むことによってのみ引き継がれる。

ある夫婦に男児が生まれれば、父系のY染色体が生き延びる代わりに、何百世代にもわたって母系で受け継がれてきた母親のミトコンドリアDNAは絶える。その逆も同じ。
そういった究極のオセロゲームが、子どもがひとり生まれるたびに、繰り広げられているのだそうです。

2020年刊ブライアン・サイクス『アダムの運命の息子たち〜遺伝子が語る人類の盛衰』(原題Adam's Curse/アダムの呪い/ 2003年刊)は、遺伝子から見た、生物としての人間の性選択、自己複製について記した本です。
猪突猛進で荒々しいのに虚弱なY染色体、おしとやかなようで実は隅から隅までしたたかなミトコンドリアDNA。

アダムとイヴ、それぞれの命脈をつなぐための壮絶な生存闘争。
有性生殖という枠組みの中で、Y染色体とミトコンドリアDNAは、子孫に遺伝子を渡すためには互いを絶対的に必要としつつ、アダムは息子のみ/イヴは娘のみを欲し、遺伝子を残したがる。
魅かれ合いながら淘汰しあうという究極のパラドックスは、どんな恋愛小説を読むよりスリリングでタフだと思う。

求め合い反目しあう遺伝子は、一方では"幸せな家庭"のような男女間の融和を描きながら、他方ではスパイ映画での男女の駆け引きを生み出しもする。


人間という種の保存のためではなく、自分という遺伝子を残すために、ヒトは欲求を持たされ、行動させられているのだそうです。

農耕の発明を契機に、男性が主導権を握るようになり、父系社会を築き上げていった経緯が、生物学的な男女の違いに基づき、詳説されています。メスを得るためにオスが富や権力を求め、オス同士の競争が激化、互いに殺し合うだけでなく、地球環境から搾り取れるだけ搾取する、という構図。それが、本書のなかで《アダムの呪い》と呼ばれているものです。(ちなみに、豊かなオスを好むメスのせいとも言えます。)


産業革命よりも、核よりも、インターネットよりもAIよりも、なお農耕のほうが決定的。今となっては不思議な感じもありますが、どうやらそれが本当のところ、のようですね。ハラリ『サピエンス全史』も思い出しつつ…。
原発や核兵器を廃絶することができたとしても、科学技術を白紙に戻すことができたとしても、たぶん農耕(=所有)はやめられない。それは、持たざるものを欲するという、良くもあり悪くもある人間の基本的な欲求そのものだから。

女があり、男があり、そして成るべくして今の世となった、という、壮大な進化生物学の縮図を手にした心地でした。

ちなみに、この短編は、私個人の男性観・女性観ではなく、あくまで本書『アダムの運命の息子たち』の世界観に基づいていることを申し添えておきます。



🌳 あとがき(約1,200字)


上掲書には、男性消滅のシナリオまでは書かれていますが、その後については「読者の想像にお任せする」とされています。遺伝学の本なので。

それで、未来図を想像してみました♪
何年か前に行った、広島市にある放影研放射線影響研究所のオープンデイ「カボチャのDNAを取り出してみよう!」ブースのことも思い出しつつ。DNAは、白っぽいモヤモヤだったの。おもしろかったです(^^)/ 実験室の薬品の匂いもちょっと好き( 〃▽〃)

ですが、皆様が、本を読んでいない状態でこの短編を読んだら、どういう印象になるのかわからなくて。心配になったので、noteのAIさんに"まとめ"を作ってもらったところ、少なくとも私の意図通りのストーリーではあることがわかったので、(おもしろいかどうかは人工知能のあずかり知らぬ「感情」の地平ながら)掲載することにしました。

なお、本から得た設定を少し述べておくと。イヴさまの暮らすこの未来では、人工的な生殖を行っています。卵子から取り出した卵核を、別の卵子に受精(受卵?)させることにより、両親(女-女)から一対ずつ正常な遺伝子セットを受け取ることができ、全く正常な女児を誕生させることが(理論的には)可能なのだそうです。もしそこに男性がいれば、"昔ながらの方法"で身ごもることもできる。──クローンではないので多様性も確保され、長期的に種としても強い。
(ということは、現代社会でも生殖医療がさらに発展すれば、レズビアンの方々はおふたりの遺伝子を引き継ぐ女の子を得られるということになります🙌)
結局、胎盤があるほうの性が、生き物として強いのかもね……。
もっとも、純粋に生物学の見地から見ると、妊娠出産授乳による消耗は、生物にとって"リスク"以外の何物でもないということにもなるそうですが...。次世代に遺伝子を引き渡すということに関しては、男性の方が圧倒的に負担が軽いですものね。

それにしても、世界中が女子校になったら、それはそれで楽しいかもしれません。(男性の皆さまごめんなさい💦)


今回は生化学者のイヴ。
イヴさまのセクシーぶりをしれっと書くのはとても楽しい.・:*♡
男性のいない世界になったら、より地味になる人とあでやかになる人が出てきて、幅が広がるだろうと思います(なんのために装うのか、ということ)。個人の好みだけでなくマナーもゆるやかになりそうですね。
あと、リップも淡い色になりそう。健康さ(=子孫を産む能力)をデフォルメしなくてもいいから。

小道具として林檎は書きましたが、蛇はやめておきました。りんごのカラメリゼミルクの代わりにハブ酒でも呑んでもらったらよかったのか・・・(手元が定まりませんが)


とあるイヴに、人類の歴史を変えるほどの強力なスペルをかけられる文学作品があると私は思っていて、それこそがアダムなのじゃないかなあと思うの。
全男性の叡智と愛と野心を引っ提げて現れたアダムに、イヴさまがどう対峙するのか、なんだか気になってきました💓


さてさて。すっかり長くなって大変恐縮でしたが、ここまで読んで下さってありがとうございました。



🍎 西洋画ギャラリー 〜 描かれたイヴ


うまく探せなかったので、Wikipediaから。個人的な印象ですが、アダムやイヴが好んで取り上げられていたのは古い時代で、ある時期からマリアさまや聖家族、そして次第にマグダラのマリアなどの使徒、さらにはサロメのような傍流へと画題が変わっていったのかもしれません。時代が混迷の度を深めるにつれ...。

イヴさまのイメージは2番目が近いのですが、タイトル画像は髪の色で選びました。肌の色に注目するのもおもしろいです。

" Eve "  by Pantaleon Szyndler, 1889
"Eva " by  Viktor Karlovich Schtember


Gustav Klimt: "Adam und Eva"


Franz von Stuck " Adam amd Eve "


William Blake: Eve Tempted by the Serpent detail
(ファンタジー小説みたいなブレイクの絵💕)


ラファエロの「アダムとイヴ」@バチカン宮殿



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