見出し画像

ムードメーカー

この前5・6年ぶりに幼馴染の「ユウキ(※前記事参照)」に会った。

積もった本を整理するような、話を一つ一つ徐々に消化していく感じではなかった。彼の仕事の話とか、ワールドカップが熱かったからサッカーの話をしたりしてサラッとあっと言う間に楽しく終わった。お互い野球をやっていたのに、今じゃ野球の話は少しも無くて、サッカーの話ばっかりだ。面白いでしょう?

ここではサッカーの話ではなく、ぼくが話したいのは野球の話なので、ユウキとぼくとを語る上で切り離せない野球の話を書き記していきたい。

小学校3年生の頃からぼくはユウキの所属する野球チームに入った。
本来野球がやりたい少年は自分の通う小学校を練習拠点にしている野球チームに入るべきなのだろうが、ぼくの小学校には野球チームが無かった。なんなら隣の小学校にも無かった。同じ学年にも野球をやってる子はいなかった。一つ上の学年にもいなかった。サッカーなら何人かいたのだけれど(笑)
ぼくの小学校の子がよく入るチームは一つ強豪チームが隣町にあったのだが、なにしろそのチームに入っている知り合いが一人もいなかったから、ユウキのチームに入るのは自然なことだったのだと思う。母親も親同士の知り合いがいるのといないのでは安心具合が全く異なるからだ。

ケイ少年ことぼくは(前にも書いたが)野球が下手だった。何しろ身長が低い。3年生にして確か120㎝程しかなくて、ガリガリで、足も遅い。バットを振れば「バットに振られてる」感じで、球を投げれば「ぷりーん」と山なりで変なカーブのかかった球を投げる始末だった。
しかし、大きな声で「ばっちこーい!」といつも取れない打球を待っていたし、いっつもヒットが打ちたかった。みんなぼくには負けたくないし、コーチは元気な野球少年が好きだった。そう、ケイ少年はチームのムードメーカーであった。
外野フライを一つ取ればみんなは大盛り上がり。ヒットでも打とうものならベンチは狂喜乱舞だった。
4年生の終わりごろだったか、練習試合で同期の上手いユウキ(めっちゃ足速い)を差し置いて4年で唯一スタメンで出た試合はなんとなく覚えている。「えっ、ぼくでいいの?!」って感じだったと思うが、帰ってから親に「今日スタメンだったよ!」って報告したのはとても誇らしかった気がする。
ムードメーカーは劣勢の試合でも諦めずに率先して「ヘイヘイ声出していこうぜーい!!」とか言うので、エラー一つで試合展開がコロッと変わる少年野球において監督とかコーチは意外とそういう「ヘタクソ枠」みたいなものに期待をかけていてくれたのかもしれない。ユウキとぼくのチームは区の中でも強さは中堅といったところだったのでそれが奏功したのはあるだろう。これが隣町の強豪チームだったら、いくら声を張り上げていてもそれはずっとベンチからだったかもしれない。やっぱりグラウンドの中でプレーするのが楽しいのだ。

学年が上になればなるほど存在感は増す... わけではなかった。
ずっと「ヘタなムードメーカー」だった。身長は全然伸びず、ちょっとぽっちゃりしたけれども、パワーがついたわけでもなく、足はずっと遅かった。(腰をケガしたのもあったけれど)
それでもコーチたちは大体スタメンで送り出してくれていたし、チームはちょっとずつ強くなっていった。たまに強豪チームを倒す”ジャイアントキリング”をしたり、有望な後輩選手もいた。
ケイ少年はそんな中でちょっと野球好き属性を発揮して、「ストレートとスローボールを投げ分けるピッチャーのクセ」を試合中に見抜いたり、相手の守備の隙をついて好走塁を見せたり、(でも相変わらずフライは落としたり、油断して牽制でアウトになったり...)なんかキャラの濃い「ヘタなムードメーカー」になったりしていた。チームの引退式の時には「この子は指導者の素質がある」とか、まだこっちは中学生でも野球を続けたいのに「いや小学校で引退勧告かい!!」って感じの出来事もあった。

一方、幼馴染のユウキはチームの中では結構才能のある選手だった。とにかく足が速くてヒットもすごい打つ。クールなオレ様系の雰囲気があり、副キャプテンではあったけど、後輩も彼に接するのはぼくより緊張してたような気がする。なんとなく、同期の中でもそれは同じで、ピラミッドの一番上のような感じがあった。ユウキは怒らせてケンカにでもなったりしたら大変だ、というような。
ぼくとの関係はずっと良かった。土日に練習や試合があり、ぼくの家は少し遠いので、週末はほぼユウキの家に泊まりだった。いつも二人でパワプロ(野球ゲーム)をしたり、ユウキの漫画を読んだり、練習後にチームの仲間と遊ぶ時にもユウキに付いていった。ぼくは必然的に「チームは同じで違う小学校の友達」という感じだったのだが、何人か野球チームにいないユウキたちの小学校の友達もできた。何しろ、風呂に入る時も一緒で小4くらいまではベッドも同じだったのだから、もうほぼ兄弟同然の関係だった。
ユウキは野球におけるぼくに関しては「お前ホント下手だよな~。まぁムードメーカーだから貢献してるとは思うけど。」という感じで認められているんだかいないんだか、という感じだったが、何となくクールな奴だったユウキとチームとの間でぼくは緩衝材的な役割があったと思う。
『おおきく振りかぶって』の榛名と秋丸の関係で例えると分かりやすいかもしれない。

チームの大会後の打ち上げの席で酔ったコーチに顔をもみくちゃにされながら「お前は優しいよな~」と言われたことがある。その時は一体何のことだかよく分かっていなかったけれども、今はなんとなく分かる。
「ヘタなムードメーカー」というのは周りから馬鹿にされているような認められているような、絶妙な立ち位置となって周囲に影響を及ぼしている。
例えば、キャプテンの奴はチーム内では4番ピッチャーだし一番上手かったのだけど、選手としてタイプの違う副キャプテンのユウキにはちょっと頭が上がらないところがあった。しかし、ぼくには「お前さあ、今のはさあ」とか「ケイ、盛り上げろ!」とか強めに出れるので、キャプテンとしての威厳を保つにはぼくを使えばキャプテンへの良いアシストができる立ち位置だったように思う。後輩からは先輩だけど友達のような扱いを受けていた(しかもなんだかんだぼくの方が野球も大体の後輩よりも上手かったりした)から、何となくチームの輪を作る上でも「ムードメーカー」であったのだろう。良くも悪くもいじられキャラである。
だが、大人であるコーチたちが「お前は優しい」と、チームの中で重要な存在だと認めてくれ、試合にも出してくれたのがぼくにとっての救いだったのだと思う。
少年野球は楽しかった。夏になるとアスファルトの陽炎の中をいつも自転車で駆けていった風景を思い出す。ぼくにとっては何でもなかったけど、母親にとってはそうやって4年弱の間一つのことを頑張った(片道2㎞弱を通っていた)ことが嬉しかったようで、引退式のコメントの時にそんなことを言って泣いていた。

ぼくはそんな少年野球時代をすごしたのち、中学校になってユウキたちとは袂を分かち、キャプテンとして彼らとは違うチームで野球を続けていったのです。

おおきく振りかぶって、めちゃくちゃ好きなんですけど30巻いつ出るのかなー。てか1年に2巻ってすごいペース。いつも待ち遠しい。

#日記 #エッセイ #野球 #baseball #思い出 #少年 #幼馴染 #少年野球 #おおきく振りかぶって

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?