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闇でもがく少女

顧問 神様
3年生 貴族
2年生 人間
1年生 奴隷

強豪校にありがちな部活内のヒエラルキーは、私の所属していたソフトボール部にも存在していた。年齢がたったひとつやふたつ違うだけで、身分が変わる。今考えれば理不尽極まりない話だが、当時は誰もその空気に異を唱えるものはなかった。

私の通っていた公立中学校は部活動が盛んな一方、市内でも指折りの、地域住民や警察までもが警戒するほどのヤンキー培養校だった。現在も半グレ組織として名高い、某◯◯連合という名称も、一般生徒である私ですら日常的に見聞きしていた。
ソフトボール部にはそちらの世界に片足を突っ込んでいる、または候補生となりそうな部員が何人かおり、なにかあるたびに下級生を呼び出し→シメる、という流れができていた。

私たち1年生は入部時に、2年の先輩たちから、登下校時や校内で先輩の姿が見えたら先輩1人につき3回挨拶するようにと命令された。

例えばそこに先輩が3人いたら

「こんにちは、こんにちは、こんにちは、
こんにちは、こんにちは、こんにちは、
こんにちは、こんにちは、こんにちは」

合計9回、張り子の虎のように首を振り、挨拶を呪文よろしく唱えなければならない。1回でも怠ると、あとで呼び出されて説教される。
だが実際やってみると、挨拶した先輩のほとんどは、私たちの顔も見ずに無言で通り過ぎる。10人ほどいた3年生の先輩はたまに挨拶を返してくれたが、20人ほどいた2年の先輩はそろいもそろってシカト(注:当時の用語で“無視”の意)した。

なんだこの意味のない制度は。人をバカにするにもほどがある。
屈辱に震えながらも、私にはこのぶざまな儀式を続けざるをえない理由があった。

一度、部室前で道具を出す準備をしていたときに、見ず知らずのヤンキー3年生女の集団に「おいそこの、ちょっと来い」と呼び出された。彼女たちが壁のように立ちはだかっている場所に行くと「てめえこのまえ、音楽室からウチらにガンたれて(注:当時の用語で“睨むように見る”の意)ただろ」とまったく身に覚えのない話をふっかけられた。私は頭から冷たい血液が下りてくるのを感じながらも、震え声で「やってません。私じゃありません」と否定した。すると「やっててもやってないって言うよね、ふつう」とさらに濡れ衣を着せられた。私は脅迫めいた冤罪の取り調べに意識が遠のきそうになりながら、最後まで否定し続けて解放されたが、“謝りもしねえソフト部の生意気な1年”というレッテルを貼られた。その後ソフト部の半グレ風の先輩から私が卒業リンチ(注:当時の用語で卒業式前に後輩をリンチするという儀式)のリストにピックアップされたという情報を聞いたので、自分の命を守るために、これ以上目立つわけにはいかなかった。

その年の3年生は市大会で優勝するほどレベルが高かったのだが、2年生は数だけはいるが練習を真面目にやらず、総じて下手だった。そのため小学校からの経験者であった私を含む数人は、1年生の早い時期に他校との練習試合に出してもらえることになった。

初めて試合に出る日、試合前の挨拶に行く準備で整列していた。試合に出ない部員は、スタメンの後ろに並んで立つ。

「調子に乗ってんじゃねえよ」

背後から、明らかに私の背中に向かって放たれた声がした。すぐに審判の「集合!」の声が聞こえたので、振り向く時間も勇気もなかった。


卒業リンチもなんとか回避して命からがら2年生になったとき、他の同期たちと相談のうえ、新入部員の1年生たちに、私はこう言った。


「3年生には1人につき3回挨拶するのが決まりだからやってほしいんだけど、私たち2年生には普通に1回挨拶してくれればいいからね」

どこから情報が入ったのか、すぐさま私は3年生(旧2年生)の先輩たちに呼び出された。

「なにいい子ぶってんだよ。調子に乗ってんじゃねえよ」

私は目線を落として黙ったが、決して謝らなかった。“いい子ぶってる”ておかしくないか? 自分たちが悪いことしてるって暗に認めているようなものだ。もう一度言うが、生まれた時間がたった1年や2年違うだけで、なぜこのような差別や屈辱を受けなければならないのだろうか。先輩に聞いたところで、きっとこう言うだろう。

「だってそれが規則だから」「今までずっとそうだったから」

動かせない階級、まさにカーストである。“3回挨拶”は権力の象徴で、自分が通るところに平身低頭する下級生という名の奴隷を見て、実力関係なく(私は既にその頃レギュラーだった)自分の立場が優位にあることを確認するという、既得権益のマーキングをしたいだけなのだ。実にくだらない。


夏の市大会で早々に負け、やっと3年生が引退すると、顧問が代わった。今までの顧問は多少頼りないところはあるけれど、数学科の教師らしく理論的で声を荒らげることもない男性教師だった。新しい顧問は、この春体育大学を卒業したばかりのSという体育科の男だった。

すぐそばの屋外コートで練習している女子バレーボール部の顧問Yと同じ大学出身ということで、SはYのことを慕い、付き従い、妄信している雰囲気がはたからみてもよくわかった。

Yの指導は運動部のなかでも群を抜いて厳しく、バレーコートからは毎日怒号が聞こえ、ミスした部員を棒立ちにさせ、至近距離から顔めがけてボールを打ち込むという暴力を日常的にはたらいていた。そのため、バレー部の子たちはいつも顔に青あざや赤くはれた跡があった。
バスケットボール部も似たような感じで、試合中に女子部員の顔めがけて椅子を投げる男性教師が顧問で、女子バスケットボール部には部活の時間が近づくとパニックを起こし登校拒否になった生徒までいた。

いずれも今だったら動画がSNSで拡散されたり親が教育委員会に訴えたりしてすぐに大問題になるケースだが、昭和末期の部活動が盛んな学校はどこも似たようなものだった。
生徒たちはみな、高校進学にかかわる内申点のために黙認を余儀なくされ、または洗脳されて精神的余地を奪われ、抗うことができなかった。

それでも私は彼らのそのような暴挙に対して、強烈な嫌悪感と怒りを感じていた。一般の生徒に暴力的な態度をとる教師は例外なく、ヤンキーたちにはご機嫌取りをして甘い、という指導の一貫性のなさも、その思いに拍車をかけていた。

新顧問のSは、日に日に態度や言葉遣いをYに寄せていった。目障りな上級生がようやくいなくなり、厳しい練習ながらも後輩たちと一緒にがんばることでやりがいのあるものになっていた部活動の雰囲気は、いつしかすっかり変わってしまった。

スポーツの練習は、気合や根性ではなく合理的な理論でやるべきだと私は思っていた。実際、小学校のときに入っていたチームの監督はそうした指導で、私たちを県大会優勝まで導いてくれた。
上達するための因果関係があれば、練習が体力的に辛いものであることに異論はない。Sは体育大学で何を専攻していたのかは知らないが、とにかく気分で怒鳴ったり、ミスをした罰として外周などの練習を課す男だった。

小学校から一緒にやっていた仲間はひとり、またひとりと退部していった。Sは今でいう“イケメン”だったせいか、彼を慕う一部の部員たちはなにも疑問を持っていないようだった。

ある日、内野シートノックの最中、私の反応が一瞬遅れてしまった。もともとSの声は細くて聞き取りにくく、他の運動部も一斉に活動しているこの時間帯は、あちこちでいろんな音や声がしてさらに聞こえづらい。私は自分の番だと気づかなかったのだ。Sの打った打球は私の右側を通り過ぎ、外野方向へ抜けて転がった。

「なにやってんだ!」
「すいません!」
「もうおまえのとこには打たねえからな!」

本当にそれ以降、Sは私のところにノックは打たなくなった。
日常的に私が注意散漫な態度でいるなら完全に私に非がある。しかし、たった一瞬、一度のことで私を練習から排除する権利が、この男のどこにあるのだろうかと私は考えた。
私はバレー部の子たちのように、「帰れ! もうやめちまえ!」「いやです! やらせてください!」などという茶番を演じるのはまっぴらごめんだ。SがYを真似てそのような流れにもっていこうとしているのは明らかだった。

やってもいないことは、やっているとは言えない。
悪いと思っていないことは、謝れない。
私は、Sが思っているほど単純でもバカでも子どもでもない。
それなのに今、私にはこの状況を変える権力がない。

悔しかった。悔しくて悔しくて、もどかしかった。
数日後、私はソフトボール部を辞めた。


大人になって社会に出てから、この部活動で経験したこととよく似た理不尽が、笑えるほどたくさんあった。最初は「これが社会ってもの、ここを黙ってやり過ごすのが大人ってもの」などとかっこつけていた。しかし経験と年齢を重ね、周りが見えるようになり、私の考えは変わった。というより、原点に還った。

おかしいことにはおかしいと声をあげ、交渉し、理不尽な要求は相当の対価を要求するか、きっぱりと断り、非合理的なシステムは合理的に変えていくべきだと思う。
だがそのようにもちかけると、私より上の立場や性差別的な考えの者はたいてい、「こいつめんどくさいやつだな」という態度で私を見る。結果、意見や提案はことごとく無視され、聞いたことのあるパワーワードでねじ伏せられる。

「だってそれが規則だから」「今までずっとそうやってきたから」「それも給料のうちだから」

彼女ら彼らはそうやって「しんどい、忙しい、疲れた」誇りながら物事を推し進め、我々にも遠慮なくその価値観を押し付け負荷をかけ続けていく。

何十年経とうが、どれだけ声をあげようが根本的に変わらない、変えようとしない、大多数の黙って損するお人よしの支えで成り立つ社会は、義務教育の段階から既に刷り込みが始まっていたのだった。

私は今なお、先輩を恐れずもっと交渉して部内のおかしな習慣を完全撤廃させられなかったこと、バレー部の顧問Yに体当たりしてでも生徒への暴力行為を止めなかったこと、ソフト部の顧問Sにもっと理論で向かっていかなかったことを恥じ、後悔している。

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