見出し画像

性、家庭と社会【カトリック社会教説】

男女の違いはなんのためにあるの?家庭にとって、社会にとって、人間の「性」にはどんな意味があるの?

教皇庁正義と平和評議会がまとめた『教会の社会教説綱要(2004年)』の中に、「性の社会的意義」に関する解説を見つけることができます。カトリック教会は社会の中で、真正で連帯に基づくヒューマニズムを促進することに努めていますが、その原動力となる教会の教え、人間理解と基本原則を示す文書です。 

第5章「家庭――社会の生きた細胞」の中に、夫婦愛の定義、性差異の意義、性差と社会の調和の関係、自然法と実定法の関係などが説明されています。以下、「結婚」と「性差」の意義に関する箇所を抜粋して掲載します(副題追記。リンクは文末)。

***

抜粋「家庭の社会的主体性―― a 愛による共同体の形成」

個人主義のただ中で

221 社会はますます個人主義になりつつあり、その状況では、一致が強く必要とされています。家庭は、その一致をもたらす場として存在し、やむことのない愛のダイナミズムによって、真の共同体を成長させるものです。その愛のダイナミズムは人間の経験の根本的次元であり、家庭はその実現にとって特別な場となるのです。「愛は自らを純粋に与えて自己を実現するよう人間を導きます。愛するとは、売り買いすることはできないが、しかし自由にまた相互に与えることのできるものを与え、そして受けることを意味します」。

愛は婚姻と家庭の意味を定義づける基本的なものであり、愛によって、個人すなわち男性と女性はその尊厳において認められ、受け入れられ、尊重されるのです。愛から、報いを求めることのないきずなが生まれます。それはつまり「おのおのの人格の尊厳を非常に大切な価値として認め深めながら、互いが心から受け入れ合い、出会い、対話し、無欲に尽くし合い、広い心でいたわりあって深いきずなをかたちづくっていく」関係のことです。こうした精神で生きる家族の存在によって、完全ではないとしても、かなりの程度まで、効率と有用性のみ重んじる社会の欠陥と矛盾が浮き彫りにされます。家庭の内外において、人間関係のネットワークを毎日作って生活している家族は、むしろ「社会生活の第一のかけがえのない学習の場であり、尊厳、正義、対話そして愛によって特徴づけられた広い共同体的なさまざまな関係を築いていくための手本」として位置づけられます。

夫婦愛とは

223 人間は愛のために造られ、愛なしで生きることはできません。二人の人間が相互に補完し完全にささげ合うという形で愛がはっきりと示されれば、愛は感情や情念、ましてや性的表現のみになり下がることはありません。愛と性の経験を相対化し、空洞化する傾向がますます強くなっている社会では、性のはかない側面が称賛され、その基本的な価値が見えにくくなってしまっています。そのような傾向にある現代社会においてこそ、一致と忠実を前提に、互いが最大限にすべてをささげ合うところに夫婦の愛と性の真実が存在することを告げ知らせ、それをあかしとすることが急務です。この真理は喜び、希望、いのちの源泉であり、人が相対主義や懐疑主義の殻に閉じこもっているかぎり、把握することも到達することもできないものなのです。

性の真実

224 性の真実の意味に言及せず、人格における性的アイデンティティを無視し、性的アイデンティティを共同体と個人の関係から生まれた単なる文化や社会の産物としか見なさない理論に対して、教会はその教えを主張し続けます。「男女はそれぞれ自分の性の独自性を認め、受け入れなければなりません。男女の身体的・精神的・霊的相違と補完性とは、結婚善と家庭生活の開花とに向けられています。夫婦や社会の調和ある部分は、両性の間の補完性、依存性、そして相互扶助がどのように生かされるかに懸かっています」。この視点に立てば、実定法を自然法に適合させることは義務です。そして、自然法によれば、性的アイデンティティは、婚姻における夫婦を形成するための客観的な条件として必要不可欠なのです。

「事実婚」がもたらす、結婚に関する誤った考え

227 次第に増えつつある事実婚は、個人の自由と選択についての誤った解釈と、結婚と家庭についての完全な個人中心的な見方に基づいています。結婚は、単なる共同生活への同意ではありません。子どもを育て、その教育を行う場である家庭は、人間一人ひとりの全人的成長のため、また社会生活への積極的参画のための基本的手段となるがゆえに、他のあらゆる関係と比べて特別な社会的次元を持つきずななのです。

本来あるべき家庭の姿は、いつ終わるか分からないような関係においては成立することはできず、婚姻に基づく永久の結合においてのみ成立するものです。そして婚姻とは、生殖に向けられた完全な夫婦の一致を含む、相互の自由な選択に基づいた、男性と女性の契約です。結婚と「事実婚」が法の下で平等になるとすれば、家庭の模範への信頼喪失につながるでしょう。

「同性婚」の不条理

228 事実婚に関連する特殊な問題として、同性愛者の結合に法的承認を与えよとの要求が挙げられ、この問題はますます公の議論の対象となっています。社会にとっても教会にとってもさまざまな意味合いを持つこの問題については、人間を十全に理解する人間論によってのみ、適切なこたえを示すことができます。こうした人間論によって、「同性の人同士の結合に『結婚』という地位を与えることの要求が、いかに不条理なものであるかが明らかにされます。まず、人間の構造そのものにおいて神が明記された計画により、生命の伝達を通じて結婚生活が実を結ぶことが客観的に不可能であるため、その要求は否定されます。また、創造主が望まれた男性と女性の間で、身体的、生物学的に、そして特に心理的に人間同士が補完性を持つという条件がないことも障害となります。性の異なる二人の結合においてのみ、身体および心理の相互補完性と他者との一致を通して個人としての完全性を達成できる」ことが明らかとなります。

同性愛者は、貞潔の実践への特別の注意をもって神の計画に従うよう励まされながら、人間としての尊厳において完全に尊重されなければなりません。この尊重は義務ですが、道徳律に反する行いの法制化を正当化するものではなく、ましてや同性同士の結婚の権利を承認し、その結果として彼らの結合を家庭と同等化することを意味するものでもありません。

「法的観点から、異なる性を持つ二人の婚姻が、婚姻の可能性の一つに過ぎないと見なされるならば、婚姻の概念は、共通善の深刻な崩壊を伴う根本的な変化を被ることになるでしょう。同性愛者の結合を、婚姻や家庭と同等の法的基盤にのせることは、国家が独断的に行動し、その義務に反することを行っていることになります」。

社会の基盤である家庭を守るために

229 家族の中核をなす人たちは、その連帯によって社会における共同生活の質のために非常に重要な役割を果たします。したがって、市民共同体は、その根底にある基盤を危うくする不安定さをもたらす動向の前で無関心のままではいられません。法は倫理的に受け入れられない振る舞いを容認することが可能な場合もありますが、本来、家庭の唯一の形である不解消の一夫一妻制の結婚のみを認めるという態度を決して弱めるべきではありません。それゆえ、政府当局が、「社会を分裂へと導き個々の市民の尊厳と安全と福利を害するようなこのような傾向に歯止めをかけさせ、世論が結婚や家庭の制度としての重要性を軽視することのないよう努力」することが必要です。

社会やキリスト教の共同体の善を心に留めるすべての人は、「家庭は、単なる法律的・社会的・経済的単位以上のものであり、愛と連帯の共同体であり、社会とその構成員の幸福と発展のために本質的な、文化的・倫理的・社会的・精神的・宗教的諸価値を教え伝えるのに、もっとも適している」ものだということを改めて肯定しなければなりません


出典:『教会の社会教説綱要』(邦訳2009年、教皇庁正義と平和評議会)

文書へのリンク:Compendium of the Social Doctrine of the Church
※英語版は以下のリンクでお読みいただけます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?