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書くことはアーティスティックな表現

最近、小学生の頃に書いた文字をたまたま見つけ、見ていた。

(これが何の機会に書かれたものか記憶にないのだが...真面目すぎて面白みのない詩だと我ながら落胆…)

この頃は、好きな女友達がこんな字体の文字を書いていた、あるいはクラスで流行っていたのだろう。
原稿用紙のマス目いっぱいに書かれたような字体の文字。

確か丸文字も流行ったようにも記憶しているが。

この字体の文字を書く、ということが誰か、何か、何者かになれると思って書いていた。
こういう“流行り”の文字を書いて友達と繋がる感覚。

つまりは特定の字体の文字を書くということが「アイデンティティのカケラ」であったということになる。

・・・

学生時代を過ぎると、極端に「書く」という行為が減る。もはや大切な書類にサインをしたり、届出のために必要事項を記入したり、といった事務的な必要性に迫られてしか書くということをほぼしなくなったと言っても過言ではない。
小学校の頃のように、文字を書くことで誰かと同じだと思ったり、字体が一緒の字を書いて繋がっていると思う感覚もなくなってきた。

ただ、書くことが少なくなった大人の今、私の中では書くということがすごく重みを増し、昔よりも大切な行為になってきた。

以前書いたこの記事
ジャーナリング...とは違うのか?の通りである。 ↓

なぜこんなに私は手書きをするということを意識的に行いたいと思うのか。今までは考えたこともなく、なんとなく、書きたいから書いていた。
が、改めて考えてみると、これが私の一つの表現方法でもあり、気持ちの込め方なのではないかという答えに辿り着いた。


そんなことを思い出していた時、NHKのデザイントークスという番組がやっていたのをタイミングよく見た。
文房具に精通している高畑正幸さんという方がこんなお話をされていた。

誰かに対して文章を書くのに、例えばそれがメールという方法だと、極端な話、“誰が” あなたに書いたものかはわからない。送ってきた相手になりすましてでも送れるからだ。
でも同じことを手紙で書いて送られてきたらどうか。それは確実に相手があなたに送り届けたくて書いた言葉と文章だ。
わざわざきちんとした紙を用意し、ペンを取り、書くという行為をしてまで、あなたにそれを書いて伝えたかったというわざわざ感がより気持ちを伝える。
また書くという行為は、すごくゆっくりと書いた文字と、怒っていたり急いでいて書いた文字とは違い、それが書かれた背景、感情までもが表れる。

また英語などのアルファベットと違い、ひらがなや漢字は太く書くところ、細く跳ねるところ、力強く流すところ、といった強弱のメリハリ、違いが存在する。
画一的ではない。


たぶん日本語を書くということは、アルファベットを書くよりもどこか「描く」といった要素が多いのではないか。

単に何かを伝えたいため、事務的な必要性に駆られて書かねばならないというためだけでなく、そもそも日本語を書くということは、それ自体がアーティスティックな表現なのではないだろうか。

私が絵を描いてみたいと思うのと、字を無性に書きたいなぁと思うのとは、実はかなり似ているのかもしれない。

好きな本の一節をノートに写し取るときにも

単に写し取るというだけの“作業”としてだけでなく、書くことで何か癒しを得、外に向かって自分自身を開放している感じなのだ。

昔は、みんなと一緒になりたくて字の形を変えてみたり、何者かになりたくて好きな形の字を書いていたけれど、
今は良くも悪くも私に沁み付いている私というもの、つまりは個性そのものを外に向かって放出するが如く、字を書いているのである。

前述の高畑さんもおっしゃられていたように、字を書くということは相手を想うこと、そしてその時の感情をも字の書き方で表してしまうこと、といったように本当に奥深いものなのだと思う。

だからこそ、
大人になったことや、パソコンやケータイの使用で字を書く機会を減らしているからこそ、

手で書いてみることを意識的に行ってみてはどうか。

字を書くことを味わい、楽しみ、書くことで開放されていく感覚を味わおうではないか。

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