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アートって、実は懐が深いのかもしれない。【目の見えない白鳥さんとアートを見にいく】

最近、アートに興味を持ち始めた。
これまでも、たまに気になる展覧会があればふらっと見にいったりしていた。けど最近は、もっと能動的に、積極的に、アートに触れたいと思うようになったのだ。

きっかけは、川内有緒さんの『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』という本を読んだこと。


この本を読み始めて以来、わたしの中のアート熱とも言えるようなものが、大きく動き出すようになった。
そしてこの本自体のことも大好きになって、10/8に水戸芸術館で行われた第37回水戸映画祭にも足を運び、映画『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』の上映会にも参加してきた。


映画は、素晴らしかった。
文章だけでももちろん素晴らしかったのだけれど、映像になると、白鳥さんや川内さんをはじめとした登場人物たちのいきいきした様子がより伝わってきて、一緒にアートを鑑賞しているようなワクワク感があった。
本だけではわからなかった、白鳥さんの普段の生活の様子も映画には登場していて、上映が終わる頃には白鳥さんをより身近な人物のように感じるようになっていた。
これは間違いなく、今年観てよかった映画のひとつ。


●美術鑑賞のしかた

目が見えなければ、当然、目の前にあるアート作品を視覚的にとらえることができない。
けれど、白鳥さんは、目が見えなくてもアートを見にいく。

なぜ白鳥さんがアートを見るようになったのかについては本を読んでいただくとして、そんな彼がアートを見るときに取る方法は、「一緒に行った人と会話をすること」だ。

"それまで絵というものはひとりで見て、感じるものだと思い込んでいたけれど、言葉にすることで、自分の思考の扉がほんの少し開いたような──。" 
p.19より


"目が見えないひとが傍にいることで、わたしたちの目の解像度が上がり、たくさんの話をしていた。" 
p.20より



筆者の川内さんがこう述べているのと同じく、わたしも今までアートというものは、ひとりで静かに見て、何かしら心に感じたものをひとりで咀嚼するものだと思っていた。

自分の解釈が追いつかない絵や作品があって「なんだろうこれは?」と思ったとしても、自分の勝手な解釈や見え方を口にするのは恥ずかしいことだと思っていた。そんなことを口にしたら、周りにいるほかの人たちから素人だとバカにされたり、呆れられたりするのではないかと若干ビクビクしていたから。それに、美術館のような場所で他の人と話すことは御法度なんじゃないかと勝手に思っていたからだ。

けどそんな考え方は、この本に触れたことで、ボロボロとあっさり崩れ去った。

どんなに滑稽だったとしてもどんなふうに見えるか、どんなふうに感じるかというのは素直に口にしていいし、他人と意見を交わしてもいいと知った。
むしろそうすることが、目が見えないひとでもアートを楽しむきっかけになる。


"正しい知識がなくとも作品について自由に語る資格はあるのです、というのがマイティの「鑑賞道」である。" 
p.296より


アートに関する知識がなくても、素人でも、見たものについて自由に語っていい。
目で見るだけが美術鑑賞ではないのだ。


本のなかに、「美術と出会って楽になった」という話が出てくる。

"わたしたちは、自分に絡みついてくる常識や、女性、盲人、高校生、社会人など、押しつけられるステレオタイプや「べき論」から、自由になりたかった。そうして家や学校、職場を飛び出したとき、そこにたまたまあったのが美術館だった──。" 
p.305より


美術館は、どんな人でも平等に受け入れてくれる。敷居が高いと思っていたアートの世界は、実は誰にでも開かれていたのだ。美術は思ったより、懐が深い。


●分かり合えなくていい

"見えないひとと見えるひとが一緒になって作品を見ることのゴールは、作品イメージをシンクロナイズさせることではない。生きた言葉を足がかりにしながら、見えるもの、見えないもの、わかること、わからないこと、そのすべてをひっくるめて「対話」という旅路を共有することだ。" 
p.106より


"イメージを共有し、正解にたどり着くことは一緒に見ることの目的ではない。"
p.299より


目の見えないひとに対して、今目の前にあるのがどんな作品なのかを説明するのは、見えている自分とイメージを共有するため……。
本を途中まで読んだ時点では、わたしはそう思っていた。


けど、筆者の川内さんは、そうじゃないと言う。
正確にイメージを共有することではなく、対話をすることこそが大事なのだ、と。

そもそも、初めて見たものについてどんなに言葉で説明しても、自分と相手の脳内イメージが全く同じになることはほとんどないだろう。
頭の中は覗けないから、相手がどれくらいイメージできているのかを知る手段もない。

もし、相手と自分の脳内イメージが違っていたとしても、それでいいのだと思う。
大切なのは相手と交わした対話であって、どれだけ正確に分かり合えたかというのは関係ない。アートを通して、お互いに笑っていられる時間を作れればそれでいいのだ。

わたしは今まで、アートと関係ない部分でも、自分が見たものが正しく相手に伝わっていないと、少しモヤモヤしてしまうことがあった。相手が親しければ親しいほど、「分かり合える」ことを至高としていたように思う。
けど、正しく伝わることが必ずしも正義ではないし、解釈が多少違っていても、相手と笑い合えるならそれでいいなと思うようになった。



●その人がその人として存在すること

この本を読んで感じたのは、「その人がその人らしく存在できて、人生を楽しみながら生きていくこと」の尊さと、「自分らしく生きていくことを諦めなくていい」という大いなるエールだった。

白鳥さんは、最初に美術鑑賞をしようと思い立ったとき、電話をした美術館に断られながらも諦めず何度か頼み込んだそうだ。
その結果、目が見えなくても美術鑑賞ができるようになり、今ではその活動がライフワークになっている。

障害の有無にかかわらず、その人がその人として存在すること。ひとりの人間として尊重されて生きていくこと。
現実には残念なことにまだまだ差別が蔓延っているし、バリアフリーじゃない場所もたくさんあるけれど、ひとりひとりがそうやって生きていける世界が理想だと、強く思う。

白鳥さんの生き方は、全盲とは思えないくらい自由でアクティブだ。白杖をついてよく散歩に行くし、常にデジタルカメラを持ち歩いて写真を撮っている。
ハンディキャップを苦としない白鳥さんの生き方は、勇気と希望をわたしたちにくれる。

白鳥さんのように、障害のあるなしに関係なく、やりたいことを諦めないで、自分らしく生きるひとがもっと増えることを、切に願っている。

●映画について

今後、さまざまなイベントや映画祭で上映予定だそう。もしチャンスがあればぜひ、観てみてほしい。

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